このブログを書いている人は?

君島邦雄です。
第一次オイルショックの前年に、早稲田の第一文学部を卒業しました。
当時の文学部の学生というのは・・・と一般化してはいけませんが、少なくとも当時の私は世事にうとかったので、電通への学校推薦をもらいながら応募しませんでした。いずれ革命が起こったら広告代理店など存在できないだろうと本気で考えていました。後にもったいなかったと多くの人に言われましたが、いまもって残念とは思っておりません。
ジャーナリストになりたかったので新聞社に応募しましたが不採用。某ラジオ局では最終面接で落とされました。ただマイクテストではほめられました。出版社も軒並み落とされました。教授推薦の出版社の面接には遅刻しました。ラジオ局の面接で時間をとられたためです。教授の顔をつぶしてしまいましたが、そこに考えが及ばないその時の私でした。
たまたま新聞の募集広告を見て応募した外資系製薬会社に入社してコピーライターとなりました。医師向けPR誌の取材編集と販促資材の制作、社内報の制作などが仕事でした。そのうち、医師向け医薬品のマーケティングチームに加わるようになって、マーケティングを学びました。ここに18年。
1990年 大手医療機器会社に下っ端管理職として転職しました。初めは前と同じ医療市場向けの販促にたずさわりましたが、すぐに消費者向け広告業務に転じ、またすぐに広報の責任者に転じました。コーポレート広報、マーケティング広報、IR、社内広報など、広報のほとんどの業務を担当しました。PRの仕事は大いに気に入りましたが、最も時間をとられたのはIRでした。ここにも18年。
2008年、定年を1年残して広報エージェンシーの株式会社ココノッツを設立し代表取締役となりました。これまでに培ってきた医療の知識と広報の知識をかけ合わせて事業を興したいというのが動機です。人に使われたままで終わりたくないという思いもありました。
会社は少しも大きくならなかったものの、なんとか10年続きましたので2018年、代表取締役を退いて取締役会長という肩書きにしました。
その間、青山学院大学と早稲田大学でビジネススクールの講師をしました。準備が大変なわりに登録する学生が少なかったので、がっかりしてやめました。その代わり、広報担当者向けのセミナーの講師はこれまでに120回以上しています。企業内のセミナーも何回か。
「図解でわかる現場の仕事 広報・IR部」、「社会との良好な関係を築く 広報の基本」、「広報入門 プロが教える基本と実践」(共著)などを書きましたが、広報の本は売れません。絶版になったり電子書籍としてかろうじて生き残っていたり・・・。
日本広報学会会員、日本インベスターリレーションズ学会評議委員、日本医療機器工業会顧問といった肩書きもあることはありますが・・・。

                            もどる