古めかしく再スタート

年明け早々から大地震や航空機事故の報道があったりして、このブログをリニューアルしたものの、なかなかスタートさせる意欲が満ちてきませんでした。
もっとも昨年末に、このブログに書いていることが古めかしいと、お目にかかったこともない人から評価されてしまって意気消沈してしまったのも、書き出せない大きな要因です。
どこかがおかしいとか不適切だというのなら修正の余地はありますが、古めかしいのを是正するのは困難です。そもそも私の思考様式が現在の世相と合致しなくなっているということですので、どこをどう直すかという問題ではないからです。
しかし考えてみれば、古めかしいと言った人がどれだけ的確な評価基準を持っておられるのかもよくわかりません。
そう思い返して、古めかしく再スタートを切りたいと思います。

腹話術と交通安全運動の関係

毎年春秋に交通安全運動というものが行われます。内閣府によりますと「広く国民に交通安全思想の普及・浸透を図り,交通ルールの遵守と正しい交通マナーの実践を習慣付けるとともに,国民自身による道路交通環境の改善に向けた取組を推進することにより,交通事故防止の徹底を図ることを目的とする」ものだそうです。
2021年の筑波大学の調査では、運動の実施月の交通事故死者数は他月より2.5%少なかったそうですが、お役所もちゃんと効果検証をしているのでしょうか。
交通安全運動が始まると、街角にテントが設けられ折りたたみ椅子に誰やらが座っています。知り合いが、商店街振興組合の依頼で先日そのテントに詰めたそうです。高齢の女性が3人立ち寄られたので、サービス品のティッシュペーパーをお渡ししただけで、あとはただ座っているだけだったと言っていました。
テレビのローカルニュースが報じるところでは、交通安全週間中にはしばしば「一日署長」というものが任命されるようです。売れない(失礼!)タレントさんに警官の制服を着せタスキをつけてパレードしたりする。テレビに取り上げられれば、それなりに効果があったとなるのでしょうね、きっと。
それよりさらに不思議に思うことがあります。これもテレビニュースによりますと、交通安全のイベントにはしばしば所轄署の警察官が腹話術で交通安全をアピールするらしい。近年、腹話術を見る機会はほとんどありません。そう言えば半世紀前にも小学校で見たような気もします。上のイラストはあるフリーサイトにあったものです。「腹話術」と検索したらこのイラストがヒットしました。腹話術=交通安全は社会的認知を得ているようです。
なんとなく前例踏襲、惰性の臭いがします。伝統を受け継ぐのも大切かとは思いますが、少しは見直しをしたり新しいことも考えてみたらいかがですかと言いたい。

記者会見の向こう側はわからない

ビッグモーター、日大、ジャニーズ事務所と、このところ広報の仕事をしている者には興味深い記者会見が続きました。にもかかわらずこのコラムには、それらについて触れずにきました。
その主な理由は、
1)指摘すべき事項はすでにメディアやネットや「識者」によってほぼ語りつくされているように見える
2)会見のすべてをライブでも録画でも見ていない
3)事件関係の詳細をすべて把握していない
からですが、もう一つ大きな理由があります。
それは当事者の組織内で、それぞれの事案への対処や記者会見への対応などがどのようになされてきたのかがわからないということです。
「わかないから記者会見で追究しているのだ」とメディアのみなさんはお考えになるでしょうが、実際に問題を抱えた当事者を広報的にサポートしてみると、〈そのようなスタンスで答えるしかない〉と判断せざるを得ないケースにしばしば遭遇します。ところが、〈なぜそのように答えるしかないのか〉という理由は会見で説明できる場合とできない場合があります。
いずれにしてもこれはご気楽に判断しているわけではありません。当事者は困惑したり悩んだり逡巡した上で判断を下すのが通常です。組織内でどのような人物たちによってどのようなやりとりが行われたのか、それらを記者席から知ることは、どれほど鋭く追究しようとも不可能です。それは当事者側と記者側双方の立場から記者会見を見て来た者にしかわからないことだろうと思います。安易にコメントできない理由はそこにあります。

この8月に新潮文庫から「山は輝いていた」というタイトルの一冊が発刊されました。山をテーマにした名エッセイを「山と渓谷」の元編集長がまとめたアンソロジーです。
それを読んでいたら、「深田久弥氏のこと」と題する一篇がありました。筆者は藤島敏男さん。東大法学部から日本銀行に入りパリなどにも駐在されたと略歴にありました。登山家でもあって、「日本百名山」で知られる作家が南アルプスを登山中、脳出血で急死したときに同行しており、そのときの状況が滋味あふれる文章で綴られていました。ジャニーズ事務所元社長藤島ジュリー景子氏はこの方の孫なのだそうです。

カタイ人

そろそろ高校の同期会をやろうじないかと幹事として十数名が呼び集められました。
卒業生名簿の確認・再整理から当日の段取りまで、もろもろを決めなければなりませんが、そのような事務的な話はほんの十数分で終わってしまい、あとは焼酎で酔っ払う宴会になってしまいました。
肝心の打合せが簡単にすんでしまうのは、隅の方に坐っている一人の男の存在があるからです。
彼は幹事代表でも元生徒会会長でもありません。一幹事に過ぎませんが名簿の作成から出欠メールや往復はがきの文案まで、すべて彼の手によって事前に用意されています。それを見て「まあ、こんなところでいいんじゃないの?」と、あっという間にすませてしまうのです。
宴会に移ると彼はみんなの話の輪にほとんど加わりません。ウケル話も冗談の一つも言うことなく後景へと退いてしまいます。
この種の人物がどこの会社でも団体でもあらゆる組織に存在します。しかも多数派です。彼らは完璧なスケジュール管理や在庫管理などをなし遂げます。文書を作成させても誤字脱字がありません。一方で原理原則にはうるさい。前例を尊重したがる。細かい。整合性にこだわる。斬新な提案には抵抗を示します。クリエイティビティは一般に乏しい。しかし、命じられれば着実に遂行する。規則が変更されればそれを忠実に順守する。一旦前例ができてしまえばその後は何事もなかったようにそれを実行します。いわゆる官僚がその典型です。
こういう人たちは往々にしてアタマがカタイと評価されます。これは一種の悪口でもあって、時として「アタマがワルイ」の言い換えであったりします。実直ではあるけれどリーダーにはなりにくい。しかし、組織も社会もそのような大多数の人たちによって下支えされています。彼らがいなければ世の中回りません。
個人的にはこういう人種は少々苦手なんですが、こういう人たちのことをエスタブリッシュとかエリートとか上級国民とか呼ばれている人たちはいま一度思い出してほしいとも思うんです。だって彼ら多数派がいるから、その上にあぐらをかいていられるんですから。

土産話はお好き?

今年の旧盆や夏休みは台風にたたられましたが、それでも旅行をした人は増加したそうです。テレビのワイドショーで、あなたはお土産を買いますか、買いませんかというインタビューをしていました。どちらが多かったか忘れてしまいましたが、番組としては「土産話」が一番よいお土産でしょう、と四方八方丸くおさめていました。

このところ知人が北欧をクルーズ旅行した話をSNSにさかんに投稿しています。豪華クルーズ船の内部の紹介から美しい観光地で感動した話、旅行者があまり行かない土地での出来事などを写真つきで紹介しています。さぞ楽しかっただろうと思いますが、それを読まされるこちらは・・・それほどでもありません。
SNSなら読まなければすむのですが、ときどき自分の旅行記をまとめた冊子を送ってくださる方もおられて、その処理に頭を悩ますこともあります。
沢木耕太郎の「深夜特急」や高野秀行の「南西シルクロードは密林に消える」など、書籍となっている旅行記は大好きなんですが、あれは才能とスキルを持つプロが書いたもの。素人の紀行文ってやつはどうもいけません。
顔中に感動を漲らせての土産話も同様で、「あんたが行ったことのないところに行ってきたんだ」とか「こんなこと、行った人しかわからないでしょう」といった優越感がそこはかとなくまとわりついています。その上から目線が不快感を呼び起こします。エッフェル塔の前でバンザイしている写真などその最たるもの。
なにを僻んでいるんだと言われそうですが、その通りです。こちらは大いに羨ましくて、それで不愉快になってくるんですよね。

記念日報道

間もなくやってくる8月6日は広島、8月9日は長崎に原爆が投下された日。
8月15日は第二次世界大戦で日本が敗戦した日。
ここしばらくは新聞、テレビで原爆や戦争の特集が連続して組まれます。ウクライナでの戦争も続いているので、今年も企画が目白押しとなるでしょう。それを「8月ジャーナリズム」などと呼ぶそうです。
月が変わって9月1日は関東大震災が起こった日。今年はちょうど100年目だそうで、南海トラフ地震も高い確率で起こりそうという昨今、大々的にキャンペーンが組まれそうです。
記憶を風化させてはいけない。誠にごもっともで異論はいささかもありません。しかし、これからも大災害や大事件は起こります。「記念日」は次々生まれてきて積み重ねられて行きます。
するとメディアは、それらの特集や特別企画を組まなければならないことになります。記者さんたちはその取材に追われます。記者の数を減らしている中で、その取材時間を確保するには何かを削減しなければなりません。
そこで削られるのは何ですか?
たぶんいまの世界や日本で起こっていること、これから起こりそうなことを発見し、掘り起こし、調査する報道が削られることになるのでしょう。
記念日報道だって、そこから新たな教訓が導き出せるし未来への警告にもつながるのだ、という反論もあり得るでしょう。
しかし記念日報道は、あらかじめテーマを与えられた報道です。その災害や事件のこぼれ話を探し出して記事や番組を作ればカッコはつきます。一面では安易なやり方と言ってよいのではないでしょうか。
記念日ばかりでなく、高校野球やノーベル賞の季節も同様に記者さんはそれらに動員されて、他の出来事にまで手が回らなくなります。
メディアの衰退が論じられるいま、一度考え直してもよいのではないでしょうか。

ここに書いてあったのかあ

今日7月6日付朝日新聞の「声」欄に「『させていただく』違和感あり」というタイトルの投書が掲載されていました。
「させていただく」表現に違和感というか、抵抗感を抱く方が高齢者を中心に多いような気がします。かく言う私もそうでした。
ところが、あるときからさしたる抵抗感なく使い始めました。そのきっかけは司馬遼太郎が「この語法は浄土真宗の教義上から出たもの」と書いているのを読んだからでした。
ところが、それが作家の膨大な著作のどこに書いてあったのか、すっかり忘れてしまいました。どこだったかなあと、著書を何冊かめくってみても見つからず、サイト検索してもヒットせず、あきらめていたら偶然1ヶ月ほど前、それを再発見したところだったのです。
 朝日文庫「街道をゆく24 近江散歩 奈良散歩」p.11~12。
司馬は言います。
「真宗においては、すべて阿弥陀如来-他力-によって生かしていただいている。(中略)この語法は、絶対他力を想定してしか成立しない。『お蔭』が成立し、『お蔭』という観念があればこそ、『地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました』などと言う。(中略)この語法は、とくに昭和になってから東京に浸透したように思える」
そういうことなのか。それなら使ってもいいかな、などと極めて非論理的ではありますが、考えたのでした。
ちなみにわが家の菩提寺は禅宗、曹洞宗なんですが。

この年で?

にわかに思い立って、アスレチッククラブに入会しました。
この年で?と高校の同級生に訝しがられましたが、そうです、この年にしてなのです。
一昨年の暮れから自宅で軽い筋トレを始めました。体力の衰えを自覚したということもありますが、健康診断のたびにドクターから「なんだかんだ」とご注意を受けるからでもあります。「なんだかんだ」は言われるものの治療はなしです。それほどではない。その代わり運動をしなさいとしつこく忠告されます。
ブルワーカーⅡという筋トレ道具、何十年か前、PLAYBOY誌などに広告が出ていました。これを使えば誰でもムキムキのキン肉マン(当時はマッチョという単語は使われていなかったはず)になれると思わせてくれました。しかも秘かに部屋の中でトレーニングできる。実に魅力的です。貧相な肉体の持ち主として、恥ずかしながらムキムキを夢見て購入したものの、ほとんど使わないまま押入の奥に放り込んでいたのを引っ張り出しました。ビニール製のケースには穴が開いていましたが本体は新品同様。説明書もありました。
さらにAmazonに鉄アレイを二つ注文しました。最近の鉄アレイは表面がソフトに加工されていてとても感触がよろしい。これも家捜しをすれば立派なダンベルがあるはずなのですが、探すのが面倒くさい。
この二つの器具を使って、週に4~6回筋トレを行って1年半。力を入れてもふにゃふにゃだった二の腕にささやかながら力こぶができてきました。
となるとさらに負荷を高めたい。もっと重い鉄アレイを購入しようかとも考えましたが、アスレチッククラブのマシンを使った方がより効果的かもと思い至りました。
入会して驚きました。「この年で?」どころではありません。トレーニングに励んでいるのは高齢者ばかりではありませんか。背中が屈曲した高齢のご婦人が静々とエアロバイクに歩み寄り、慎重にセッティングをしてこぎ出します。同年代と思われる男性が猛烈な勢いでランニングマシン上を疾走しています。どこを見回しても若者も壮年もいません。平日だからでしょうか。いやいや、いまや土日でもアスレチッククラブは高齢者で満ちているのだそうです(平日会員だから土日の様子は見たことない)。どおりで入会申込みをするときも、係の女性がごくごくあたりまえに対応してくれたわけです。
知らないところで世の中って変化しているんだなあ。

ロバートさんのルール

昨年の4月から仰せつかっていた分譲住宅管理組合の理事職も今月一杯で任期満了となります。ほっとする前に「総会」というものがあります。理事長=管理者ではないただの並び大名ながら、何もしないでいるわけにも行きません。
管理組合の総会は株式会社の株主総会にあたるもの。執行部たる理事会としては、議案は粛々と可決されなければなりません。ところが株主総会同様、いやそれ以上に何やかやとご意見やらクレームやら自己アピールやらが表明されて紛糾することが少なくありません。にも関わらず今回の議案は13もあるのです。とても1~2時間では終わりそうもありません。
それなら13議案を一括して採決してしまったらどうか、などという意見も出て来ました。
ちょっと待って。それはまずいでしょう、と申し上げて、突然思い出したのがロバートのルールです。オフィスの本棚に英語版があったなあ、と。
ご存じのように米国連邦議会の規則をもとにロバートさんという軍人さんがまとめたもの。民主主義の基本ルールと言われ、どこの会議でも概ねこれに基づいたルールで運営されているはずですが、その存在を知っている人は少ないという不思議なルールです。
それによれば、議案は一つひとつ採決されなければなりません。一括採決なんて乱暴なことをしてはいけません。
ちなみにロバートのルールの日本語訳は絶版で、ネットで調べたら8万円とか10万円の値がついていました。必要とする人は確実にいるということでしょう。民主主義の危機が叫ばれているいま、新訳が出版されるとよいと思うのですが、売れないのかなあ。それこそ民主主義の危機の象徴ですね。

見えていなかった

「見えているようで見えていない。」
二人称の主語を加えると、「キミは見えているようで何も見えていない」と年寄りのお説教になってしまいますが、実際にそういうことってあるんですね。
なんとなく感じてはいたのですが、やはりおかしいと意識したのはほんの数ヶ月前のこと。昼間の明るいリビングでは、自宅のテレビがよく見えないのです。カーテンを引くといくらか改善するものの、コントラストの低い夕方の場面などは何が何だか見分けがつきにくい。自分の目のせいかとも思ったのですが、よくよく画面を観察してみると上部が少し暗く、下の方が明るく見えます。チューナーは内蔵していないものの4K対応というこの液晶テレビを購入して5年あまり。故障するにはちと早すぎます。
しかし、こりゃだめかもしれないと意を決して大型家電店へ向かったのでした。
いや驚きました。実に鮮明。とくに青が鮮やか。見慣れたニュースショーのスタジオが、まったく違った景色に見えます。女性アナウンサーの目の下に灰色のカゲがあるのにも初めて気がつきました。
見えているようで見えていなかった。
近所の歯医者さんの建物の壁を家人は「きたない色だなあ」と思っていたそうです。白内障の手術をしたら、それがきれいなレモンイエローに塗られていることに初めて気づいたと言っていました。
雑誌の編集をしていた友人は、色校正を見て印刷所にあれこれ指示を出していましたが、白内障の手術をしたら・・・そんな雑誌を買わされた方は、見たくても正しい色は見せてもらえなかったことになります。
気づかぬところで、こんなことはいろいろあるのだろうなあ、と思いながら毎日有機ELの画像を眺めております。