玉座のある会議室

会議室の立派なテーブルを取り囲んだ椅子の中に、一つだけひときわ大きな椅子を置いている会社があります。その会社の最高権力者専用の椅子に間違いありません。最高権力者が出席しないミーティングでも、そのチェアに坐る人は誰もいません。侵すべからざるチェア。玉座とも言えるでしょう。
ある会社ではいくつかある工場の会議室にそれぞれ玉座が用意されていました。社長が工場に視察に来たときに備えているわけです。
社長はえらい。これはどの企業でも変わりません。企業のガバメントという観点からも、それは認めざるを得ないところがあります。社長の指示を社員が無視する会社というのはアブナイですから。しかし、社長の前では社員は何も言えない、ただただアタマを下げているだけ、という企業体質もまた非常にアブナイ。社長におうかがいを立てなければ何事も決まらない。にも関わらず、なかなか社長には具申できない。おっかなくて、なかなか言い出せないという企業体質なのではないかなあ。玉座のある会社にはそんな臭いがプンプンします。

ここまで来たか、監視社会

ある写真家のもとへ突然、国が運営するある公園の管理事務所からメールが届きました。
---
この度、貴団体のイベントが某月某日に××公園で開催される予定について確認いたしました。
https://××××××(写真家が運営するサイトのURL)

このイベントは参加費が必要なようですが、××公園は某省が管理する国の施設でございますので、規定により園内で有料イベント等の営利行為は許可できないことになっております。
万が一、園内での営利行為が判明した場合は、中止をお願いせざるを得ませんのでご了承ください。今後は営利行為となるイベントの実施は固くお断りさせていただきたく、ご理解とご協力の程よろしくお願い申し上げます。

貴ホームページ、ツイッター、SNS等での××公園の有料イベント募集の記載につきましては、他の利用者の誤解を招きますので、既に開催されたものや今後のイベント募集含め削除いただけたら有り難く存じます。
---

規則は規則ですから、その公園を使う以上は規則に従わざるを得ません。営利目的ならその公園を使えないということもわかりました。
しかし、この話を聞いて何か釈然としないものが残りました。
管理事務所は、写真家のホームページを見て、このような警告のメールを送ってきたわけですが、それはたまたまでしょうか。そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。営利目的で公園を利用している輩がいないか、管理事務所はすべてのサイトを常に検索しているのではないかとの疑念が生じます。もしかすると内閣調査局の協力を得て監視しているのかもしれません(ちょっと大袈裟かな?)。
怪しいヤツは事前に潰しておこうというわけですが、それは行政権による事前抑制あるいは事前検閲に通じる行為ではないでしょうか。法律家ではないので正確にはわからないのですが、公園内で営利行為が行われそうだと気づいたら、それが実行されているのを確認した上で注意を喚起するのが真っ当なやり方ではないかと思うのです。市民の楽しみの場である公園の管理事務所が秘かにこのような調査をしていることにも、少々薄ら寒い思いがいたします。

ボクはやっと認知症のことがわかった

私は原則として本はお薦めしないことにしています。関心や価値観は人さまざまですから。正直に言えば、他人から「面白いから」とか「ためになるから」などと言われるのは大迷惑です。なんの関心もない話題だったり、嫌いな著者だったりすることも少なくありません。義理で読んでいると、貴重な時間をこんな本のためにつぶされるのかと癪に障ることもあります。
ではありますが、この本は多くの高齢者やそのご家族には読む価値ありだと思いました。
「ボクはやっと認知症のことがわかった」KADOKAWA刊。
専門医が自らの専門とする疾患にかかる例はしばしば耳にします。認知症の第一人者である長谷川和夫先生もその例で、自分が認知症になってしまった。専門家と患者が合一してしまった。私たちが認知症を知る上でこれ以上の条件はありません。
「認知症になったからといって、人が急に変わるわけではない」という言葉には、専門家=患者であればこその説得力があります。むろん現実にはこの本に書かれているような美しい日常ばかりでないでしょう。憎しみや嫌悪が渦巻く修羅場もあるだろうとは思いますが・・・。
長谷川先生には一度だけお目にかかりました。PR誌の編集をしていた80年代、取材にうかがったかと思います。この本をまとめた読売新聞の猪熊律子さんにも、企業の広報担当者だったときに、一度だけ取材される側としてお会いしたことがあります。印象に残る記者さんでしたが、その後はコンタクトする機会はありませんでした。
それはともかく、かつて実際にお目にかかったお二人が組んでのよいお仕事だと思いました。

< 出たい人より出したい人 < 一覧に戻る >

カテゴリー

アーカイブ

出たい人より出したい人

最近はあまり目にしませんが、「出たい人より出したい人」という選挙の標語がありました。
報道関係の人たちがつくるある会で最近会長が交代しました。それまでの10年近くある男がその座に居座り続けました。ただの名誉職に過ぎませんが、それが彼の現在の職業を維持するために必要な肩書きだったのではないかと噂されていました。自分の所属する組織に有利となるような催しを強引に開いたりして会員の顰蹙を買っていましたが、そのような人物がなぜ長期間居座ることができたのかと言えば、会則で会長は立候補と決められていたからです。推薦人も必要ありません。理事会でナアナアで決めることになっています。名称だけは立派でも会員の老齢化が進み活気が失われつつある小さな会の会長など、よほど志のある人か、そこに利用価値を見出した人でなければなりたがりません。彼は後者だったようです。出たい人しか会長にならないという仕組みは、どうもいただけません。
現在の政治家さんにも志のある人はいるのでしょう(そう信じたい)けれども、日頃の言動や、やっていることなどを報道から知る限り、政治家になること、大臣や知事になること、あわよくば総理大臣になること、そしてそこからより多くの利益や名誉を得たいと思っている人たちの方がはるかに多いような気がします。
誰でも公職に立候補できるのは民主主義の基本ではありますが、同時に立候補という仕組み自体に、真の民主主義と矛盾する要素が含まれているのではないかとも思えてしまいます。だれか、そういうことを論じている人はいないかな。

新しい生活様式

いま、私たちは生活習慣の、あるいは文化の歴史的な転換点に立っているのかもしれません。
人との間隔はできるだけ空けろだの、家に帰ったらシャワーを浴びろだのというお上のお達しのことではありません。
電話が黒電話から携帯、スマホと変わっても、私たちの第一声はいまも「モシモシ」です。ネット上の情報によれば1890年に日本で電話が開通したとき、「申し上げます」の「申し」が略されたことによるとのこと。英語のHello!に代わるものとして定着したらしい。
この2~3ヶ月、ネット会議だとかWEB会議がにわかに盛んになりました。少々ややこしい手順の末、モニターの画面に相手の顔が表示されたとき、さすがに「モシモシ」という人はいません。電話に似たようなものですが、相手の顔が確認できて表情がうかがえるとき、日本人は「モシモシ」を言わないのかもしれません。英語圏の人たちはWEB会議でも当たり前に「Hello!」と発しているでしょうから、これは日本独得の現象なのに違いありません。新発見ではないでしょうか。
その代り手を振る人が多い。「私はちゃんとここにいますよ」。会議ソフトの設定をちょっと誤ったりすると音声が届かなかったりしますから、これは有効なジェスチャーと言えます。
さらに、会議が終わって退出ときに手を振る人はずっと多い。「さようなら」、「バ~イ!」。
これって、新しい生活様式ではないでしょうか。それが生まれ、定着しつつある瞬間にいま私たちが立ち会っている。しかも世界共通のようなのです。これを歴史的な転換点と言わずして何としよう?

広報という人文知を軽んじるな

4月26日付朝日新聞に掲載された京都大学人文科学研究所の藤原辰史准教授による寄稿「人文知を軽んじた失政」を読んで、ハタと膝を打ちました。
一部を抜粋します。
「これまで私たちは政治家や経済人から『人文学の貢献は何か見えにくい』と何度も叱られ、予算も削られ、何度も書類を直させられ、エビデンスを提出させられ、そのために貴重な研究時間を削ってきた。企業のような緊張感や統率力が足りないと説教も受けた。
 だが、いま、以上の全ての資質に欠け事態を混乱させているのは、あなたたちだ。長い時間でものを考えないから重要なエビデンスを見落とし、現場を知らないから緊張感に欠け、言葉が軽いから人を統率できない。アドリブの利かない痩せ細った知性と感性では、濁流に立てない。コロナ後に弱者が生きやすい「文明」を構想することが困難だ。」
まさにその通り。
しかし、私が膝を打ったのは、もう少し下世話なレベルで思い当たるところがあったからです。
長く広報の仕事をしてきた中で、何度も何度も「この広報企画が業績にどのように貢献するのかわからない」と言われてきました。説教も受けました。
いまこそ言い返したい。
あなたたちは長い時間でものを考えていない。かすかな兆候から重要なエビデンスを見出すことができず、いつ直面するかわからぬクライシスに対する緊張感に欠け、教条主義、官僚主義的にしか人を統率できない。アドリブの利かない痩せ細った知性と感性では、濁流に立てませんよ。
言いたかったなあ、あのとき、このとき、そのように。

記事はこちら > https://digital.asahi.com/articles/DA3S14456624.html?iref=pc_ss_date

自分の表情という会議ストレス

自宅勤務を専らとしてから2週間あまり。自宅のソファーにひっくり返ってスマホばかり見ていたら、目の焦点が合わなくなってしまいました。先月の自動車免許更新では、朝から目薬をさした効果か裸眼で合格しましたが、加齢とともに視力調節機能の回復は明らかに遅くなっているようです。
そのぼんやりした眼を見開いてPCの画面を見ております。テレビ会議です。
慣れてしまえば、テレビ会議は寄り集まっての会議に十分代替可能であると確信しました。これからはテレビ会議の方が主流となり、よほどの事情がない限り会議室に集まる必要はなくなるだろうと予測します。
となると大会社のズラリと並んだ会議室の半分は使われなくなります。テレワークが定着すればデスクを並べたフロアの面積も縮小する。すると不動産需要が縮小する。REITも暴落する・・・と風が吹けば桶屋が儲かるようなことを夢想していますが、それもヒマ、いや時間の余裕のなせるワザです。
そのテレビ会議、ITが苦手な人がまごつくのはやむを得ないとして、決定的な問題は自己嫌悪にありと発見してしまいました。。
ふつうの会議では、他の出席者の顔色をうかがいながら発言することはできますが、そのときの自分がどんな表情をしているかを自覚することはできません。ところがテレビ会議では、自分の顔をいやでも見ながら会議をしなければなりません。苦笑したり皮肉に口をゆがめたり、その表情が逐一目の前のモニターに映し出されます。これはまずい。心の動きがこんなに表れていようとは。他の出席者たちも無意識のうちにそれに感づいて、それぞれ自己規制をしているかもしれません。
会議の駆け引きに、自分自身の表情というもう一つの要素が加わります。思わぬストレスです。それが会議の流れにどのような影響を与えるか。経営学や社会心理学の新しい研究テーマになるかもしれません。

早生まれですが、なにか?

この季節になると、早生まれの子には体力や学力のハンディキャップがあるか、というテーマの報道を目にするようになります。3月下旬生まれの身としては、少々興味を惹かれるのですが、たいていは差があるんだかないんだかわからない結論でお茶を濁されてしまいます。
では自分自身ではどうだったのか、とはるか昔を思い起こしてみると、どういうわけか子どもの頃にハンディキャップを意識した記憶がありません。そんなこと考えたこともありませんでした。
もっとも小学校1年生のときの算数の足算引き算競争では、いつもビリから2番目でした。常にビリだった田島君が早生まれであったかどうかは知りません。駆けっこも遅い方でした。運動会の徒競走では6年生にして初めて3着になりました。
それは確かにその後に影響を与えたようです。たとえば宴会のワリカンの計算。電卓もスマホも使える世の中ですから、やるハメになればやりますが、できれば他の方にお譲りしたい。苦手意識がそうさせます。スポーツは何をやっても上達しません。ゴルフを始めたときはなかなか100を切れませんでした。これも苦手意識が足をを引っ張っていたように感じます。
このようないくつかの事象はあるものの、社会に出てからはそんなことを意識したことはまったくありません。多くの報道と同様あいまいな結論になってしまいますが、それは大学受験で一年間のハンディキャップを精算してしまったからでもあります。

マスクがマスク

マスク、ないですねえ。マスクが世の中からマスクされている、なんてシャレている場合ではないのですが・・・。
昨日、東京郊外の大病院の構内に出店しているセブンイレブンに寄ったら「マスクはレジで販売します」と空の棚に掲示が。レジで「マスクありますか?」と言ったら、「ありますよ~」と明るい声が返ってきました。確かにありました。1枚100円。
今朝の電車の中でノドがイガイガしました。ヴィックスを舐めても収まらず、数回咳をしてしまいました。これはまずい。周囲を見回すのも怖ろしく、あわててバッグからマスクを取り出しました。
いま10枚ほどマスクの手持ちがあります。コロナ騒ぎが始まる前に購入していたものです。持ってはいますが、感染していない人がマスクをしても無意味だという「専門家」のご意見に従って、街中でも電車の中でもマスクはしていません。それでいいのかどうか、確証はありません。人間は自分の意見を補強する情報ほど取り入れやすいと言うのが社会心理学の定説です。もともとマスクが大嫌いなので、その情報を取り入れているという、ただそれだけのことです。手持ちのマスクを使ってしまうのが惜しい、というケチな了見もそれなりにありますが。

反知性の時代を生き延びる

いまで言うところのパワハラ上司のもとで働いていた若き日の十数年間、つくづく「泣く子と地頭には勝てない」を実感したものでした。マネジメント技術などてんで持ち合わせていないその上司は常に強権的でした。部下の尊厳などには少しも気が回りませんでした。自分の思うようにならなくて、ついに窮すると泣き出すのです。女性でしたから。男性だったら暴力をふるうか開き直るところでしょう。どちらにしても論理や理屈を受けつけずに自分の意志を押しつけるという点では同じことです。
こういう人がなぜか成功する。少なくとも理屈ばかり考えている人よりも権力を握る確率が高い。知識や教養は無知や自己愛には勝てないのです。最近、論理を理解できないか、理解できないふりをする「指導者」が世界中にたくさん登場していますが、権力とは本質的にそういうものなのかもしれません。
それに関連する、とも言えないのですが、東京の西の郊外へ向かって伸びる私鉄に京王線と田園都市線があります。何年も前のことですが、不動産屋さんが言いました。「京王線てインテリが多いんですよ。みんないい学校を出ている。でもお金は持っていないんだ。田園都市線は、田園調布あたりの金持の子どもが家を建てて住んでいる。大した学校は出てないけど、金はあるんですよ」
これが事実であるかどうか確認する術もありませんし、近頃はずいぶん様子が変わっているとは思いますが、不動産屋さんの感想は、社会的なパワーと知性とは反比例するという指摘にほかなりません。
昔もいまも金と権力を得たいと思ったら、間違っても知性を持ってはいけません。それが反知性の時代を生き延びる方法ではないか。このところそういう思いを強くしています。