便りがないのは訃報の代り

母校が“Home coming day”をやるそうだ、と当時の同級生がバッグから封書を取り出しました。同窓会ですね。ところが、こちらにはそんな郵便物は届いていません。それもそのはず、そこに同封されていた行方不明者リストに私の名前が記載されていました。
40年間も引っ越しをしておらず、その昔は「総長室」なる名刺を持った紳士が勤め先を訪ねてきて、社内同窓会をつくってほしいと要請されたこともあります。もちろんお断りしましたが、そのときは勤務先まで把握していたのに、いまになって行方不明者とはどうしたことでしょう。どこかで意図的に削除されてしまったか・・・それは考え過ぎでしょうが。
同窓生リストに登録するメリットは何もなさそうですが、「行方不明者」というのも気色が悪いので、同級生に学校への連絡をお願いしました。
このところ昔の友人仲間にご機嫌伺いのメールを出しても、返信が戻ってくる確率がかなり低下しました。年賀状は寄こすのにメールに返信しないのは、ITリテラシーが低い高齢者故かもしれませんが、まったく音沙汰ない人はどうしたのでしょう。これも行方不明のようなもの。シカトでしょうか。礼儀知らずなのでしょうか。それとも・・・。
若い人なら「便りがないのおは無事の知らせ」ですが、高齢者では「便りがないのは訃報の代り」です。冷たいようですが、死んじまったのだろうと考えることにしました。合掌。

台風情報の国粋主義

台風が近づくたびに気になります。
台風の進路予想を伝える報道を見ていると、離島を除く日本本土に「上陸」するかどうかに異常に固執していませんか。台風の上陸とは台風の中心が北海道、本州、九州、四国の海岸に達した場合で、沖縄は台風の上陸とは言わず、通過と言うのだそうです(お天気.com)。これも一種の沖縄差別ですかね。なんだか太平洋戦争末期の状況を思い出してしまいます。沖縄にしてそうなのですから、小笠原諸島や南北大東島は真上に台風の目が来ても「通過」。深刻度が伝わりにくいですよね。
それ以上に理解できないのは、「台風は日本海を進みそうです」となんとなく安心感を漂わせてアナウンスされているテレビ画面を見ると、台湾や韓国が進路の真下にあったります。「台風は大陸方面へ抜けそうです(ホッ)」というのも同様です。
大して雨も降っていない新宿駅南口からの中継などよりも、日本をそれて他国に向かった台風の状況を中継するくらいのことはしてもよいだろうと思います。そのようなところから隣国との共感性も生まれてくるのではないですか。台風ばかりでなく何事も、日本本土に来なければよしという国粋主義はいかがなものかと思います。

肉声、肉筆、自筆原稿

8月中に日経新聞に連載されていた俳優山崎努さんの「私の履歴書」が終わりました。
2、3回読んだところで、抜群に面白いとSNSを通じて友人知人に触れ回りました。同じように感じた人が多かったようです。
学生時代には戯曲や演劇に興味があったので、劇団雲でも演劇集団 円でも山崎さんの舞台を何回か見ています。しかし、自分で舞台に立ったことがないので、彼が書いている演技の真髄のようなものは残念ながら十分理解できません。
その昔、日経の記者さんだったか友人の日経役員だったかに聞いた記憶では、「私の履歴書」の多くはインタビューをもとに記者が原稿をまとめているが、まれには本人の書いた原稿を掲載するということでした。文章を書き慣れていない素人がこれだけの文字数の原稿を書くのは、どう考えても難しい。ライターを生業にしていた友人は記者が書いたものだろうとの見立てでした。
実際のところはわかりませんが、私は違うと考えます。あのような闊達で自在な語り口、文体は本人にしか書けません。肉声が聞こえてくるようです。新聞記者のみなさんは、破綻のない文章を書くようにトレーニングされていて、かえってそこから抜け出しにくい。
あんなふうに書きたいな、とは思うもののそうは行きません。文章力だけではなく自由な解放された精神が必要なのでしょう。
この「私の履歴書」にも登場した芥川比呂志さんも名文家でした。「決められた以外のせりふ」というエッセイ集はいまも持っています。俳優さんには、名文家が少なくありません。台本を暗記するほど繰り返し読んでいるうちに、トレーニングされるのではないかと推測します。古いところで沢村貞子や高峰秀子、最近では岸恵子。
高峰秀子は、初めはまるきり書けなかったが、週刊朝日の編集長をしていた扇谷正造氏に特訓を受けたのだと聞きました。最近のタレント本はほとんどゴーストライターの代筆なので、ご本人の筆力のほどはわかりません。

一昨日、知り合いから書類を1枚送ってもらいました。その封筒を見て驚きました。
まず、宛名。ワープロで打ってあります。封筒をわざわざプリンターにかけたようです。裏の差出人名は、住所氏名が印刷された小さなシールが貼りつけてあります。そして送り状。ワープロで本文2行のみ。
私も以前は手書きが苦手で、できるだけワープロですませたいと考えていましたので、その気持はわからないではありませんが、それでも自分の署名くらいは手書きで書いていました。あきれると同時にちょっとさびしい気持にもなりました。やはり肉筆、肉声、その人の体温がどこかに感じられないとむなしいなあ。
ちなみに、この文章は自分で書いております。ゴーストライティングしてくれる人がいないもので・・・。

早く言ってよ~

1ヶ月ほど前のこと。知り合いのカメラマンのもとを訪れました。
帰宅してしばらくたってから、電話がかかってきました。
「今日は朝から熱があったので検査を受けていた。その結果をいま聞いたら陽性だった」
先に言ってよ、そういうことは・・・。
いまの感染状況のもとで発熱したら、検査結果を待つまでもなく面会は避けるのが常識、いや良識というものでしょう。あまりにもいい加減。能天気もいいところです。
ということは濃厚接触者になったかな? 
どうなることかと思いましたが、幸い何の症状も出ずに過ぎました。
1.お互いにマスクをしていたこと、
2.1m半ほど離れて会話していたこと、
3.部屋がスタジオで、広くて天井が高かったこと、
4.20分ほどで別れたこと、
等々が幸いしたかもしれませんが、あるいは知らないうちに無症状感染者になっていたのかもしれません。危険はすぐそばにあるものだと肝を冷やしました。

ということがあったので、昨日、調剤薬局に寄ったついでに、抗原検査キットが買えるか尋ねたら、「あります、あります! いまならあります」と嬉々として答えてくれました。長く欠品になっていたが、ちょうど納品されたところだとか。それならと4セット購入したのですが、さてどうしたものか。
体調が悪くなったら使ってみる。それは当然ですが、発症から2日くらい経過しないと反応しないようです。それで陽性となったらどうするか。すぐに医療機関に連絡して指示を待てが原則。しかし、いまの状況ではどうなるものか。
陽性でも陰性でも、自宅で解熱剤飲んでじっとしていろ、ということなら、まことにむなしい検査キットであります。もっとも高齢者なので、行政も放ってはおかないとは思いますが。

勇気りんりん、るりの色

外資系企業のプレスリリースの、あるフレーズにひっかかりました。
「その成果には勇気づけられました」
おかしいと感じませんか? そうですか、感じないですか。
いや間違った表現だとまでは言いません。あえて言えば「生硬*」という言葉が当てはまるかな。
広辞苑の「勇気づける」の項には「勇気を持たせる。元気を出させて何かをしようという気持にさせる。『悲しんでいる友を―・ける』」とありますから、正しい日本語の使い方なのでしょう。
このリリースで使われているのはたぶんencourageという英単語で、その和訳と推測します。英語ではごくふつうの表現であっても、日本語の発想にはもともとない表現ではないかと思うのです。encourageを直訳すると「勇気づける」となるのでしょうが、初めから日本語として原稿を起こしたら「勇気づけられました」って書くでしょうか?
「その成果には励まされます」の方がこなれているかな。エライ人のコメントなら「励まされる思いでございます」とていねいに。英語に堪能な人だと、かえってこちらに違和感を覚えるかもしれませんが。
明治以来、日本語に英語文脈が導入されて久しいので、こんなことに目くじらを立てる必要はありませんが、どんどん「こなれた日本語」が姿を消していくのがちょっとさびしいのです。
「勇気りんりん、るりの色~」。こんな歌詞を知っている人はほとんどいなくなったでしょうね。なんで勇気りんりんで瑠璃の色なのか。これもへんな詩ですね。写真の色が正しい瑠璃色です。

*生硬:(1)世情に通じないで頑固なこと。(2)表現などが未熟でごつごつしていること。「―な文章」(広辞苑)

黙っている人、いられる人

企業もののテレビドラマでは、会議がしばしば見せ場になっていて、主人公が議長やらエライ人やらを追究するシーンが描かれます。ああいうシーンを実際に見てみたいと思うのですが、現実社会では滅多に起こりません。議長が議事を進行し、発表者が説明し、「異議はありませんか?」でいくつかの質問ややり取りがあって、シャンシャンと次の議題へと移って行く。そういう会議ばかりです。
自分の意見を堂々と述べる立派な人もおられますが、自分の考えではなく、どこかで聞きかじったことを延々と説明するような人もいて、こういうのは困りものですね。
そのほかの人たちは、指名されれば発言はしますが、そうでなければ黙っています。なぜ多くの人たちは黙っているのか。
「何か言うとにらまれそう」とか「トンチンカンなことを発言して評価が下がってしまうのではないか」とか「自分のような若輩者が発言してはいけないのだろう」などと過度な忖度をして発言しない人もいるのではないでしょうか。
「黙っているのは、言うべきことが何もないからだよ。な~んにも考えていないから」という説を聞いたことがあります。その通りかもしれません。その一方で、よくも初めから終わりまで黙っていられるなあ、とも思います。何のために出席しているんだ! 時間の無駄だ!との非難はもっともですが、それよりも「ずっと沈黙を守っていられる」という能力の方に驚きます。
こんなことを書いているオマエはどうなんだ?と言われそうです。どちらかと言えば、何か一言いわなければ気がすまない方なんですが、近頃は意識的に黙っていることが多くなりました。なぜか。理由はさまざまなのでここでは申しませんが、これがいささかつらい。気がつくと、唇をかたく結んでいる自分に気がつくことがあります。そして「沈黙は能力である」という真理に到達したのであります。

そして誰もいなくなった、りして

SNSもいろいろある中で、FacebookとTwitterを比較的多く使っています。広報が商売ですから、使っていなければどうにもなりません。InstagramやYouTubeもときどき投稿したり、チャンネル登録したりしています。
Facebookでは、うまく撮れた写真を投稿すると20人余のお知り合いから「いいね」をいただけます。少ないでしょう。うなぎの蒲焼きが好きな人たちのグループに四万十川の天然うなぎの鰻重の写真を投稿したら383人から「いいね」をもらったのが最高記録。うなぎ好きは四万十川が好きなんです。しかし、これはうなぎオタクの世界だから特別。ちなみに、そのグループに投稿したのはその1回だけです。
Twitterは複数のアカウントを持っていますが、投稿してもほとんど❤はもらえません。あれも知り合い同士でほめ合う世界なので、仲間が少なければ反応もほとんど得られないわけです。
それはともかく、このところとくにFacebookがさびれてきました。「友達」たちがどんどん脱落して行きます。脱落というのはFacebookにあきあきして見なくなった。あるいは投稿しなくなったということです。一部の懲りない人たちと、趣味のグループに属している人たちだけが投稿をしているという状態であるように、こちらからは見えます。
Twitterも同じような傾向が見られますが、一応匿名であるせいか、政治的立場や医学的見解など、専門性の強い書き込みがまだ活発であるように見えます。
いまは隆盛を誇っているYouTubeやInstagramも、そのうちどうなることやら。かつて一時期話題になったセカンドライフやクラブハウスのように、気がつけば誰もいなくなった、などという将来がなんとなく想像できるのですが、考えすぎでしょうか。

ご厚意には感謝いたします、が

世の中で最も読まれない出版物は「社史」、と常々断言しております。たまたま元の勤務先が100周年を迎えるとのことで、現役当時の会社のことを話してほしいと依頼を受けました。その社史が出来上がって送られてきましたが、パラパラとページをめくっただけで本棚の奥へ直行となりました。協力者一覧に記載されている私の氏名に誤字もありましたし・・・。
もう一つ、どうしたらよいか途方に暮れる出版物があります。知人の書いた自費出版本です。
つれづれに書かれたエッセイ(ある年代より下ならブログとなるのですが)、趣味で研究した新発見、俳句集、中にはご自身が一生懸命努力したプロジェクトを記録したものも・・・その他もろもろ。
先日、ある大先輩にお会いしたら、「また本を書くから送るよ」と言われて、返事に窮しました。ご厚意はありがたいのですが、いただいた以上は目を通さなければなりません。その上で、礼状ハガキかメールを出さなければ・・・。それが俗世の義理というものです。ところが、これが難しい。小学生の頃から読書感想文は大の苦手で大嫌いです。
こういうことが度重なるうちに、この苦境をなんとか切り抜ける方法を見出しました。
その一。本は読む前に礼状を出す。
送られて来たら、そのことに対してのお礼を申し上げる。「これから読むのが楽しみです」なんちゃって。すぐに読む義理はなくなります。
その二。本の内容には直接触れることなく、その周辺のことを書く。
読んでいないのですから、内容について書けるわけがありません。ざっとページをめくってみて、海外旅行記だったら「衰えることのない好奇心とご健脚には頭が下がる思いです」。句集だったら「よいご趣味をお持ちでうらやましい」。中身がなんであっても使えるのが「ご健筆にはホトホト敬服いたします」。いかにも白々しいですが、そこはやむを得ません。
さてつい先日、昔の同僚で隣町で趣味の教室を開いている人が、エッセイ集を発行したので買ってくださいと、SNSに投稿しているのを見つけてしまいました。間違っても「いいね」などは送らないように、黙ってやり過ごすことにいたしました。

巨人、大鵬、卵焼き

「巨人、大鵬、卵焼き」は、堺屋太一氏が言い出しっぺだそうです。誰も彼もが好きなものを挙げたと理解されていますが、大勢に迎合できる無難な方法を象徴的に示したとも考えられます。自立した精神の持ち主ならば「阪神、柏戸、だし巻き玉子」で行きたい。
と、この導入はさほど意味はありません。阪神タイガースに関連したことを書きたいと思っただけです。

「まあ、見た目に大仕事ってことではないけど、(長坂)拳弥(捕手)もなかなかスタメンで出るっていうチャンスがない中で、それがどうつながっているかは分からないけど、俺も球場早く来るけどアイツたぶん一番早く、選手で(来ていて)。必死に何か変えたいとか、何かしたいっていうのがアイツの中でも変わってきているところがある中で今回、チャンスって最初はそんなに多くないんで。少ない中でどうつかんでいくかっていうところをこの2試合でアイツ自身がいい形でつかみとった2試合だと思うんでね。これをやっぱり1軍の試合でこれだけ勝つ試合でマスクをかぶれば、これだけ緊張もするけどこれだけ充実感があるんだとか。そういうのも味わえるポジションだと思うんで。ほんとに拳弥の働きっていうのは数字に大きく表れるようなことじゃないけど、貢献度は高いんじゃないかな」(2022.5.22. デイリースポーツonline 阪神矢野監督インタビューより)
何が言いたいのか、阪神ファンならわかりますが、そうでなければさっぱりわかりません。たぶん矢野監督の頭の中をそのまま反映しているものと思われます。正直と言えば正直なんですが、矢野監督にメディアトレーニングをしてほしいと依頼されたらどうしようと、阪神フアンとしては、頼まれるはずもないのに少々気を病んでおります。
まさか「巨人、大鵬、卵焼き」のビジネス界で経験を積まれてこられた方々の中に、これほどの例はないだろうとは思うのですが・・・。

地獄への道

吉野家でマーケティングの責任者をつとめていた方が、早稲田の社会人セミナーで、「田舎から出てきた右も左も分からない若い女の子を無垢、生娘なうちにシャブ浸けにする」、「男に高い飯を奢って貰えるようになれば、絶対に食べない」といった発言をしたと炎上し、解任されてしまいました。
なるほどね。この表現はまことにお下品で差別的だけど、マーケティングの行き着く一つの究極点、しかも地獄のそれかもしれないなあと思いました。私の乏しい知識によれば、マーケティングって人間を非人間化しないと理論構築できない面がある。その見本のようなものではないかしら。この発言に「わかる、わかる」と秘かに頷いているマーケッター諸氏が世に少なくないと怪しんでおります。コトラー教授が強調しているように、本当のマーケティングはそういうものではないのだろうけど、天国と地獄の分水嶺、どちらかに落ちそうな狭い塀の上を歩いているようなところがあるようです。
今回の騒動はまたマーケティングと広報の違いを象徴する出来事であるようにも思います。マーケティングは天国への道だろうが地獄への道だろうが、最後は「売上」に行き着きます。行き着かなければ失敗です。
一方、広報のゴールは社会に認識されて、理解を得て、その社会の一員と認められることです。その結果として売上と利益に貢献することになる。そこに人間を非人間化するような発想は存在しません。
と書くと、なにやら広報はよいことずくめのように思えてしまいますが、そうでもありません。広報にもまた怖ろしい地獄への道が口を開いています。最近すっかり有名になってしまったプロパガンダがそれであります。