新しい生活様式

いま、私たちは生活習慣の、あるいは文化の歴史的な転換点に立っているのかもしれません。
人との間隔はできるだけ空けろだの、家に帰ったらシャワーを浴びろだのというお上のお達しのことではありません。
電話が黒電話から携帯、スマホと変わっても、私たちの第一声はいまも「モシモシ」です。ネット上の情報によれば1890年に日本で電話が開通したとき、「申し上げます」の「申し」が略されたことによるとのこと。英語のHello!に代わるものとして定着したらしい。
この2~3ヶ月、ネット会議だとかWEB会議がにわかに盛んになりました。少々ややこしい手順の末、モニターの画面に相手の顔が表示されたとき、さすがに「モシモシ」という人はいません。電話に似たようなものですが、相手の顔が確認できて表情がうかがえるとき、日本人は「モシモシ」を言わないのかもしれません。英語圏の人たちはWEB会議でも当たり前に「Hello!」と発しているでしょうから、これは日本独得の現象なのに違いありません。新発見ではないでしょうか。
その代り手を振る人が多い。「私はちゃんとここにいますよ」。会議ソフトの設定をちょっと誤ったりすると音声が届かなかったりしますから、これは有効なジェスチャーと言えます。
さらに、会議が終わって退出ときに手を振る人はずっと多い。「さようなら」、「バ~イ!」。
これって、新しい生活様式ではないでしょうか。それが生まれ、定着しつつある瞬間にいま私たちが立ち会っている。しかも世界共通のようなのです。これを歴史的な転換点と言わずして何としよう?

広報という人文知を軽んじるな

4月26日付朝日新聞に掲載された京都大学人文科学研究所の藤原辰史准教授による寄稿「人文知を軽んじた失政」を読んで、ハタと膝を打ちました。
一部を抜粋します。
「これまで私たちは政治家や経済人から『人文学の貢献は何か見えにくい』と何度も叱られ、予算も削られ、何度も書類を直させられ、エビデンスを提出させられ、そのために貴重な研究時間を削ってきた。企業のような緊張感や統率力が足りないと説教も受けた。
 だが、いま、以上の全ての資質に欠け事態を混乱させているのは、あなたたちだ。長い時間でものを考えないから重要なエビデンスを見落とし、現場を知らないから緊張感に欠け、言葉が軽いから人を統率できない。アドリブの利かない痩せ細った知性と感性では、濁流に立てない。コロナ後に弱者が生きやすい「文明」を構想することが困難だ。」
まさにその通り。
しかし、私が膝を打ったのは、もう少し下世話なレベルで思い当たるところがあったからです。
長く広報の仕事をしてきた中で、何度も何度も「この広報企画が業績にどのように貢献するのかわからない」と言われてきました。説教も受けました。
いまこそ言い返したい。
あなたたちは長い時間でものを考えていない。かすかな兆候から重要なエビデンスを見出すことができず、いつ直面するかわからぬクライシスに対する緊張感に欠け、教条主義、官僚主義的にしか人を統率できない。アドリブの利かない痩せ細った知性と感性では、濁流に立てませんよ。
言いたかったなあ、あのとき、このとき、そのように。

記事はこちら > https://digital.asahi.com/articles/DA3S14456624.html?iref=pc_ss_date

自分の表情という会議ストレス

自宅勤務を専らとしてから2週間あまり。自宅のソファーにひっくり返ってスマホばかり見ていたら、目の焦点が合わなくなってしまいました。先月の自動車免許更新では、朝から目薬をさした効果か裸眼で合格しましたが、加齢とともに視力調節機能の回復は明らかに遅くなっているようです。
そのぼんやりした眼を見開いてPCの画面を見ております。テレビ会議です。
慣れてしまえば、テレビ会議は寄り集まっての会議に十分代替可能であると確信しました。これからはテレビ会議の方が主流となり、よほどの事情がない限り会議室に集まる必要はなくなるだろうと予測します。
となると大会社のズラリと並んだ会議室の半分は使われなくなります。テレワークが定着すればデスクを並べたフロアの面積も縮小する。すると不動産需要が縮小する。REITも暴落する・・・と風が吹けば桶屋が儲かるようなことを夢想していますが、それもヒマ、いや時間の余裕のなせるワザです。
そのテレビ会議、ITが苦手な人がまごつくのはやむを得ないとして、決定的な問題は自己嫌悪にありと発見してしまいました。。
ふつうの会議では、他の出席者の顔色をうかがいながら発言することはできますが、そのときの自分がどんな表情をしているかを自覚することはできません。ところがテレビ会議では、自分の顔をいやでも見ながら会議をしなければなりません。苦笑したり皮肉に口をゆがめたり、その表情が逐一目の前のモニターに映し出されます。これはまずい。心の動きがこんなに表れていようとは。他の出席者たちも無意識のうちにそれに感づいて、それぞれ自己規制をしているかもしれません。
会議の駆け引きに、自分自身の表情というもう一つの要素が加わります。思わぬストレスです。それが会議の流れにどのような影響を与えるか。経営学や社会心理学の新しい研究テーマになるかもしれません。

早生まれですが、なにか?

この季節になると、早生まれの子には体力や学力のハンディキャップがあるか、というテーマの報道を目にするようになります。3月下旬生まれの身としては、少々興味を惹かれるのですが、たいていは差があるんだかないんだかわからない結論でお茶を濁されてしまいます。
では自分自身ではどうだったのか、とはるか昔を思い起こしてみると、どういうわけか子どもの頃にハンディキャップを意識した記憶がありません。そんなこと考えたこともありませんでした。
もっとも小学校1年生のときの算数の足算引き算競争では、いつもビリから2番目でした。常にビリだった田島君が早生まれであったかどうかは知りません。駆けっこも遅い方でした。運動会の徒競走では6年生にして初めて3着になりました。
それは確かにその後に影響を与えたようです。たとえば宴会のワリカンの計算。電卓もスマホも使える世の中ですから、やるハメになればやりますが、できれば他の方にお譲りしたい。苦手意識がそうさせます。スポーツは何をやっても上達しません。ゴルフを始めたときはなかなか100を切れませんでした。これも苦手意識が足をを引っ張っていたように感じます。
このようないくつかの事象はあるものの、社会に出てからはそんなことを意識したことはまったくありません。多くの報道と同様あいまいな結論になってしまいますが、それは大学受験で一年間のハンディキャップを精算してしまったからでもあります。

マスクがマスク

マスク、ないですねえ。マスクが世の中からマスクされている、なんてシャレている場合ではないのですが・・・。
昨日、東京郊外の大病院の構内に出店しているセブンイレブンに寄ったら「マスクはレジで販売します」と空の棚に掲示が。レジで「マスクありますか?」と言ったら、「ありますよ~」と明るい声が返ってきました。確かにありました。1枚100円。
今朝の電車の中でノドがイガイガしました。ヴィックスを舐めても収まらず、数回咳をしてしまいました。これはまずい。周囲を見回すのも怖ろしく、あわててバッグからマスクを取り出しました。
いま10枚ほどマスクの手持ちがあります。コロナ騒ぎが始まる前に購入していたものです。持ってはいますが、感染していない人がマスクをしても無意味だという「専門家」のご意見に従って、街中でも電車の中でもマスクはしていません。それでいいのかどうか、確証はありません。人間は自分の意見を補強する情報ほど取り入れやすいと言うのが社会心理学の定説です。もともとマスクが大嫌いなので、その情報を取り入れているという、ただそれだけのことです。手持ちのマスクを使ってしまうのが惜しい、というケチな了見もそれなりにありますが。

反知性の時代を生き延びる

いまで言うところのパワハラ上司のもとで働いていた若き日の十数年間、つくづく「泣く子と地頭には勝てない」を実感したものでした。マネジメント技術などてんで持ち合わせていないその上司は常に強権的でした。部下の尊厳などには少しも気が回りませんでした。自分の思うようにならなくて、ついに窮すると泣き出すのです。女性でしたから。男性だったら暴力をふるうか開き直るところでしょう。どちらにしても論理や理屈を受けつけずに自分の意志を押しつけるという点では同じことです。
こういう人がなぜか成功する。少なくとも理屈ばかり考えている人よりも権力を握る確率が高い。知識や教養は無知や自己愛には勝てないのです。最近、論理を理解できないか、理解できないふりをする「指導者」が世界中にたくさん登場していますが、権力とは本質的にそういうものなのかもしれません。
それに関連する、とも言えないのですが、東京の西の郊外へ向かって伸びる私鉄に京王線と田園都市線があります。何年も前のことですが、不動産屋さんが言いました。「京王線てインテリが多いんですよ。みんないい学校を出ている。でもお金は持っていないんだ。田園都市線は、田園調布あたりの金持の子どもが家を建てて住んでいる。大した学校は出てないけど、金はあるんですよ」
これが事実であるかどうか確認する術もありませんし、近頃はずいぶん様子が変わっているとは思いますが、不動産屋さんの感想は、社会的なパワーと知性とは反比例するという指摘にほかなりません。
昔もいまも金と権力を得たいと思ったら、間違っても知性を持ってはいけません。それが反知性の時代を生き延びる方法ではないか。このところそういう思いを強くしています。

これは台本です

記者会見の想定問答集(Q&A)というものをこれまで何回書いて来たことか。企業に籍を置いていた頃は、記者会見や企業説明会のたびに毎回50~100近くの質問を想定し、それぞれの回答を書き上げていました。次に、関係部署に回覧して意見を聞いた上で修正を施し、最後に会見者自身が自分の言いたい内容を加筆修正して仕上げるするというプロセスです。
回答の書き方には2つの流派があるようです。回答事項を箇条書きにして、それを参考にしながら会見者が自分の言葉で発言する方法。もう一つは、回答者が読めばそのまま発言になるように、いわばセリフのように書く方法です。私は後者で作成していました。こちらの難しさは、できるだけ文章語ではなく語り言葉にするところにあります。それが原稿棒読み調を防止するのに役立ちます。もう一つは、発言者の日常の語り口調に合わせることです。発言者の好む言い回しなどを十分に把握しておかないとこれは不可能です。
広報コンサルタントとしては、回答を作成するのはクライアントサイドの仕事ですから、記者から出て来そうな質問を考えることが中心です。実際に9割ほど的中したことがありますが(エヘン)、これはクライアントサイドでは少々難しい作業となるようです。会社として答えにくい質問や発言者(社長や上級幹部)がいやがる質問は社内から出しにくいのです。そこに広報コンサルタントの存在意義があります。
さて、そこで先般29日の総理の記者会見です。
複数の報道によると、内閣記者会から質問をあらかじめ提出させて回答原稿を作成し、それを読んでおられたようです。その原稿は想定問答集ではありません。想定する必要がないのですから。これを日本語では台本と呼ぶのではないでしょうか。しかし、それを読む人を役者と呼んでは本物の役者さんに失礼になりそうです。

守りのマスク?

このクルマ、ドアにクッションのようなものをぶら下げて駐車しています。隣のクルマのドアにぶつけられて、自分のクルマがキズつくのを防ごうということでしょう。その隣のクルマとはわが家のクルマのことです。仮想敵は私と連れ合いの二人です。これまでキズつけた覚えは一度もないにも関わらずです。当初は「新車だからなあ」と鷹揚に構えていましたが、だんだん不愉快になってきました。ロールスロイスじゃあるまいし・・・。
これが何かと似ていると気づいたのは昨今のことです。新型コロナウイルスの感染が拡大するにつれてマスクで外出する人が多くなりましたが、健康な人の感染を防ぐためにマスクは役立たないと専門家は言っています。すでに感染している人がマスクをするのは咳やクシャミによる飛沫を遠くに飛ばさないために有効であるということです。
クッションは元気な人のマスクです。クルマのドアの端に取り付けるプラスチック製の小さな緩衝材がありますが、あれをわが家のクルマにつければ、感染者のマスク同様、お隣さんのご心配を和らげることができるかもしれません。 しかし、咳やクシャミが出るのは止められませんが、ドアを注意深く開けることはできますし実際にそのようにしています・・・ などとあれこれ考えているうちに、なんだか犯罪者のような気分になってきました。
一昨日から37.7℃の発熱がありました。これが4日続けば相談窓口に電話してよろしいとのことでしたが、1日半で36℃台に下がりました。だからと言って新型コロナでないとは言えません。明日はマスクをして外出することにしましょうか。

それもアリですが・・・

昨年末、ひょんなことから2泊3日の緊急入院生活を送ることになってしまい、所在ないので病室のテレビでM-1グランプリを見ていました。サンドウィッチマンが優勝した年以来です。こちらの体調もあってか、優勝者のミルクボーイの漫才が特段面白いとも感じませんでしたが、これでもかこれでもかとコーンフレークをいじり倒すネタに、メーカーはどう対応するのかに興味を惹かれました。メーカーにとっては必ずしもポジティブに受け取れないツッコミばかりですから。
その対応について2月8日、毎日新聞が報じていました。日本ケロッグのブランドマネージャーがネタの一つ一つに回答したそうです。たとえば、「晩飯でコーンフレークが出てきたら、ちゃぶ台ひっくり返すもん」 に対しては、「実際においしさを知ってもらえたと思いますので、ひっくり返さないでもらえるとうれしいです」。「回るテーブルの上に置いて回したら全部飛び散るよ」に対しては、「想像してみたのですが、確かに勢いよく回すと飛び散りますね。普通に回してください」というように。
広報的な対応としては、なかなかお上手だと思います。ただ、「1月末にはミルクボーイが同社の公式応援サポーターに就任。就任イベントでコーンフレークネタを一部修正した限定バージョンで披露した。日本ケロッグはCM制作も検討している」というのには、少々違和感を感じます。敵を抱き込んでしまう戦略で、それもアリかもしれませんが、そういうことができるのは大きな資本力を持つ大企業だけです。決して広報の王道ではないと考えますが、どうでしょう。

ただし、です。

2020年2月1日付 朝日新聞の広告から

雑誌「選択」の新聞広告に「危機管理『PR会社』が大繁盛」と出ていました。隣の芝生は青く見えます。
こちらは前向きな広報のお手伝いをメインにしていますが、長年の経験を買われて危機に直面した企業さんから支援を要請されることもあります。大騒ぎに巻き込まれた会社としては、社員だけでは心もとない、外部の目によるアドバイスがほしいとお考えになるのでしょう。そのような発想をする会社は、もうそれだけである程度は危機のトンネルの向こうに光が見えていると言えるかもしれません。
と、エラそうに書いてしまいましたが、「広報コンサルタントによって危機から見事に脱出」なんてことは金輪際あり得ません。ホンの少しよい方向に舵を切るお手伝いができるかなといったところです。それでも結果に大きな差となって出てくるケースが少なくありません。
ただし、です。私たちのアドバイスに会社が謙虚に耳を傾けていただければというのが前提です。
それぞれの業界でリーディングカンパニーになっている企業は殿様です。自覚はないかもしれませんが、周囲を睥睨しながらバリバリ中央突破した成功経験を積み重ねています。そういう企業ほど、他の意見を聞く耳を持ちません。医師免許も弁護士免許も調理師免許も持っていない広報コンサルタントのアドバイスなど、業者のセールストークくらいにしか認識しないようです。危機に直面しながらも、「自分たちが求めること仕事だけをやってくれればいいよ」ということになりがちです。それでは広報コンサルタントの仕事はよい結果を残せません。そういう基本的理解ができない会社の仕事はできればご遠慮申し上げたい。
ただし、です。目の前に札束を積み上げていただければ、翻意するにやぶさかではございません。