みごと合格!

「今年の漢字」を毎年発表している日本漢字能力検定協会が、公益法人のくせに儲けすぎだと叱られています。私の漢字能力も怪しいものですが、検定試験を受けてみようなどとは考えたこともありません。試験に落っこちたら面目ないし。というわけで、京都検定だとか常識検定だとか、その類には一切目もくれずにこれまで来ました。
ところが、なんの拍子か「茶道文化検定」なるものを受けてしまったのです。カミさんがお茶の先生から聞き込んで来たのですが、今回が初めての試験で、1級2級は来年から。初年度は3級4級の試験のみで、薄いテキストの中からしか出題しないというのです。
最初はやさしい、というのが検定界(というものがあるのかどうか知りませんが)の常識です。テキストを見てすぐにあきらめた日本アナリスト協会の検定も最初はやさしかったというウワサです。受けるなら今がチャンス。
私、恥ずかしながら、茶席というものに連なったことが一度もありません。いつか茶道を習ってみたいとは思いながらも、はい、そこでは手をこうやって、はい、そこで床の間の花を愛でましょう、つぎに茶碗を鑑賞します・・・等々、箸の上げ下ろしからお尻の拭き方まで指示されるのはかなわんなあと、どうにも気持が前に進みません。その上、なんだかんだと先生にお礼を包まなければならないのもちょっとコワイ。
そういう次第ではありますが、そのテキストについていた練習問題を試しにやってみたら、大学入試で日本史を選択しただけあって、かなりできる。がぜん挑戦意欲が湧いてしまったのでした。
テキストを3回さらりと読んで11月末の試験に臨みました。お茶は何科の植物か。てっきりバラ科と思いましたが、ツバキ科が正解らしい。これって、テキストに書いてないんですよ。ズルイ!
昨日、ついに結果の通知がまいりました。見事3級に合格です。91点で9問間違えました。カミさんは98点。ちょっと悔しいが、合格は合格です。さあ、お茶の文化ならなんでも聞いてくださいの心境です。
茶文化検定
ちなみに受験者数6,377名、合格者数6,303名。合格率98.8%だって。な~んだ、みんな受かってるじゃないの。原付免許よりやさしい。
来年の1級試験を受けるかどうかは、まだ決めておりません。こうやって主催者の資金集めに協力するのもどうかと思うし・・・。〈kimi〉

眠らせない

一昨日、土曜日の夕刻に学生時代の友人たちがココノッツのオフィスに集合しました。近くのレストランで遅めの新年会をやろうという目論見です。
集まった旧友の一人に某大学で演劇を教えている男がいます。大学教授としてより、前衛演劇団の主宰者として、その世界ではちょっと名を知られている存在です。長いつき合いなので、公演のたびにご案内をいただきます。初めはクラスメート総見といった塩梅で揃って観劇に出かけたものですが、やがて一人減り二人減り、ついに誰も行かなくなってしまいました。
暗い照明、聞き取れない台詞、怪しげなうなり声、そして筋のわからないまま終わってしまう舞台進行(一種の不条理劇なので当然と言えば当然なのですが)。折りたたみ椅子の小劇場で2時間あまりの芝居を見通すのは、普通の人間には眠い以上に苦痛でもあります
「オマエの芝居は眠いからなあ」などと、率直すぎる感想をぶつけられるのも学生時代の友人なればこそですが、「オレの演劇はエンターテイメントではない」とうそぶいて平然としています。
そんな眠い前衛劇にも熱心なファンがついていて、ときどき大新聞劇評にも取り上げられるから不思議です。人間の多様性とは、実に偉大なのです。
さて、前衛劇での居眠りには寛容な私ではありますが、広報セミナーなどではそうは行きません。受講者に居眠りをされると、講師としても私の立場がなくなります。そこで数年前から、私は一つの目標を設定することにしました。一人も寝かさないで2時間の講義を終える、というのがその目標です。
まず声です。小さい声、聞き取りにくい声では眠くなるのは当然です。私は地声が大きいので、その点は問題ありません。ただ、ときどき語がはっきりしないときがあるようです。受講者のアンケートで鋭く指摘されてしまいましたが、これは眠気とは関連がありません。
平板な話し方をしないことも大切です。声を大きくしたり小さくしたり意識的にしています。ある方から教わった方法は、ときどき黙る、というものでした。静かな時間が続くとぐっすり眠れそうですが、その説によれば、周囲の異変を感知して目を覚ますのだそうです。これはまだ試したことがありません。適度な間を置くと話にメリハリが出て、眠くなりにくいのは確かです。
抽象的な解説の連続も眠気を呼びます。私は会場を見渡して、居眠りをし始めそうな人がちらほら見えたら、実例や失敗談を話すことにしています。これはとても効果的です。
受講者のモチベーションももちろん影響します。学校の教師なら有無を言わさず講義すればよいのでしょうが(だから登校拒否が増えるんだ)、セミナーの講師はそうも行きません。聞き手の興味や問題意識とかけ離れた話をしていては、居眠りされても文句は言えないのです。「はずさない」ということが眠気を呼ばない最大のポイントなのです。
実は、前衛劇で眠ってしまう原因もまさにここにあります。一般にこれを「ひとりよがり」と呼ぶのですが、こればかりはとても友人には言えません。ゲイジュツとはひとりよがりなものですし。〈kimi〉

早くて早いか、遅くて遅いか

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たまには内輪話をしちゃいましょう。
わがココノッツは、広報畑の人間とジャーナリストがコラボレートしているのが一つの売りであります。結論から言えば、これは実に面白い。外から見えているジャーナリズムの姿とその内側とはずいぶん違うものだなあ、と広報畑の私などは、日々元朝日新聞編集委員たる田辺の話を聞くのが楽しくてしかたがありません。
と同時に、一般の企業で働いていた私などと、新聞社という特殊な企業で記者として働いていた田辺とは、労働観と言えば大袈裟ですが、働き方がずいぶん違う。
広報をやっている人なら常識ではありますが、朝刊の締めきりは深夜です。記者は出稿した原稿が活字になるのを確認してから帰宅します。毎日帰りが遅くて大変だなあ、などと同情する必要はありません。その分、朝が遅いのです。
10数年前のことですが、部下の女性にある新聞記者を紹介したことがあります。二人とも少々個性的で、婚期を逸しそうな按配でしたが、なんとなく相性がよさそうに感じられたのです。何回かデートを重ね、これはうまく行きそうだと思っていた矢先に突然破談となりました。理由は、女性の方の両親が「新聞記者は時間が不規則だ」という理由で反対したからでした。
そういうことで、わがココノッツも広報畑の人間は早めの出社で帰宅が比較的早く、ジャーナリスト畑は出社が遅く帰宅も遅い、ということになっております。これは生活習慣となって身についてしまったことなので、お互いもう変えようがなさそうです。だからと言って、当分破談にはなりそうもありませんが。
寒いですね。写真はロウバイです。狼狽ではなくて蝋梅です。〈kimi〉

医療機器市民フォーラム

昨日17日、「第4回医療機器市民フォーラム」が東京・有楽町の讀賣ホールで開かれました。昨年の第3回までの責任者をしていた関係で、主催者からご招待をいただいたので行ってきました。
これまでの3回は同じ有楽町の朝日ホールでしたが、それより大きい讀賣ホールを埋め尽くす来場者で、それだけでもこの種のイベントとしては大成功だったと言えるでしょう。また、講演やパネルディスカッションの内容も充実していました。関係者のみなさんのご努力に敬意を表したいと思います。
「医療機器」と言っても一般の人にはちっともピンと来ない、というのが医療機器業界の中でいつも出てくるグチの一つです。先日もある会議で、行政の方が「手術で麻酔がかかっているうちにいろいろな医療機器が使われるが、麻酔から覚めるともう目の前にはないから、一般の人が医療機器を知る機会が少ない」という趣旨のお話をされていました。ちょっと待ってよ、それって私が一昨年に業界団体の機関誌に書いたことじゃん、とも思ったのですが、自分の書いたことが知らず知らずに行政に影響を及ぼしているんだ、と信じて素直に喜びぶことにしました。その通り、多くの医療機器は病院の患者さんの目につかないところで使われていて、一般の人には馴染みが薄いのです。
「医療機器」という言葉は、2006年に成立した改正薬事法で初めて法的に認知された用語で、まだ新しく、それだけに生硬な感じもします。それ以前は医療用具とか医療材料とか医療器具とか医用機器とか、いろいろな呼び名で呼ばれていたわけですね。
それに比べて、「薬」というのはごく一般的な名詞だし、「医薬品」も昔から馴染みのある言葉。とても「医療機器」が太刀打ちできるものではありません。
また、医療用の医薬品は17,500であるのに対し、医療機器は300,0000あると言われています。数が多くて、ピンセットからMRIまで種類もいろいろ。とても一括りにはしにくい。こんなところが医療機器業界のあせりのようなものにつながってくるのでしょう。
なんとかして医療機器の社会的認知を向上させたい、そんな業界の思いから始まった「医療機器市民フォーラム」。たしかに費用もそれなりにかかるのではありますが、業界内でのマスターベーションに終わらせることなく、さらに大きく発展して行ってほしいと祈りながら会場を後にしたのでありました。〈kimi〉

さらさら読みたい

このところ、広告の世界で名の知られたある方のご著書を読んでいました。長く広告関係の団体の要職にも就かれていた先達で、私にとっても広告のイロハを教えていただいた恩人の一人でもあります。それだけに、いまの広告界への警鐘とも言える提言の多くが「そうだそうだ」と共感できるものでありました。
そのように実にすばらしい内容ではあるのですが、読む通すのには少々手こずってしまいました。
著者はコピーライターのご出身。もとより文章は下手ではありません。ハッとさせられる言葉遣いの数々にご経歴の片鱗が見られ、感心することしきりでありました。しかし、読み進むうちに、そのきらめく言葉遣いに少しずつ疲労感を覚えてしまったのでした。その卓抜な言い回しにいちいち思考が引っかかってしまって、すんなり読めないのです。
コピーライターはキャッチフレーズが勝負。アトラクティブな言葉の選択に頭を絞ります。それを受けてボディコピーでは、伝えるべき要素を短く的確に完結させなければなりません。それがコピーの作法です。しかし、そのように書かれた文章を一冊の書籍として連続で読むとなると、これがつらい。次から次に小さな山がやってきて、それを登り下りしているうちに体力を消耗してしまうと言えばわかっていただけるでしょうか。
ステーキに天ぷら、すきやきに鮟鱇鍋、さらには”比内鶏むね肉のソテーのピューレと森のきのこ 粒マスタードソース”、その次には”仔羊のロースト フヌイユフォンダン添え”、またその次には”平目のロースト 魚介とアーティーチョーク ソースピストゥ”などなど。このようなコッテリとした豪華料理を毎日食べ続ければ、さすがに食傷するというもの。やはり、真鰺の開きに豆腐の味噌汁、納豆にご飯の朝食で、昼はせいぜいおごって鴨南蛮、夜はぶりの照り焼きに風呂吹き大根、少々のサラダになめこ汁、お茶漬けさらさらなんて食事の方が長続きはするというもの。同様に、さらさらと最後まで読み通せる一冊には、コピーライティングとは異なる書籍の文章の作法が存在するようです。
短編小説と長編小説の技法はまったく異なるのだそうです。短距離ランナーとマラソンランナーの違いのようなものかもしれません。文章のうまい下手とはまた別の問題なのでしょうね、きっと。〈kimi〉

めでたしめでたし

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年末から年始にかけて、いくつかの寺社にお詣りをしてきました。
信仰はしていないのですが、いつの頃からか信心はするようになりました。信仰と信心とどこが違うんだ、と言われても説明できかねます。ただ、神社仏閣から聖堂教会に至るまで、御利益のありそうなところでは、必ずしっかりお祈りをしてくることにしております。ときどきはおみくじも引いてみます。
で、年末に行った太秦の広隆寺のおみくじは、なんと「凶」。やばいよ、これは。さっそく利き手と反対の左手でそのおみくじを針金に結んで来ました。そうすると吉に転じると、暮のテレビでどこかの教授が言っていました。
元旦に初詣に行った浅草寺でも試みました。ここには「凶」がたくさん入っていることが経験上わかっています。何年か前、ここで「凶」が出た年は碌なことがありませんでした。緊張して引いてみたら、今年は「半吉」。縁談も成就できないし、待ち人も来ないそうで、半吉なのにちっともよいことが書いてありません。これも急いで左手で結んで来ましたが、今年の運勢に暗雲が垂れ込めているようで、どうにも面白くありません。
もう一度チャレンジすることにしました。オフィス近くの平河天満宮。今度は「小吉」。なかなか「大吉」に巡り会いませんが、おみくじで一番よいのは「小吉」であると、どこかで読んだことがあるので、これにて満足することにしました。凶、半吉、小吉と、ご神託もだんだんよくなって、今年はきっとよい年になる、というような心持ちになってきました。めでたしめでたし。〈kimi〉