ラーメンフリーク

最近は嗜好が変わってきて、ほとんど興味を失っておりますが、かつてはかなりのラーメン好きでありました。その残滓がときたま頭をもたげることがあって、ある日突然、山梨県某市の極めてわかりにくい場所に存在するというラーメン屋へ行ってみたくなってしまいました。
食い物をおいしくいただくには空腹であることが絶対の条件。ちょうどよい時間に現地に到着するようカーナビゲーションをセットして午前10時30分かっきりに自宅を出発しました。
「このあたりです~」とカーナビが任務終了を宣言したのは、地方のなんでもない住宅地のド真ん中。こんなところにラーメン屋が成り立つのかなあ、と心配しつつ前進したり曲がったりバックしたりしているうち、ようやくその店を見つけたのはちょうど12時でした。カウンターのみ10席ほどの店内は満席で、店の前には3人組とカップル計5名が行列していました。行列ができる店が大嫌いな私ですが、1時間半もかけてやってきた以上は列ばないわけには行きません。30分待ってようやく入店することができました。
さて、不思議な光景に出会ったのはそれからです。行列をしていたときは一切会話を交わすことがなかった3人組とカップルが黙礼を交わしました。しかも3人組は先に入店していた客とも黙礼を交わしたではありませんか。そればかりではありません。5分後に私の後から入店した3人の中年女性は先の3人組に「ああ、こんにちは」と挨拶をしました。どうなっているのでしょう。私以外の客がすべて知り合いだなんて・・・これはもうカフカか安部公房の世界です。
地方の町のことだから、みんな顔見知りということはあり得ます。初めはそう思いました。しかし、彼らの会話を聞いていると、どうも違うようです。そこで思い当たりました。
彼らは東京から来たラーメンフリークたちではないか。有名店、評判店を食べ歩き、あちこちの店で出会ううちに顔見知りになってしまった・・・そのような結論に達したのでした。これは驚くべきことではありませんか。
日本のラーメンブームもかれこれ30年以上は続いているようで、こうなるとブームとも言えず、かと言って文化というほど立派なものとも思えず、なんと表現してよいやらわかりませんが、とにかくいまの日本には相当数のラーメンフリークが存在しています。彼らが次々に開店するラーメン屋に試食に訪れ、このような地方の店の経営も支えている。ラーメン店の市場規模は4,000億円以上とも言われていますが、彼らラーメンフリークたちによる部分は一体どのくらいあるのでしょう。
そうそう、その店のラーメンの味について書くのを忘れていました。少なくとも私は一回行っただけで十分満足いたしました。二度と訪れることはないでしょう。〈kimi〉

何を持ち出すか

福島第1原発事故の警戒区域で、一時帰宅が昨日ようやく始まりました。2時間という短時間の中で、それも防護服やマスクをつけての作業では、必要なものをすべて持ち出すことはさぞ困難だったでしょう。自分だったら、何を持ち出すだろうと考えたのですが、通帳や印鑑といった公的手続きに必要なものはともかく、それ以外で優先順位をつけるのはかなり難しい。悩みに悩んだ末に、結局つまらないものを持ってきてしまいそうな気がします。
新聞やテレビの報道によると、アルバムと位牌を持ち帰った方が多いようです。
アルバムは、70年代のテレビドラマ「岸辺のアルバム」以来、家族にとって大切なものという認識が広く共有されるようになりました。とくに自宅に帰れず避難されておられる方々にとって、家族の絆の証であるアルバムはよりかけがいのないものとなったことでしょう。
位牌については、持ち帰った方と花を供えて帰った方がおられたようです。宗教心というよりも、これも家族との絆の象徴と考えられます。どちらにしても、お位牌が無視しがたいものであることは間違いありません。位牌なんて、戒名を書いた木札に過ぎないという考え方もあり得るでしょう。お骨はお墓に埋葬してあると考えれば、持ち出すべきより重要なものがほかにあるかもしれません。
自分ならどうする。自宅の仏壇には、お目にかかる機会のなかったご先祖様も含めていくつものお位牌が祀られています。戦死したご先祖のもある。戦死ったって、第二次大戦ではありません。幕末の戊辰戦争です。それらの位牌を自分ならどうするか。
停電もなくなった東京で、そんな想像をいくら巡らせていても結論は出ません。しかし、いつになったら戻れるか、先の見通せない状況では、お位牌はやはり持ち出さなくてはならない重要アイテムなのだろうなあ、などとも考えました。
ここには日本人の信仰、考え方、心の動き、文化のありよう、人間関係、価値観・・・そんなものが残らず凝縮されています。このような日本人を理解できること。これこそ日本で広報の仕事をしている人に求められている最も大切な能力であると、これだけは確信できるのですが。〈kimi〉