行進の本質

ラーメン屋や鯛焼き屋の前ではたまに行列をすることがありますが、行列して歩く、つまり行進というものを私はここしばらくしたことがありません。そもそも大の行進嫌いなのです。
小学生のときはよく行進させられました。朝礼、運動会、遠足、いつでもどこでも行進でした。いまも事情は変わっていないようです。集団行動の精神を養うといった理屈があるのでしょうが、批判もあります。先生にとっては、子どもたちが並んで歩いてくれた方が面倒がありません。本音はそんなところかもしれません。
世界共通で最も行進好きな集団と言えば軍隊です。軍事パレードが大好きな国が近隣にいくつかありますが、日本の自衛隊もバッキンガム宮殿の衛兵も行進をします。警察、消防団などの組織に属している人たちは、事あるごとに行進しています。高校野球の選手たちも行進しながら入場して来ます。そう言えば、オリンピックでは開会式では入場行進をするのに、閉会式ではバラバラです。なぜなんでしょう。
おぼろげな歴史認識によれば、もともと日本には行列はあったものの、行進という概念はなく、幕末に西洋流の軍隊を組織するときに、初めて輸入されたようです。ということは、大名行列も行進していたわけではないということになります。
集団行動には縁遠いように見える弁護士さんも行進がお好きであるようです。テレビニュースには、行進しながら裁判所に入って行く弁護団の姿がしばしば登場します。不祥事のあった企業に家宅捜査に入る地検特捜部のみなさんも行進しています。秩序を重んずる法曹界は行進がお好きなのでしょうか。
一般には、大人になると行進する機会はめったにありません。パック旅行で添乗員さんの小旗について歩くときでも、バラバラくっついて歩いていますね。自我が確立している人間は行進を好まないはずです。行進という行為は自我の一部(まれには全部)を組織にゆだねることではないかと考えてみると、行進の本質が見えて来るようです。軍隊しかり、デモ行進しかり、塀の中もしかりです。私がしばらく行進をしていないのは、そんな組織に属していないからなんでしょうね〈kimi〉

なんとかリンクしているようです

このココノッツブログをFacebookの私の”ニュースフィード”という欄に自動的に転送する設定にしてしまった、と先に書きました。どうやらうまく連動したようです。「どうやら」というのは、「私の書いたノート」というところに連動すれば、「友達」が読めるようになっているらしいのですが、「友達」ではない私(つまり本人)には確認できないからです。できるのかもしれませんが、そこは先頭集団から5m遅れで走っている私のこと、よくわからないのです。
以前に書いたブログを「友達」のみなさんが読めているのかどうかも実は確信が持てません。念のためにココノッツブログのURLを記載しておきましょう。
http://www.cocoknots.co.jp/blog/index.php      〈kimi〉

ブログなんですが・・・

え~、なんてわざとらしく書き出したのは、なんとなく言いにくいというか書きにくいからです。そのわけは、このブログをFacebookの私の”ニュースフィード”という欄に自動的に転送する設定にしてしまったからです。うまく連動するかなあ、というおっかなびっくりな気分もあるし、「友達」ということになっている方々に読まれることに対する緊張もある。
なまけなまけ書いているココノッツブログは、どのくらいの方々から読まれているのかよくわかりません。もちろんログ解析レポートには数字が打ち出されているのですが、世間一般のブログに比べればかなり少ないのではないかと思います。
それなのになぜ書いているか。理由はいろいろあるんですが、自分自身の文章トレーニングの場、というのが実は大きな部分を占めています。たとえばブログの文章とプレスリリースの文章とは大きく異なりますが、それでも文章を書くという行為を続けていないと筆が(キータッチが)錆び付きます。ブログを書きながら、密かにレトリックの練習をしたりもしております。
そんな練習につき合っていられるか、と下心はすぐに見透かされ、それが読み手が少ない原因かもしれません。そんなエチュードをFacebookと連動させるなんて、恐れ多いことです。しばらくやってみて、続けるかどうか改めて考えることといたします。〈kimi〉

「間違いありません」

「担当者が不在でコメントできない」
都合の悪い取材を受けた企業の決まり文句です。実際にはどのように答えたのか知りませんが、新聞にはこのように書いてあります。担当者って、だれなんでしょうね。広報担当者かな。それだったら、「社長を出せ!」となるから、具体的な職名を出さないところがミソなんでしょう。
「訴状を見ていないのでコメントできません」
訴えられたときの逃げ口上。たしかに訴状が届くより先に取材を受けることが多いので、これはなかなかよく考えられたコメントであるとも言えます。「えっ、ウチが訴えられたの? で、向こうはなんて言ってるの? ああ、そりゃあ違うよ」なんて、記者から情報もらってペラペラ答えるわけには行きませんものね。
「判決を精査し、控訴の要否を検討する」
これは敗訴したときの紋切り型。検察もよく使います。判決直後では答えようがないのもたしかです。
「弁護士に一任している。答えることはありません」
というのもあります。
紋切り型のコメントというのは一般にはお薦めできませんが、時間稼ぎをしなければならないときや、実際にコメントのしようがないときなど、やむを得ないケースもあるでしょう。
新聞の社会面でよく見かけるコメントに
「仕事のストレスからむしゃくしゃしてやった」
というのがあります。万引き犯の定型的自供ですが、どうも真実とは思えません。
「オイキミ。なんで万引きなんかしたんだ?」
「このところ会社で面白くないことが続いたもんで・・・」
「仕事のストレスがあったということだな」
「まあ、そんなところで・・・」
「それじゃ『仕事のストレスからむしゃくしゃしてやった』と調書に書いとくけど、それで間違いないな?」
「間違いありません」
容疑者、取り調べ側ともども、真実なんて考えれば考えるほど、またいくら追求してもわからないから、適当なところで手を打ちましょう、ということじゃないか。しかし、それでいいんでしょうか。
近頃、新聞やTVニュースでしばしばお目にかかるのが、この「間違いない」というフレーズです。「容疑者は、『自分がやったのに間違いない』としている」と結ばれている記事が少なくありません。警察発表をそのまま記事にしているのでしょうが、報道もまた適当なところで手を打っているわけです。〈kimi〉

先頭集団から5m

少し前にTwitterが話題になったと思ったら、昨年末の中東ジャスミン革命あたりからは、俄にFacebookが注目されるようになりました。
こう書くと、ITに熱心な方々から、いやもっと前から盛んに使っているよとお叱りを受けそうですが、日本の社会一般ではこのあたりが妥当な認識だろうと思います。
さて先日、そのようなソーシャルメディアをどのように広報に応用するか、といったテーマのセミナーに参加して来ました。それなりに参考にはなりましたが、ふと会場を見回して気づいてしまいました。ひょっとしてこの会場内の最年長者は私じゃないの? 広報の世界の方々は一般に若作りが多いので正確には判断できかねますが、三番以内であることはほぼ間違いなさそうでした。
同年代のビジネスマンたちの中に、メールは読むけど返事は出せないという人がいまも存在します。TwitterやFacebookにはついて行けないと、あきらめている人たちがほとんどです。一方で、はるかに年長にもかかわらず元気にTwitterでつぶやき続け、Facebookのニュースフィードに毎日書き続けている方もおられます。
どんどん進化するIT技術にキャッチアップし続けるのは、マラソンに似ています。先頭集団に遅れそうになって、もうダメだと思った瞬間から、あっという間に100m、200mと引き離されてしまいます。なんとか先頭集団の後方5mに食らいついている、というのがいまの私のポジションでしょうか。実に危うい。次の給水ポイントはまだかしら・・・そんなこと考えているようでは、途中棄権もあり得るかな。〈kimi〉