記者会見とストロボ

メディアトレーニングで、記者役の他にカメラマン役も用意して、パッパッパッとストロボを発光させることがあります(実際にやったのは数回ですが)。臨場感を演出して、本番の記者会見で緊張しないように慣れていただこうという意図です。
マリリン・モンローとかジョー・ディマジオとかジョン・F・ケネディ(3人の関係にこだわったわけではありません)などの「時の人」がフラッシュライトを浴びながら、突きつけられた大きなマイクに向かってコメントしているシーンなどが、昔のニュースフィルムに残っていたかと思います。記者会見と言えばフラッシュがつきものでした。
現在の記者会見でも、とくにニュースバリューの高い事案では、会見者の前にスチールカメラマンがずらりと腰を下ろして盛んにストロボを発光させています。
ところが知人のプロカメラマンによると、感度を高く設定できる最新型のデジタルカメラならストロボは必要ないのだそうです。
デジカルカメラはさらに進歩しつつあって、4Kで動画を撮影しておき、一番よいカットを静止画像として切り出すことが可能になっています。新聞やネットニュースで使う程度なら十分な画質だそうです。8Kならさらに解像度の高い写真が切り出せます。
1台のカメラでニュース動画もスチール写真も得られるということなら、スチールカメラマンたちの職が危うくなりそうです。だから必要がなくてもストロボを発光させて自らの存在をアピールしているんだ、というのは少々皮肉が過ぎる気もします。動画と静止画は画の特性が全く異なる、という説にも理解できるところがあります。
シャッター音もない静まりかえった会場で聞こえるのは、会見者の読み上げるコメントと質疑応答、それにキーボードを叩く音だけ・・・という記者会見は、ちょっと妙な気分のものでしょうね。

事実とリアル感と、そして真実

朝のNHK連続テレビ小説に、現像された映画フィルムを手に取る戦争中のシーンがあって、そこに小道具として使われていたのがオレンジ色に着色された最近のネガカラーフィルムだった、と知り合いのカメラの専門家が指摘していました。色素のにごりをとる目的で、ネガカラーフィルムがオレンジ色に着色されるようになったのは戦後のことなのだそうです。
そのNHK連続テレビ小説を出張先のホテルで見ていたら、フィルム以上に気になることがありました。戦時下のストーリーなのに、男性出演者のヘアスタイルが現代そのものなのです。昔の人は、一部の「変人」を除いて、長髪は鬱陶しいという価値観を持っていたはず。ましてや戦時下だったら「非国民」と非難されていたでしょう。戦争中に現代人がタイムスリップしたような違和感を感じました。長髪はビートルズ以後に一般化しました。
俳優さんとしては、あるいは所属するプロダクションとしては、このドラマのために丸刈りなどにしてしまっては次の仕事に差し支えるということなのかもしれません。役づくりのために体重を増やしたり前歯を抜いたりした俳優さんのエピソードも聞いたことがありますが、そこまでやる仕事ではないと割り切っているのでしょう。そういうところにドラマとしての完成度の低さを感じてしまいます。
時代考証は演出との兼ね合いもあって、必ずしも歴史に忠実とはいかないと、別のNHKの番組で専門家が話していました。ドラマの世界では事実すなわち真実ではない、それは理解できないこともありませんが、リアルワールドにおいては事実すなわち真実でないと、とても笑ってすますわけにはいきまへんな。

ガバナンスとは何かなあ

IRの世界では、ガバナンス、ガバナンスとかまびすしい。しかし、どうもまともに理解している向きは少ないように思います。ガバナンスとは不祥事を防ぐこと、という誤解が最も一般的ですが、株主の意向を反映させること、というのもあります。会社中がトップの言うことを聞く、あるいは聞くように経営することがガバナンスだと思っている人も多いようです。そいういうことならば、命令をしなくても下の者がトップの意向を忖度する現政権のガバナンスが理想的ということになるのかもしれません。それは違うでしょう。
東証のガバナンスコードの定義は、「会社が、株主をはじめ顧客・従業員・地域社会等の立場を踏まえた上で、透明・公正かつ迅速・果断な意思決定を行うための仕組みを意味する」というもので、それはごもっともだけど、経営者も従業員も社会の構成員も、それぞれ精神的に自立していて、自由に物が言える環境にあることが大前提です。
しばしば遭遇するのは、社長のいる場では何も発言しない社員たちの姿です。下手なことを言えば左遷されるかもしれない、給料が上がらないかもしれないとみな怖れています。そのような場に何十年も身をおいたので、これは他人事ではありません。
あらためてガバナンスと何かなあと、最近のニュースを見ながら考えます。結論は得られておりません。

役所の体質

いま、某役所から帰ってきたところです。
弊社は超零細企業ですので、いただける公的助成はみんないただきたい。社労士さんに依頼すれば簡単ですが、その手数料がもったいない、ということで、幾多の難関を乗り越えつつ自ら手続きをすることにしております。
最初の難関は、役所のHPを読み解くこと。やさしく説明しようとする努力は認められるものの、1回読んだだけで理解できるような代物ではありません。制度の条件に当てはまるかどうかを確認し、手続きの順番と時期を把握し、必要書類をチェックする。そこまででかなり消耗します。何回か読み直さないとアタマに入りません。
さて、ようやく揃えた書類一式を携えて役所へ出向くと、これが一回で受理されることはまれです。今回も初回で討ち死に。温和しそうなオジサンがチェックリストと説明書を参照しながら、あっちをめくり、こっちをめくりしながら書類を確認することおよそ30分。この書類が必要だと思うので上長に確認します、と言い置いて鳩首協議すること15分。その挙げ句、どこにもその書類が必要だと書かれていないので、必要ありませんという結論に。自分で言い出しておいて、なんじゃそれは。「この助成金の申請はまだ珍しいんですよ」と言い訳。
さらに、チェックは続き、昨年の夏にできた制度が秋にまた改正になったので、書類の一部が適合していないとの理由で結局ボツ。それはないでしょう。そんな改正のお知らせはいただいておりません。そのあたりが社労士でない悲しさです。
そんな経緯をへて、今日再び役所に行ったわけです。
今度はしかめっ面のオバサンが担当。前回のチェックリストが役所にファイルされていて、どこが問題だったのか記録が残っているにもかかわらず、また目を皿のように書類を初めからチェックして、ようやく受理されました。書類に対する役所の扱いというのは、このようなものなのでしょう。
ホッとして「この申請は珍しいんですってね」と言ったら、「申し上げられません」ですって。オバサンの名前が佐川さんだったかどうかは、聞き漏らしました。

不毛の議論

自分にとってはどうでもいいことなんですが、なんとなく気分がよろしくない、というニュースがときどきあります。泰明小学校がアルマーニデザインの「標準服」を導入したというのもその一つ。
そもそも公立小学校に「標準服」なるものが存在していることを、今回の報道ではじめて知りました。自分が区立小学校に通っていたときはもちろん、すっかりオヤジになってしまった息子どもが卒業した市立小学校にも「標準服」があったという記憶がありません。
標準服というのは、制服でないが、制服みたいなものらしい。そのようなあいまいな状態で、何気に強制するというやり方が気分をよろしくさせない要素の一つ。こういうのも「行政指導」の一種なのでしょう。
銀座だからブランド、という陳腐な発想がもう一つの要素。何の関係もないでしょう。校長のアタマの中でだけつながっているらしい。
ブランドならブランド料も支払わなくてはならないし、生地や仕立てもブランドを傷つけることのない品質に保たなければなりません。お高くなるのは予想できたこと。教育の無料化などと叫んでいた政治家はどう考えているのでしょう。
この一件については、朝日新聞で制服の価格問題を扱って貧困ジャーナリズム大賞2016を受賞された記者さんが、HUFFPOSTに異動して、学校側と保護者とのやりとりを詳しく報じています。それを読んだら、さらに気分がよろしくなくなってしまいました。不毛の議論というのが、まさにこれです。バカバカしいっちゃありゃしない。