今年読んでいない本

学生時代、友人の家へ遊びに行くと、そこの本棚をしげしげと眺めて、友人がどんな本を読んでいるのか密かに値踏みをしたものです。若気の至りとは言え、まったく失礼な話です。しかし、どんな本を読んでいるかで、その人物のおおよそがわかるというのは真実に違いありません。だから、この一年間に私が読んだ本などはとても申し上げられません。質量ともに失笑を買うだけです。
年末になると、今年の本ベスト5などという企画が新聞を賑わします。そのほとんどは読む気の起きない本や読んでも理解できない本なのですが、こんな本が出ていたんだと初めて気づいたり、読んで置くべきだったと反省したりする本も少数ながら見つけることができます。昨日の朝日新聞と日経新聞の読書欄に挙げられていた本からいくつか選んでみました。
・「巡礼」 橋本治 新潮社
・「闘うレヴィ=ストロース」 平凡社新書
・「ノモンハン戦争」 田中克彦著 岩波新書
・「音楽の聴き方」 岡田暁生著 中公新書
・「更に尽くせ一杯の酒 中国古典詩拾遺」 後藤秋正著 研文出版
・「特攻と日本人の戦争」 西川吉光著 芙蓉書房出版
・「ジュール・ヴェルヌの世紀」 コタルディエールほか監修 東洋書林
・「荷風へようこそ」 持田叙子著 慶應義塾大学出版会
・「日本の医療の何が問題か」吉田あつし著 NTT出版
これらの本をこれから読むと宣言しているわけではありません。読んでみたいなあ、と思っただけです。最後にもう一書挙げておきます。
・「読んでいない本について堂々と語る方法」 ピエール・パイヤール著 筑摩書房                         〈kimi〉

「ビジネスマンの狭い世界」その後

昨日、一本の電話がかかってきました。
2009年11月7日にこのブログに書いた「ビジネスマンの狭い世界」に関することでした。どういうご趣旨か、にわかには呑み込めなかったのですが、電話の主がブログで取り上げた「優良放送番組推進会議」なる組織の事務局をされている(事実上の設立者らしい)とうかがって合点が行きました。ブログで批判されたとお考えになっての、反論のお電話だったのです。
いろいろとお話をしましたが、納得されたかどうか曖昧なまま電話を切ることになりましたので、ここに私の本意を改めて書いておきたいと思います。
長年のテレビ界における視聴率第一主義には、私は大いに疑問を持っています。とくにF1と呼ばれる20~34歳の女性層にターゲットを絞った番組づくりがテレビの質を低下させたのではないかと疑っています。そういう意味で、他の指標や価値観によってテレビ番組を評価しようとする試みには大賛成です。大企業のサラリーマンたちが番組を評価するのも結構だ思います。決して否定するものではありません。
しかし、大企業に勤めている人たちは社会的な強者です。かつては私自身もそうでしたが、一個の人間としては誠に弱い存在であるにもかかわらず、大企業の社員であるという身分において、強者としての発想から抜け出ることはできません。
NHKが放送している演芸やバラエティ番組の多くは実に面白くありません。こんな番組を誰が喜んで見ているのか、と私自身は思うのですが、もしかしたら、そのような番組を楽しんでいる人たちが大勢いるのかもしれません。大都市のビジネスマン層とは異なる感性を持った人たちもきっと存在しているのでしょう。
大企業のサラリーマンによる評価に価値があるように、他のさまざまな人たちによる番組評価もまた大切だろうと、私は考えます。何をもって「優良」とするのか、さまざまな価値観によって評価されてこそ定まるものではないでしょうか。
「優良放送番組推進会議」に参集されておられる一流のインテリジェンスをお持ちの方々がまさか間違われるとは思いませんが、一流企業のサラリーマンの価値観もまた、一部の人たちのそれに過ぎない、ということを先のブログでは申し上げたかったのです。〈kimi〉

講師の現実

今日で、某ビジネススクールの今年度の講義がめでたく終了。広報担当者セミナーとかIR担当者講座といった、現にその仕事をしている人たちに教えるのではなくて、これからキャリアを積もうとという人たちにコーポレート・コミュニケーションを教えようというわけで、さて、どこにフォーカスしたらよいか、学生はどんなことに興味を持っているのか、結局手探り状態のまま終わってしまったような気がします。学生のみなさんには誠に申し訳ない気持です。企業においてコミュニケーションがいかに重要かということをちょっぴりでも理解していただけたのなら、うれしいのですが。
講義をするに当たっては、持っている知識を総ざらえし、虫干しをし、新たな知識も仕入れました。私自身にとっても大きな勉強の機会が得られたことになります。また、若い人たちとの交流はよい刺激になりました。感謝しなければなりません。
これで、約1年にわたって名刺に刷り込んでいた「講師」の肩書きをいったん消すことになります。「講師」の肩書きに何の経済効果も期待できませんが、学校側は広告効果を期待しているようでしたし、学生を引率して企業を訪問するときなどには、「何の売り込み?」などと訝しげな顔をされないですむという効用を確認できました。しかし、仕事の上で初対面の方から「先生」と呼ばれたりして、面映ゆいやら恐縮するやら、という経験もしました。「先生」は来年の秋までいったんお休みです
ここで、一つ誤解を解いておきたいことがあります。ときに「講師料もいただけていいですね」と言われることがあります。誤解です。時給で計算すると派遣労働者とほぼ同水準。90分授業を月に4回ですから、ご想像ください。準備に要した莫大な時間や必要な情報や知識を手に入れるために使った費用まで考えたら、かなり割の合わない仕事です。いっそのこと「ボランティアでお願いします」と言われた方が、「将来の有能なビジネスパーソンを育てるために一肌脱いでやろうか」と、こちらもやる気が高まろうというもの。毎月律儀に送られてくる給与支給明細書の数字を見ながら、「自分の価値」なんて言葉も頭をよぎったのであります。
これが日本の教育現場の現実かと、妙な勉強もさせていただいた講師稼業(稼いではいませんが)でした。〈kimi〉

思い出の軽食堂?

毎週木曜日の朝日新聞夕刊に掲載されている小泉武夫氏のコラム「食あれば楽あり」を愛読しています。男が求める味の勘所みたいなものが押さえられていて、毎回実にうまそうです。
その先週は〈ソース焼きそば〉。どんな奥の手が登場するのかと期待して読んだら、スーパーの袋入り焼きそばと添付の粉末ソースを使っているので、ちょっとがっかりしてしまいました。と同時に、いまはほぼ絶滅した外食産業を突然思い出しました。
通っていた高校の正門へと曲がる路地の角にあったその店のガラス戸はいつも全開になっていて、その左に焼きそばを焼くスタンドがありました。店内には、赤色のデコラのテーブルにビニール張りの椅子。焼きそばは、発泡スチロールではなくて、ちゃんと皿に盛って出てきました。そこにテーブルの上にある紅ショウガを載せて、青ノリを振りかけて食べる。昼食にはボリュームが少し足りないけれど、下校時の空きっ腹を満たすには適当でした。メニューにはそのほかにラーメン、カレーライス、うどんやあんみつ等々があったような。
中央線中野駅の南口にあった同様の店には、入口の右に今川焼きのスタンドがありました。夏にはそこがかき氷の器械に代ります。アイスクリームのボックスには、バニラと小倉が大きな袋に入っていて、そこから掻き出してアイスモナカにしてくれます。
こんな店が東京にはいくらもあったのですが、バブル期にほぼ全滅してしまいました。当時、こういう業態をなんと呼んでいたのでしょう。軽食堂かな。ちょっと違う気もします。業態の名称など必要ないほどありふれた存在だったのです。
昔話をするようになるのは、年を食った証拠に違いありませんが、思い出すと妙に懐かしい。きっと探せば、下町のどこかに一軒や二軒は生き残っているかもしれません。年明けに旧友たちと向島の七福神巡りをしようじゃないかと話が盛り上がっているので、その折にでも探してみようかな。〈kimi〉

肥満と社会負担

小さなお嬢さんを連れたそのお父さんを、初めて見かけたのは十数年も前のことです。ご近所のようで、朝のバス停や駅でときどきお見かけするようになりました。とても仲のよい親子です。あるとき、お嬢さんが障害をお持ちであることに気がつきました。お父さんが毎朝施設か学校かへ送っておられたのでしょう。
いまもときどきその親子を見かけることがあります。お嬢さんは高校生くらいになりました。相変わらず駅までお父さんと一緒です。ある朝は、ホームでお嬢さんがさかんに何事かをお父さんに訴えていましたが、仲のよい親子であることに変わりはありません。
変わったのは、お父さんの体重です。いつからかムクムクと横に膨張し始め、いまやふくれるだけ膨らんだ風船に手足が生えている状態です。とくに彼の足には同情を禁じ得ません。やっとこさ胴体の重量に耐えています。
お嬢さんの障害とお父さんの肥満。それを安易に結びつけるのは不遜かつ傲慢というべきですが、率直に言うと、私はお父さんの肥満に一種のシンパシーのようなものを感じています。
一時期の米国で、企業経営者の肥満が声高に批判されたことがありました。自己を律することのできない人間に企業を経営することはできない、というのがその理由でした。
なるほどその後、米国でも日本でも、肥満した経営者は少なくなったような気がします。批判は効果があったのでしょう。
太った人は電車の中でもはた迷惑です。最近の通勤電車のシートは一人分ずつ区分けされていますが、隣まではみ出す人がいます。デブとデブの間には子どもか痩身の女性しか座れません。ラッシュアワーに、同じ乗車位置に肥満した人が並んでいたら、私は他へ回ることにしています。
太るに当たっては、様々な個人の事情というものがあるのでしょう。太るも痩せるも個人の自由です。ましてやデブもヤセも差別の対象にしてはいけません。しかし、ヤセよりデブの方が社会に与える影響は大きい。肥満は社会の負担でもあります。人並み以上に太っている人は、健康問題もさることながら、その肥満が社会に及ぼしている影響についても、少しは理解していただきたいものです。〈kimi〉

あの外山さんが・・・

9月18日のこのブログに、弊社のAは実にこまめにノートをとっているが、私はほとんどノートやメモをとらない、と書きました。メモをとっても、まず読み返すことがない。読み返さないなら書く必要がない。セミナーでもノートをとるよりも、講師の言葉に触発されながら頭を動かす方がよほど面白い。頭に残らなかった部分は、たいした内容じゃなかったと思うことにした、という趣旨でした。もっとも必要な時はちゃんとメモをとっている、とも書き添えました。
これに、弊社のAのご親族たる女子大生から大顰蹙を買ってしまいました(と聞きました)。どうやら「最後はただの自慢話じゃないの!」というお怒りらしい。それは大きな誤解というもので、要点だけはメモをすると書いたのは、このブログをお読みになったお客様に無用なご心配をおかけしないための営業上の配慮であります。
ま、そんなことは、今日のところはどうでもよいのであって、たまたま帰りの電車の中で読んでいた外山滋比古氏の「思考の整理学」に、以下の一文を発見したことをぜひご報告しておきたい。
「昔、ある大学者が、訪ねてきた同郷の後輩の大学生に、一字一字教授のことばをノートにとるのは愚だと訓えた。(中略)全部ノートするのは結局頭によく入らないという点に気付いていたらしい。大事な数字のほかは、ごく要点だけをノートに記入する。その方がずっとよく印象に残るというのである。字を書いていると、そちらに気をとられて、内容がおるすになりやすい。そう言えばかつて、講演をききに来た女性は、きそって、メモを書いた。(中略)そういうメモをあとになって読み返すことはまずない。それだのに、字を書いていて話の流れを見失ってしまう。どちらもだめになってしまう。講演をきいてメモをとるのは賢明でない。(中略)もっぱら耳を傾けていた方が、話はよく頭に入るのである」(ちくま文庫版p.92~93)
外山さんの著作は以前にも1、2冊読んだことがありますが、この「思考の整理学」は、近頃大学生の間で評判になっているという噂を聞いて、どれどれと初めて手にとったものです。世の中には、同じようなことを考えている人がいるもんですねえ。それもあの名エッセイストがです。なんてことを書いていると、また「自慢してる~」と女子大生に叱られそうなので、このへんでやめておきます。〈kimi〉