情報のレセプター

さる休日、友人たちと東京を散策するつもりで、昼前に山手線の某駅を出発しました。
歩き始めるとほどなく、幕末の歴史に必ず登場する人物のお墓があるという道標を見つけました。ついでだからと寄ってみることにしました。
目的のお墓に近づくと、初老の男性が一人立っていて、意味ありげな視線を私たちに送っています。男の帽子には、これも幕末に活躍した人物の名が縫い付けてあります。気になりながらも、その前を通り過ぎてお墓の前に着きました。
「この人、お妾さんが大勢いたんだよなあ」などとお墓の下の人について無責任なことを話していると突然、「このお墓、ちょっとおかしいと思いませんか?」と後ろから大きな声がしました。その男です。
私たちが何も答える前に男は、その墓がいかに尋常と異なるかということを滔々と説明し出しました。これが長い。中身は省略しますが、やがて同じ説明の繰り返しになってきました。
悪いことをしようとしているようではありません。お金をとるわけでもない。しかし、男の説明を聞いているうちに、一刻も早くその場を立ち去りたい気分になってきました。
これから先は憶測に過ぎませんが、男は歴史好きの勉強家であるようです。自分の知り得た知識や驚きを、他の人にも伝えたい。しかもできるだけ多くの人に伝えたい。そういう熱意が話し方に表れています。しかし、一介の市井人にはカルチャーセンターの講師になる道もなく、雑誌から原稿を依頼される機会も訪れません。思いが余って、このような行動をとらせているのではないか、と勝手に想像しました。もしそうなら、その気持ちはとてもよくわかる。しかし、そこはかとなく悲しい。それが、居たたまれなくなった原因です。
これは広報活動の一面をも示しているような気がします。伝えたいことはたくさんある。どうしても伝えたい。その気持があふれるほどあっても、聞きたいと思っていない人の耳には入りません。よく効くと言われる薬でも、患者さんにレセプター(受容体)がなければ効かないのです。話を受け入れてもらうためには、レセプターを用意してもらうための前段階が必要です。唐突な情報伝達は、成功確率が低いと言えます。
残念ながら、その男の話に対するレセプターをそのときの私は持っていなかったのでありました。〈kimi〉

取引上の関係について

医薬品や医療機器のビジネスに、他の業界から入った人たちが等しく感じることは、顧客である医師との関係が、一般の取引関係とは明らかに異なっているということです。売り手と買い手の間に立場の違いがあるのは当然ですが、社会的地位の違い、ときには人間の価値の違いまで想起させるような極端な上下関係は、やはり奇異なことと言ってよいでしょう。
少なくとも1960年代まで、製薬会社の営業社員(当時はプロパーと呼ばれていました)が開業医の奥さんから買い物を頼まれることは決して珍しくありませんでした。そんな名残がいまに続いていて、MR(医薬情報担当者と呼ばれる営業社員をいまはMedical Representativeと呼びます)を一度でも経験したことのある人は、医師の前では無意識に揉み手をして頭が下がってしまう。そんな光景を実際に何度も目撃しています。
さて、最近気づいたのは、PR会社と取引先との関係です。これが隣接分野であるIRの支援会社と取引先との関係に比べて少々違いがあるようなのです。
端的に言ってしまえば、多くの企業はIR支援会社にはアドバイスを求めるのに対して、PR会社には指示をする、というカンジです。
資本市場というのは、一般の事業会社には理解しにくいところがあります。アナリストはどのような考え方をするのか。ファンドマネージャーはどんな企業を評価するのか。上手にIRをするにはどうしたらよいのか。それやこれや、IR支援会社の意見を求めることが多いようです。それを受けて「こういう発表に仕方はよろしくありません」といった助言が日常的に行われています。
それに対してPR会社には、新製品のパブリシティの提案を持ってくるように、とか、○月○日に発表を行うから用意をするように、といったご注文が多いように思います。これはアドバイスを求めているということではありません。PR会社の方から「御社のそういうやり方はマズイですよ」なんて、なかなか言いにくいのがPRの世界です。実際、そのようなアドバイスを差し上げて、仕事がなくなってしまったことがあります。
このような相違が生じたことにはPR会社の方にも責任があるようです。日本にPR会社が生まれてからこの方、しっかりと企業にアドバイスできるだけの専門性をどこまで蓄積してきたか、ということです。もちろんソリューションで成果を挙げておられるPR会社も存在しますが、まだまだ少数派です。
広報のコンサルテーションを掲げる弊社としても、自戒を込めて今後の課題にしたいと思います。〈kimi〉

イク~、なんてね

ほぼ一年前から、本の原稿を書き始めました。それが来月に、ようやくカタチになる予定なのですが、校正の段階で悩んだことがいくつかありました。たとえば「言う」と「行く」です。
「それはこういうことです」などと書くときの「いう」を、私は原則としてひらがなに開くことにしています。では、「それは違法であるといわれています」はどうか。この例では、不特定多数の人たちが言っているということですから「言われています」の方がわかりやすいでしょう。一冊の本の中ではできれば統一したいものですが、無理に統一しようとすると、どこかで矛盾が生じてしまうようです。それぞれの文脈によって異なっていてもよいのではないか、という(注:この場合はひらがなでしょう)ような鷹揚なスタンスが正解であるように思います。
「企業ごとに見て行くと」といった場合の「行く」にも悩みました。編集者さんからは「いく」に統一しましょうと提案されました。これには少々違和感を覚えたのですが、結果としては提案に従うことにしました。
違和感というのは、私は「行く」を「ゆく」と読むのを好むからです。辞書では「いく」も「ゆく」も許容されています。現代では「いく」と読む人の方が多く、「ゆく」は伝統的であり、古めかしいとも言えます。その妥協として、私はいつも「行く」と漢字で書くことにしています。
もっとも「いく」と「ゆく」と、漢字の「行く」には微妙なニュアンスの違いがあることも十分承知しております。表題に掲げた「イク~」などは、「ユク~」でも「行ク~」でも表現できかねる状態を示しておりますな。
さて、一昨日のことです。新しくiPod Touchを購入しました。いままで愛用していた旧機種より軽いし、WiFiのある環境ならメールもできるしサイトを見ることもできるので、これは便利じゃないか、と考えたからです。そこで新機種をあれこれいじっておりましたら、この機械では、「ゆく」と打って「行く」と漢字変換できないことに気がつきました。編集者さんの提案は卓見であったとも言えますが(注:この場合は「言え」でしょう)、アップルは日本語を知らないんだとも言えそうです。そうでなければ、明らかなバグですよ、これは。〈kimi〉

トザイトーザイ

相撲の八百長問題には、それほど感心が持てません。だって、相撲がなくなるなんてこと、ありっこないですよ。国民ががっかりするじゃないですか。常套句で表現すれば、日本人の心にぽっかりと穴が開く、といったところでしょうか。
相撲は独占企業だからなくせないはずです。職業的な相撲を興業できるのはこれまで日本相撲協会ただ一社。そのような企業は、経営形態や組織形態が変化したとしても、なくすわけには行きませんから、八百長がどこまで拡大しようと、何らかのカタチで存続するのはわかりきっております。それじゃあ、つまりません。ハラハラドキドキがないですもの。
なくならない、というのは実に安心なものです。だからお相撲さんたちもユルユルとやってきたんじゃないですか。そこにモラルハザードが生じる余地があることはいまさら言うまでもありません。いくら外部から批判されても、いくらお相撲さんたち(とその出身者たち)が努力しても、なんだか無駄なような気がします。
この際、相撲協会を分割するというのはいかがでしょう。そもそも相撲は東と西に分かれて取るものなんですから、相撲協会イーストと相撲協会ウエストに分ける。過去にJRやNTT、高速道路会社などの前例がありますから、それほどびっくりするほどのことはありません。そうなったら、東と西がそれこそガチンコになるでしょう。東京場所と名古屋場所はイースト、大阪場所と福岡場所はウエストが開催。イーストは札幌や仙台、ウエストは広島や高松あたりでも本場所を開催する。たまにはウランバートルやトビリシ(グルジアの首都)で開催してもよいでしょう。ホームとアウェイが明確になるし、ご当地相撲の色合いがさらに強まって面白いですよ、きっと。〈kimi〉