黙っている人、いられる人

企業もののテレビドラマでは、会議がしばしば見せ場になっていて、主人公が議長やらエライ人やらを追究するシーンが描かれます。ああいうシーンを実際に見てみたいと思うのですが、現実社会では滅多に起こりません。議長が議事を進行し、発表者が説明し、「異議はありませんか?」でいくつかの質問ややり取りがあって、シャンシャンと次の議題へと移って行く。そういう会議ばかりです。
自分の意見を堂々と述べる立派な人もおられますが、自分の考えではなく、どこかで聞きかじったことを延々と説明するような人もいて、こういうのは困りものですね。
そのほかの人たちは、指名されれば発言はしますが、そうでなければ黙っています。なぜ多くの人たちは黙っているのか。
「何か言うとにらまれそう」とか「トンチンカンなことを発言して評価が下がってしまうのではないか」とか「自分のような若輩者が発言してはいけないのだろう」などと過度な忖度をして発言しない人もいるのではないでしょうか。
「黙っているのは、言うべきことが何もないからだよ。な~んにも考えていないから」という説を聞いたことがあります。その通りかもしれません。その一方で、よくも初めから終わりまで黙っていられるなあ、とも思います。何のために出席しているんだ! 時間の無駄だ!との非難はもっともですが、それよりも「ずっと沈黙を守っていられる」という能力の方に驚きます。
こんなことを書いているオマエはどうなんだ?と言われそうです。どちらかと言えば、何か一言いわなければ気がすまない方なんですが、近頃は意識的に黙っていることが多くなりました。なぜか。理由はさまざまなのでここでは申しませんが、これがいささかつらい。気がつくと、唇をかたく結んでいる自分に気がつくことがあります。そして「沈黙は能力である」という真理に到達したのであります。

そして誰もいなくなった、りして

SNSもいろいろある中で、FacebookとTwitterを比較的多く使っています。広報が商売ですから、使っていなければどうにもなりません。InstagramやYouTubeもときどき投稿したり、チャンネル登録したりしています。
Facebookでは、うまく撮れた写真を投稿すると20人余のお知り合いから「いいね」をいただけます。少ないでしょう。うなぎの蒲焼きが好きな人たちのグループに四万十川の天然うなぎの鰻重の写真を投稿したら383人から「いいね」をもらったのが最高記録。うなぎ好きは四万十川が好きなんです。しかし、これはうなぎオタクの世界だから特別。ちなみに、そのグループに投稿したのはその1回だけです。
Twitterは複数のアカウントを持っていますが、投稿してもほとんど❤はもらえません。あれも知り合い同士でほめ合う世界なので、仲間が少なければ反応もほとんど得られないわけです。
それはともかく、このところとくにFacebookがさびれてきました。「友達」たちがどんどん脱落して行きます。脱落というのはFacebookにあきあきして見なくなった。あるいは投稿しなくなったということです。一部の懲りない人たちと、趣味のグループに属している人たちだけが投稿をしているという状態であるように、こちらからは見えます。
Twitterも同じような傾向が見られますが、一応匿名であるせいか、政治的立場や医学的見解など、専門性の強い書き込みがまだ活発であるように見えます。
いまは隆盛を誇っているYouTubeやInstagramも、そのうちどうなることやら。かつて一時期話題になったセカンドライフやクラブハウスのように、気がつけば誰もいなくなった、などという将来がなんとなく想像できるのですが、考えすぎでしょうか。