記者の専売特許

なぜ新聞記者は文章読本を書きたがるのだろうと、先週書きました。答えは簡単です。「自分は文章がうまい」と自負しているからです。
その正否はともかくとして、新聞記事が、素人の作文のお手本に好適であることは認めざるを得ません。それだから、記事の書き手による文章読本にはそれなりの需要が見込めるということになるのでしょう。本を書かないまでも、退職後に大学教員に転身して、作文指導をしているOBも少なくありません。
しかし、実は新聞記者たち自身が気づいていない専売特許はほかにあるのです。それは取材力というものです。
新聞、雑誌、テレビ、ラジオの4大マスメディアの中で、最も分厚い取材組織と取材ノウハウを有しているのが新聞社です。新聞の退潮が誰の目にも明らかになってしまった現在においても、これは変わりません。
フリーのライターさんからは、新聞の取材力に批判的な意見も聞かれます。それもある面で正しいとは思いますし、独自の取材力を持つフリーライターが少なくないことは承知していますが、新聞社で先輩から後輩へと受け継がれる取材ノウハウや取材力はいまだ侮れない水準にあるのは確かです。
優れた文章は、テニオハの使い方だけで書けるものではなく、そこに盛り込まれる視点や情報の質に負うところが大きいわけで、それは取材力から生まれます。取材力は情報収集力と言い換えてもよいでしょう。
ビジネスの世界でも、学問の世界でも、広報の世界でも、取材力のある人とそうでない人では、企画やアプローチの仕方に大きな違いが生じるはずです。これこそ新聞記者OBのみなさんから伝授していただきたいノウハウだと思うのです。〈kimi〉
 

記者にビジネス文書が書けるか

新聞一面下にある書籍広告を見ていたら、文章の書き方みたいな本の広告が目につきました。著者は元朝日新聞記者。デジャビュというべきでしょうか。このテの本の著者に、なぜか朝日新聞のOBが多い。「天声人語」の歴代執筆者をはじめとして、名文家として名高い朝日OBは何人か存在していますが、だからと言って、朝日だけに文章が上手な記者が多いとは思えません。夏目漱石は朝日に在籍していました。記者ではなく作家としてですが、その影響が今日にまで及んでいるのでしょうか。
日野啓三や真山仁は讀賣、井上靖と山崎豊子は毎日、司馬遼太郎は産経、高井有一と辺見庸は共同、横山秀夫は上毛新聞といった具合に記者経験を持つ作家は少なくありませんが、朝日出身となるとにわかには思い浮かびません。これもまた不思議な現象です。石川啄木や松本清張も短期間在籍していたものの、啄木は校正係だし、清張は広告部嘱託の図案係だったそうです(どちらもWikipediaによる)。朝日のOBは小説を書かずに文章読本を書く、のでしょうか。
なぜ新聞記者が文章読本を書きたがるのか、ということが前々から疑問でした。上記のように記者上がりの作家は少なくありませんが、新聞記事と小説の文章は言うまでもなく異なります。一方の極に小説があり、その対極にお役所の文書やビジネス文書一般があるとしたら、新聞記事はその中間あたりに位置すると言ってよいでしょう。無味無臭で(胡散臭くはあるが)常套句に満ちたお役所文書でもなく、技巧的で個性的な小説の文章でもなく、平易簡潔で読みやすく、なおかつ少々の心情の吐露も可能な文章。それが新聞記事の文章だとしたら、素人が日記や手紙を書いたり、たまにサークル会誌などの原稿を執筆したりするには適当なお手本とは言えるでしょう。しかし、ベテラン記者に企業間で日常的に交わされているビジネス文書を書けと言っても、辞表くらいは書けるでしょうが、まずうまく行かないだろうと想像します。彼らが書く文章読本は、少なくともビジネス文やプレスリリースの書き方指南ではないのでしょうね。
今日は、こんなことを書こう思って書き出したのではありませんでした。でも長くなりすぎたので、ここでやめておきます。〈kimi〉