主客転倒

先日、ある県が主催するセミナーに参加してみました。
数日前に発症したふくらはぎの肉離れのために、足を引きずり引きずりビルの最上階の会場に到達したときは、すでに県知事のご挨拶が始まっていました。
ほぼ満員。係の職員さんに案内されてなんとか空席に滑り込みました。狭い椅子の上でカバン、コート、何種類ものレジメ、重い参考資料などをさばくのに四苦八苦してようやく前を向いたら、知事のご挨拶が終わりました。
落ち着いて周囲を見回しましたが、何か違和感があるんです。案内された席は中央よりやや後。テーブルはありません。ところが中央より前の席にはテーブルがある。しかも名札が立っています。そこに関係団体や県下市町村の名称が書かれています。報道席もあります。はは~ん。そこですべてを理解しました。
セミナーの目的は、広く産業界の人たちに県の施策を聞いてもらうところにありました。ところが招待された産業界の人たちが後の狭い席で、県の関係者が前のテーブル席。よくあるヤツです。主客転倒。それに気づかぬのか気がつかない振りをしているのか・・・。
セミナーを開催することによる真の効果を求めるよりも、セミナーを開催したという実績の方が県の担当者には大切なのだ、とここで断言してしまいましょう。こういうことがお役所のイベントでは多すぎます。私は員数合わせの一人として招待されただけですから(これもお役所的形式主義の一つです)どうでもよいのですが、県民の税金を使ってのイベントがこれではねえ。

紅花墨

「紅花墨」(別名「お花墨」)という墨を覚えていますか? 日本の墨のスタンダード。小学校で初めて習字を習うとき、お習字セットに入っていたかもしれません。特徴的なデザインです。
ところがこのデザインは意匠登録されておらず、「紅花墨」という商品名も商標登録されていません。だからどこのメーカーでも同じ商品名の似たデザインの墨をつくることができる、ということを奈良の老舗墨屋である古梅園の店員さんから教えてもらいました。そこの何代目かがオリジナルをつくった当時は、意匠登録や商標登録をするような時代ではなかったと説明を受けました。江戸時代の話のようです。
お習字セットに入っていた「紅花墨」は、だから古梅園のオリジナル品でなかったかもしれません。その可能性が高い。しかも、どこの「紅花墨」にもいくつかの等級があり、小学生用は最低ランクのものだっただろうと想像がつきます。
上の写真の中央が現在の古梅園製の紅花墨。右は日本で最も有名な書道具・香の老舗の製品(品質検査ではねられたキズ墨なので商品名の部分に色が入っていません)。左はどこの製品かわからない使い古した昔々の「紅花墨」。
左の古墨は論外として、中央と右については一流の書家ならともかく、素人には磨り心地や墨の色などの違いはわかりません。ところが、上のような話を聞かされた後では、オリジナルの方がどことなくよいような気がします。
これはブランド論の初歩の初歩。当たり前過ぎることではありますが、実感として再認識したのでありました。

「批判」は疲れる

中小企業に勤める40代の会社員が言いました。
「最近、朝日新聞とかサンデーモーニングとか見るのやんなっちゃった。もうどうでもいいような気がして」
若い年齢層の保守化が指摘されています。“ここにもいたか”と思ったのですが、一方で“わかる気もするなあ”とも感じたのでした。
私は複数のTwitterアカウントを持っています。世の中の生の動向を知ろうと、それぞれテーマを変えて読んでいます。その一つに、現政権に批判的な学者やコラムニストや芸人たちを中心にフォローしているものがあります。毎日寝る前にそれをチェックしていますが、読んでいると何となく気伏せになってくる。疲れるような気分を感じます。
議論というものは本質的に緊張状態を作り出します。とくに批判は緊張状態を高めます。その正邪に関わらず、批判的な言論を読んでいるだけで、無意識に緊張するようです。
たとえばどんな提案にも否定から入る上司っていますね。こういう人と話すときは緊張します。また、異論ばかり唱える部下と対するときもそれなりに緊張します。そんな職場では常に緊張状態が起こります。こちらに闘志があるうちは面白いですが、疲れてくるとそこから逃げ出したくなる。そのうち「もうどうでもいいよ」と妥協したくなります。
現政権側にでたらめなことが多くても野党支持者が一向に増えないのは、こういう心理も一因ではないか、と思いつきました。批判勢力が批判すればするほど、それを聞いている人たちは心理的に疲れてしまう。
40代会社員も、安月給での長時間労働で疲弊しています。新聞やテレビでこれ以上疲弊させられてはたまらない、という意識が働いているのかもしれません。何事にも「どうぞどうぞ」と言っている方が世の中丸く収まって平和です。見たくないものは見ない方が気分は穏やかです。
1970年代、学生の反体制運動が盛り上がっていた頃、「私、何も壊したくないんです」と言い放った女子学生がいました。その気持がいまになって少し理解できる気がします。それでいいとは思いませんが。

神様仏様、なぜ写真がお嫌いなのですか?

飛鳥大仏
有名な神社仏閣ではたいていご神体やご本尊を撮影禁止にしています。あれはなぜでしょう?とネットで検索してみましたが、どうにも腑に落ちません。
信仰の対象にカメラを向けるとは何事ぞ、ということなら理屈もへったくれもありません。その神社やお寺のお考えなのですから。
しかし、そこまで考えているのかなあ、というのが素朴な疑問です。
仏像や美術品がフラッシュ光を浴びると褪色が進むからという説もあるようですが、明確に証明されているんだかいないんだか。ネットではよくわかりませんでした。フラッシュが問題なら、「撮影禁止」ではなくて「ストロボ禁止」にすればよさそうなものです。神社には仏像のようなものがありませんから、これは理由になりにくい。ご神体が鏡ならフラッシュなど跳ね返してしまうでしょう。
写真を撮る人が多いと人の流れが滞るから、というのも理由に挙げられそうですが、さびれたお宮さんでも禁止しているところがあります。ルーブル美術館では押し合いへし合いで観光客がモナリザを撮影しています。
著作権はとうの昔に切れているはずですが、ウチの所有物の写真を勝手に商業印刷物に掲載されてはたまらん。その際には掲載料をいただきたい、ということはありそうです。著作権法で「専ら美術の著作物の複製物の販売を目的として複製し、又はその複製物を販売する場合」は保護されることになっています。が、そういう事例を発見したらその都度個別に対応する、で十分なようにも思います。
繰り返しになりますが、撮影禁止に科学的な根拠はかなり希薄なのではないか、と強く疑っております。
上の写真は、明日香村にある飛鳥寺の飛鳥大仏です。日本最古にして1400年間ここに座ったまま動いていない唯一の仏像だそうです。国の重要文化財でもありますが、どうぞ写真を撮ってくださいと言われました。その理由は・・・伺うのを忘れました。残念。