広報は複雑系

つくづく思うのですが、広報の仕事って本当に複雑系ですね。広報の担当者が直面する問題は、いつでも、どんな場合でも、いろいろな要素が複雑に絡み合っていて、簡単にエイヤッと結論に導くことができません。
あちらの顔を立て、こちらの顔を立て、なだめたりすかしたりしながら、落としどころを探して行く。「よし、やったあ」といったすっきりした成果が得られず、「まあ、仕方がないか」と自らを納得させるようなことも少なくありません。しかし、それに耐えて行かなければ広報の仕事はできません。
複雑系ですから、目の前に突きつけられた多くの要素の中から、どれがより重要で、どれを無視してもよいのか、一瞬にして見分けることも求められます。広報の能力の一つは、どれだけ多くの要素を判断の根拠に取り込めるか、ということかもしれません。複雑に絡み合った多くの要素の中から、3つしか判断材料にしない人と、10の要素をもとに判断する人では、後者の方がたぶんよりよい結論を導き出せるでしょう。
しかし、こうすれば最適解が得られるといった法則や原則は、広報にはありません。そこで経験がものを言うわけですが、経験だけで解決できるというものでも、またありません。何年か前に得た経験を目の前の課題に当てはめようとすると、高い確率で失敗します。
数多くの経験の積み重ねから、一種の能力や勘のようなものが醸成できてはじめて成功確率が上がってくるようです。
もう一つやっかいな問題が存在します。感情です。人間ですから、どうしても感情から逃れられません。好き嫌いや、個人的な野心などが判断を曇らせます。それらの有害な要素をいかに排除するか。客観的になれるかなれないかには個人差もあるし、どうしても自分のプライドが許さずに身動きがとれなくこともあります。
広報の仕事はまったく複雑系ですが、一方で、記事になった、番組に取り上げられた、問い合わせが急増したといった単純明快な成果で大喜びすることができる仕事でもあります。それでなくちゃやってられないですよ。あれっ、こんなこと書いちゃってよかったかな?〈kimi〉

意味の転換

「おかしい」と言えば、現在では「変だ」とか「奇妙」だということですが、その昔は「趣がある」という意味だったそうです。高校の古文の授業で習った枕草子の「いとおかし」がそれですね。このように、それまで好ましい意味だった単語が、ある時から逆転してネガティブな意味に変じてしまうことが、まれに生じるようです。
そのような珍しい変化、しかも突然の意味の転換を私たちは最近実感してしまいました。「育ちのよさ」です。
以前から「あの人が育ちがいいからねえ」という表現には、どこかに皮肉と妬みのニュアンスが隠れていました。下々のことを理解していない、周囲の状況が読めない、自ら汗を流そうとしない、苦労知らずの経験不足、他人事のような態度、精神がひ弱、身体が弱い、そして、いざとなったらどこかからお金が出てくる、といったモロモロをぼんやりと含意していたわけです。その含意が、時の総理によってすべて明るいところに引き出され、しっかりと意味づけられてしまいました。同時に、上品とか質のよさといった「育ちのよさ」の好ましいイメージは、まとめて闇に葬られてしまいました。
昨日、鳩山総理は沖縄県知事と再び会談しました。asahi.com(2010年5月23日)によれば、総理は突っ立ったまま 「仲井真知事はじめ、県庁の皆様方に、このようにふたたびお目にかからせていただくことができて、たいへんありがたく思っております」と話し始めたようです。これって、なんか変ですね。以下、
県知事:おかけいただけませんか。どうぞ、どうぞ
総 理:それも失礼かと
県知事:いや、どうぞ
総 理:では座って恐縮でございます。
というやりとりが続いたそうです。写真で見ると、さして広くもない応接室で低いテーブルをはさんで対座しています。陳謝しつつお願いをしようとしているのに、見下ろしながら話始めるっていうのはどうでしょうか。ここらあたりに「育ちのよさ」の問題がまたまた露見してしまっております。
米国の大統領は必ずメディアトレーニングを(候補者になったときから)受けていると言われます。日本の総理大臣は受けてない、なんてことがあるんでしょうかね。もちろんそれ以前の問題なのではありますが。〈kimi〉

書けない

文筆業をしている友人からメールをもらいました。ある企業から入社試験の論文審査を依頼されたのだが、書くことを訓練された人が少ないことにすっかり驚いたとのこと。彼によると、文章の構成といった高度な話ではなく、段落行頭一字下げ、タイトルと本文の間を空ける、という基本的なルールを知らない人が多い。「為」とか「夫々」など、ひらがなで書けばよいものを漢字で書く人が多い。「ひいては」とすべきところを「しいては」と誤っている例が複数あったとのことです。(筆者注:このココノッツブログでは、広告コピー風に意識的に行頭を下げておりません)
私は驚きません。企業に勤めていたとき、入社試験や主任、課長への昇任審査を毎年のようにやらされました。何十編という「論文」という名の作文を読んでいると、実に気分が滅入って来たものです。友人が指摘している通りの状況ですが、より失望したのは、何を言いたいのかさっぱりわからない作文が半数以上を占めていることでした。そもそも自分の考えがないらしいのです。入社できたらがんばります、昇任したらもっとがんばります、と会社にアピールしたい。そういう思いが込められていることは伝わって来るのですが、だからと言って、鋭い視点や画期的な具体案を持っているわけではありません。精神論と抽象論ばかりの作文が出来上がります。何編読んでも似たようなことが書いてあります。そんな退屈な作文を続けて読まされている中で、たまに論旨がしっかりした文章に出会うと、梅雨の晴れ間のような気分になったものです。よし、合格!
このような文章力不足は、中学、高校の教育に責任があると推測しています。国語の授業で五段活用を教えるのもよろしいし、言文一致体の先駆けが山田美妙であることを教えるのも結構ですが、文章のトレーニングをしなければ生徒は文章が書けるようになりません。英文法や英文解釈をいくら教えても、英語が話せるようにならないのと同じことです。
そもそも文章を書くトレーニングができる国語の先生は少ないでしょう。迷いながら書いた作文に「よく観察できました」なんて赤ペンでほめてもらっても、文章力はつきません。論理的に思考を組み立てる方法と、それを書き表す技術が、社会生活には不可欠です。企業のニュースリリースを読んでいても、何がニュースなのか理解しがたい文面にときどき遭遇します。まともな文章を書くことはコミュニケーションの基本です。
なんて、偉そうなことを書いてはおりますが、ン十年前、就職して初出社したその日、社内への連絡文書を書けと命ぜられて、一行も書けずに立往生してしまった経験があります。ビジネス文の書き方など、小学校から大学まで教えられたことがありませんでした。
先日、教授に転身された元新聞記者氏に「大学では何を教えているんですか」と質問したら、「作文の書き方からですよ」という答えが返ってきました。「大学で作文の練習ですか」と、そのときは少々呆れたのですが、現状をよく考えてみれば、大学で作文を教えてもらえる学生は幸せというものなのでしょう。〈kimi〉

大工さんの教え

 今日は大型連休の真ん中です。こんなときにブログを書いてどうするんだ、とも思います(ココノッツブログは業務の一環として書いております)が、まあ、そんなカタイことは言わずに・・・というわけで書き始めました。しかし、これは実に考え物ではあります。
 子どもの頃、家の改修に来ていた大工さんは、正午になると弟子たちに声をかけて一斉に仕事をやめてしまいました。お弁当を使い、正確に1時までお茶を飲んでおしゃべりをしていました。
 なぜやりかけの仕事を放り出してまで時間を守って休憩をとるのか、子ども心にも不思議に思って大工さんに聞いてみました。どんな表現で質問したものか覚えてはいませんが、返ってきた答えは、時間をきっちり決めて休みをとらなければ疲れをとることができない、疲れたままで仕事をしてもよい仕事はできない、それが長く仕事を続けるコツだ、といったものでした。
 若いときの私は、この大工さんの考え方に従って、昼休みはいっぱいいっぱい自分の時間として使いました。業務時間内にできるだけ仕事をすませて、残業をしないように心がけました。しかし、残業手当がつかなくなった頃から、それが崩れ始め、昼食を食べ終わったらすぐやりかけの仕事に戻り、給料に反映しないにもかかわらず残業をし始めました。
 いまココノッツでも一部に残業が日常化しています(私はあまりやりませんが)。休日にも自宅で仕事をしたりメールを出したりしています(私もやっています)。お客様にできる限りのサービスをしようと考えると、ついついそうなってしまうのです。
 それがよいのか悪いのか、俄には判断しかねますが、やはり休みはちゃんととった方が長期的にはよいのではないかと考えています。働きすぎて病気になってしまったら、かえってお客様にご迷惑をおかけすることになりますし、休日の自宅仕事が効率がよいとも思いません。
 以前、日本企業に勤めていたとき、毎日残業毎週休日出勤で、一体いつ休んでいるんだろうと思うような人が何人もいました。その仕事熱心さには感服してしまうのですが、そういう人たちほど世間に疎い、視野が狭い傾向があることに気がつきました。もっとも、あんまり働かない社員が広い視野を持っているとも限りません。このあたりは誠に難しい。
 しかし、休みというものはただ疲れ休めに寝ているわけではありません。時間の余裕があれば、人間はいろいろなことをし始めます。自分の時間を豊かに使うことは、人間としての成長によい効果をもたらすだろうということは、確信に近いものがあります。
 休まなければよい仕事はできない、という大工さんの言葉はやはり真実ではないかと思うのです。というわけで、今日は自分の時間を有効に使おうと思います。〈kimi〉