文筆業をしている友人からメールをもらいました。ある企業から入社試験の論文審査を依頼されたのだが、書くことを訓練された人が少ないことにすっかり驚いたとのこと。彼によると、文章の構成といった高度な話ではなく、段落行頭一字下げ、タイトルと本文の間を空ける、という基本的なルールを知らない人が多い。「為」とか「夫々」など、ひらがなで書けばよいものを漢字で書く人が多い。「ひいては」とすべきところを「しいては」と誤っている例が複数あったとのことです。(筆者注:このココノッツブログでは、広告コピー風に意識的に行頭を下げておりません)
私は驚きません。企業に勤めていたとき、入社試験や主任、課長への昇任審査を毎年のようにやらされました。何十編という「論文」という名の作文を読んでいると、実に気分が滅入って来たものです。友人が指摘している通りの状況ですが、より失望したのは、何を言いたいのかさっぱりわからない作文が半数以上を占めていることでした。そもそも自分の考えがないらしいのです。入社できたらがんばります、昇任したらもっとがんばります、と会社にアピールしたい。そういう思いが込められていることは伝わって来るのですが、だからと言って、鋭い視点や画期的な具体案を持っているわけではありません。精神論と抽象論ばかりの作文が出来上がります。何編読んでも似たようなことが書いてあります。そんな退屈な作文を続けて読まされている中で、たまに論旨がしっかりした文章に出会うと、梅雨の晴れ間のような気分になったものです。よし、合格!
このような文章力不足は、中学、高校の教育に責任があると推測しています。国語の授業で五段活用を教えるのもよろしいし、言文一致体の先駆けが山田美妙であることを教えるのも結構ですが、文章のトレーニングをしなければ生徒は文章が書けるようになりません。英文法や英文解釈をいくら教えても、英語が話せるようにならないのと同じことです。
そもそも文章を書くトレーニングができる国語の先生は少ないでしょう。迷いながら書いた作文に「よく観察できました」なんて赤ペンでほめてもらっても、文章力はつきません。論理的に思考を組み立てる方法と、それを書き表す技術が、社会生活には不可欠です。企業のニュースリリースを読んでいても、何がニュースなのか理解しがたい文面にときどき遭遇します。まともな文章を書くことはコミュニケーションの基本です。
なんて、偉そうなことを書いてはおりますが、ン十年前、就職して初出社したその日、社内への連絡文書を書けと命ぜられて、一行も書けずに立往生してしまった経験があります。ビジネス文の書き方など、小学校から大学まで教えられたことがありませんでした。
先日、教授に転身された元新聞記者氏に「大学では何を教えているんですか」と質問したら、「作文の書き方からですよ」という答えが返ってきました。「大学で作文の練習ですか」と、そのときは少々呆れたのですが、現状をよく考えてみれば、大学で作文を教えてもらえる学生は幸せというものなのでしょう。〈kimi〉