昨年の秋あたりから、なんとなく写真を撮りたいと思い始めました。特定の被写体を撮りたいというよりは、写真というものを撮りたい、カメラのシャッターを切って画像をつくりたい、とまあ、そんなカンジなんです。
父親が遺したレンズが霞んだクラシックカメラもあるし、平社員の安月給をはたいて買ったフィルム用の一眼レフもある。しかも2台もある。勤め先のゴミ捨て場から拾って来てレストアした往年の中型カメラもある。レンジファインダーカメラに名玉と呼ばれるレンズも持っています。もちろんデジタル一眼もあるし、コンパクトなデジカメも持っています。三脚もあればカメラバッグは3つも持ってます。撮影するには何の不足もありません。いやあり過ぎです。にもかかわらず、ここン十年、本気で写真を撮ったことがありません。友人たちと旅行に出かけても、デジカメのシャッターを押すのは数枚程度。記念写真やスナップは同行の友人に任せっぱなしです。
そろそろやってみるかと、そんな気持にはなったのですが、なかなか重い腰が上がりません。
名所旧跡などに行くとオジサンたちが立派なカメラをぶら下げて大勢歩いています。あの人たちと同類と思われるのは面白くない、という気持があります。しかし、現実を直視すれば、どこから見ても同類には違いないのです。それが、行動を躊躇わせます。
できることならばアンリ・カルティエ=ブレッソンとか木村伊兵衛とか、あのような写真を撮りたい。しかし、最近は肖像権がやかましくて、うっかり街中で人物に向けてシャッターを切ることができなくなったと聞きました。20代の頃のことですが、浅草伝法院の角の古着屋のおばさんにカメラを向けたら「写すんじゃないよ!」叱られたっけ。それ以来、肖像権とは関係なく、知らない人を写すのが怖くなって今日に至っております。
そんなわけで、その気だけはあるんですが、行動に移すことなく年が明けました。
シャッターを切ることもなく去年今年 〈kimi〉
なんとかならないか年頭の辞
年明け早々の新聞には、企業トップの年頭の辞が並びます。これは企業広報の年中行事の一つで、暮れから原稿を用意して、新年最初の営業日にリリースします。近頃は年内に原稿をくれと担当記者から要請されることも多くなりました。なんだか年賀状のようです。
この年頭の辞って、いったい誰が読むんでしょうね。
社員:意欲のある社員はきっと目を通すでしょう。でも、これって社内にも流れる社長訓辞のサマリーですよ。新聞で読む必要は必ずしもありません。
取引先企業や銀行:この人たちは読みます。年始の挨拶に行ったとき、「社長、さすがにいいことを言わはりますなあ」なんて、ゴマをするネタにうってつけです。
競合会社:一応目を通すでしょう。おっ、あそこは今年やる気だなあ、なんてことがわかるかもしれません。
そのほかに、どんな方々が読むのか想像がつきませんが、各社のトップの言葉を読んでいると、毎年決まって登場する常套句に気づきます。「今年は厳しい」、「変化に対応」、「発想の転換」、この3つです。
どうも日本のトップは、キビしいキビしいと言っていないと気が安まらないらしい。後年振り返ってみれば、厳しくなかった年もあるはずで、そんな年に「キビしい」と発言したトップは現状認識が甘かったと批判されるべきでしょう。ぜひそのような覚悟の上で「キビしい」と言っていただきたい。
「変化に対応しなくてはいけない」というフレーズは、10年ほど前からしばしば耳にするようになりました。これには、小泉元首相が所信表明演説で引用した「この世に生き残る生き物は、力の強いものでも頭のいいものでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」という『ダーウィンの言葉』が付け加えられることが多いようです。ネットサイトによると『種の起源』にはこんな記述はないそうですが、なかなかよくできた警句ではあります。
「発想の転換」も聞き飽きました。毎年毎年発想の転換をしていたら、そのうち元の発想に戻ってしまわないかと心配になってきます。「発想の転換」と叫ぶトップの発想の方を転換した方がずっと御利益がありそうです。
すべてとは申しませんが、陳腐でおざなりな年頭の辞が多くて、新聞の読者としては面白くありません。そんなことは十分承知しております、と各社の広報担当者の方々はおっしゃるでしょう。切れ味鋭い年頭の辞を発表したいと思っても、トップ自身がそのように考えていなかったらどうにもなりません。広報各位のご苦労が忍ばれます。〈kimi〉