CCをつけない人

電子メールが普及し始めてからすでに四半世紀は経っています。パソコンが苦手という中高年の方々でも、仕事をする以上はメールくらいは使えなければお話にならないというのが現在の状況です。
極めて日常的な通信手段となったメールですが、少々気になることがあります。それは、CCをつけない人がいる、それも少なからずおられるという事実です。
私が初めて「CC」の存在を知ったのは、外資系企業に就職したときでした。PCのない時代ですから、ビジネス文書は薄手の用紙に手書きかタイピングで作成されました。なぜ薄手かと言えば、Carbon Copyをとるためです。そして、社内連絡には必ず
CC : Mr. A. Yamamoto, Mr. T. Wright
などと、自分の直属上司と相手の直属上司へCCをつけることが求められました。コピーを回すのは、その人にも読んでもらいたい、あるいは読んでもらわなければならないからです。CCを受け取った人に意見があれば、その返信もまた同様にコピーが回されます。情報共有のためのすぐれた方法で、これが米国流です。メールのCCは、この米国流を踏襲しています。
当時の、いやいまでも多くの日本企業は稟議というシステムを使っています。これはコピーを配布するのではなく、電子化されていても基本は回覧です。あらかじめ会議で決定したり、根回しで了解されたことを記録として残すことが主目的で、稟議書の回覧は形式的なものになりがちです。稟議書に意見を付けられたり差し戻されたりすると、起案者にとっては減点対象の大事件になってしまいます。通常の事務連絡も原則は回覧で、ハンコがべたべた押されて戻って来ます。
そのような日本流ビジネス文書の伝統に親しんでいれば致し方ないとも言えるのですが、こちらからCCをつけてメールを送信したのに、その返信にCCをつけない人が少なくありません。「全員に返信」をクリックしていないのです。これは中高年に限りません。返信にCCを付けないということは、意図的にCCの対象者に返信を読ませないということです。そのような自覚もなく、単に「返信」ボタンを押しているだけ、というのはいささか困ったことです。〈kimi〉

広報セクションの人材

先週の金曜日は、広報セミナーでかつて教えた受講者のみなさんが10名ほど集まって、楽しい懇親会を催しました。
広報のセミナーを受講する方の多くは企業の現役広報パーソンです。ところがその後3~4年の間に他の部署に転出してしまう人が少なくありません。当日集まった人たちにも、いまは他の仕事に就いている人の方が多くなってきました。
広報の組織や人材の問題を考えるとき、以下の3つの要素に留意すべきでないかと考えています。
1)広報活動には継続性が必要であること
2)広報は専門性が高い業務であること
3)社員に広報業務を経験させることは人材教育として有意義であること
その企業の広報に関するポリシーが一貫していることで継続性は保たれますが、実際には広報セクションのリーダー(責任者)の考え方に大きく左右されます。担当役員などが短期間で交代しても、内部にポリシーが保持されていれば問題はありません。しかし、なかなかそうは行きません。広報のポリシーがコロコロ変わるようでは、長期的な目標に向かって広報活動を展開することは困難です。
また広報活動には人脈が大切です。人脈というのは極めて属人的で、後任に引き継ぐことは非常に難しい。紹介を受けたとしても、そこから新しく人間関係を作りあげなければ機能しません。これすなわちコストでもあります。
「広報の専門性」を認識しない経営者も少なくありませんが、それは暗黙知が多いからではないかと思います。マニュアル化し難い種々のスキルを必要とするのが広報活動というものです。そのように考えて行くと、一定期間広報セクションに在籍している専門人材が必要だということが理解されるでしょう。
一方、経営人材養成のキャリアパスの中で、一度でも広報セクションを経験することは非常に有用であると考えられます。企業を取り巻く社会の考え方や動きを学ぶには、広報はうってつけの仕事です。その意味では、人材ローテーションの中に広報セクションを組み込むことが日本の企業にはもっとあってしかるべきです。
比較的長期に在籍する専門的な社員と短期間にローテートする社員の組み合わせ、これがが広報セクションには必要なのではないかと考えられます。〈kimi〉

自爆

申し訳ないことながら(謝る必要もありませんが)私は軽度の阪神ファンです。「軽度」という意味は、めったに球場へ足を運ばないということであり、甲子園にも行ったことがありません。ただ、試合翌日のスポーツ欄ではタイガースの試合経過を真っ先にチェックしますし、シーズン中は全試合をテレビで見られるようにスカパーと契約しております。
さて、シーズンオフにプロ野球の話を持ち出したのは、例の讀賣ジャイアンツ騒動が起こったからです。
日曜日にテレビの報道バラエティを見ていたら、卵焼き屋の息子タレントが口を極めてクビになった元GMを批判していました。そうなのかな、とも思いましたが、新聞やテレビの情報しか知らない私には判断する手がかりがありません。またどちらが正しいとか間違っているとかいうような問題でもなさそうです。
しかしながら、世の多くのサラリーマンは元GMの方にある種のシンパシーを感じているのではないか、と推測します。
何年か会社勤めをすると、ほぼ100%の確率で自分の利益しか考えない経営者や“しょうもない”上司と巡り合います。自分の考えを通したい、でも通らない。自分の意見を言いたい、でも言えない。このような葛藤と戦いながら、気がつけば定年となっている。そのような勤め人たちには、元GMが自分の姿の写し絵のように見えるだろうと想像しております。
企業は民主的な組織ではありません。ではどんな組織なのか。その明確な定義は聞いたことがありませんが、社内では何事も多数決で決まることはなく、たいてい職階上位の人に決定権があります。そんな組織なのに、法律上取締役会は多数決が原則となっていて、なんとなく民主主義風な仕組みがあるために、勤め人たちはついつい企業の意思決定に対して幻想を抱いてしまいます。
社会の視点と企業の視点の交点で仕事をしている広報担当者のみなさんは、とくに強い葛藤を抱えているはずです。トップに直言したい、という思いを何年も心の底に抑えつけていて、ついに爆発させてしまった人も少なくありません。その多くは単なる自爆で終わったはずです。私には、そのような一途な広報担当者の姿と元GMの姿もまた重なって見えて仕方がないのです。〈kimi〉