28は7で割り切れます。ということで、うるう年でない年の2月はちょうど4週間で終わります。すると2月と3月は日にちと曜日が一致するという現象が起こります。
それが次ぎのような現象を引き起こすのです。
AさんとBさんが一杯やろうと約束したとします。
「それでは18日の月曜日の7時ね」
「わかりました。18日の月曜日の午後7時、手帳にちゃんと書いておきます」
Aさんは2月18日の月曜日のつもりですが、Bさんは手帳の3月18日の欄に予定を書き付けてしまう。その日も月曜日だから疑うこともありません。
このようなミスコミュニケーションを語用学では推意がすれ違がった、などと言うらしいのですが、昨日、それを実体験してしまいました。くれぐれもご注意くださいませ。〈kimi〉
自分じゃなくて私でしょ
「体育会系」と称する高校や大学の部活動で体罰が日常化していることは、遺憾ながら容易に想像できることでしたが、一流選手が揃っているナショナルチームでもそれが横行していたというのには驚きました。
教師が生徒に、コーチが選手に、先輩が後輩に、上司が部下に暴力をふるう。下に位置する者はそれを唯々諾々(いいだくだく)と受け入れなくてはならない。こんな慣習が日本の伝統文化のどこのあたりに根ざすのか。残念ながら知識がありませんが、近くに源をたどれば旧日本軍に行き着くのではないでしょうか。
これと同根と推察できる事象がもう一つあります。
日本語の一人称単数には、複数の言葉が使われます。わたし、わたくし、ぼく、オレ、あたい、わて、おいら、おい、うち、ぼくちゃん・・・。ところが、自衛隊、警察、消防、海上保安庁のようなタテ型組織に属する人たちや体育会系クラブ出身者の多くが自分のことを「自分」と呼びます。なぜなんでしょう。
わたし、わたくし、ぼく、オレ、あたい、わて、おいら、おい、うち、ぼくちゃんなどの一人称は、それを言う人の個性が自ずと表現されてしまいます。「わて」というのは大阪のオッチャンのようだし、「わたくし」と言えば和服の婦人のようだし・・・。そんな個性を出してはイカン!、オマエは組織の一員に過ぎない!というコミュニティで「自分」という一人称単数の使用が強制されているのではないか、というのが私の想像です。
それぞれのコミュニティで、どんな慣習を用いようと(暴力などはもってのほかとして)ご自由ではあるのですが、一般の社会でも「自分は○○であります」みたいな言い方をするのはいかがなものでしょうか。そう考える理由は、自立した個には個性がなければならない、ということに尽きます。民主主義社会の基礎はそこにあるのですから。〈kimi〉