古新聞

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毎朝の通勤電車でしばしば隣り合わせる初老の男性はいつも熱心に新聞を読んでいます。日常的な光景ですから、特段に気にとめることもありませんでした。
ある日、何気なくその男性が読んでいる紙面に目を移しました。その瞬間、クラッと眩暈のようなものを感じました。軽い見当識障害のようでもあり、既視感にとらわれたようでもある。自分がどこにいるのかわからないような気分、と言ったらよいでしょうか。
10秒か20秒ほどかかってようやくわかりました。彼が読んでいるのは今日の新聞ではない、ということが。
それは2日前の夕刊でした。発行当日に読んだ記事の記憶と、その朝の最新の新聞を読んだ記憶との間で整合をとるのに、私の脳が少々手間取ったのでしょう。初めから古い新聞であると認識していれば、そのような不思議な感覚を体験をすることもなかったはずです。
そのむかし、「今日の出来事」というTVニュースがありました。新聞記事やニュースはまさに今日の出来事を伝えていますが、その多くは報道の時点で終結してしまったのではなく、その後も刻々と事態が変化しています。翌日の新聞にはその続報が掲載されています。私たちは現在進行形で報道された出来事の動きや変化をとらえているのでしょう。数日前の新聞の見出しをそれと知らずに認識した私の脳は、進んでいるはずの事態が逆戻りしていることで混乱してしまった、というのが私の推測です。
過去の記事を読むことにも意義がありますが、新聞の本質はやはり「新しい」ということなんでしょうね。〈kimi〉
 

ヘタの直接話法

話し上手というのは、広報を仕事にする人にとってはかなり必要度の高い能力です。単にペラペラしゃべればよいというものではありません。おしゃべりは広報の仕事ではむしろマイナスです。話し上手とは、正しい内容を筋道を立てて相手に理解できるように話す。それだけのことではないでしょうか。
これは心がけ次第でできるものです。しかし、心がけなければ、いつまでたってもできない。そういうものでもあると思います。
話しベタの方はいろいろなタイプがあります。訥弁は、必ずしも話しベタではありません。とつとつと説得力のある話し方をする人もたしかに存在しますから。
ある事柄を伝えるのに、多くの言葉を使う人と少ない言葉で伝えることができる人がいます。多くの言葉を使うということは、話が長いということ。話したいと思う内容をシンプルなストーリーのまとめられない、脇道にそれる、言ったり来たりするといったことがあると、話は自然に長くなります。聞いている方も、いつになったら結論に到達するのだろうとジリジリしてきます。
このような話しベタの中に、「直接話法で話す人」がいます。たとえば、こんなふうに・・・。
「記者クラブに入ったら、長髪の人がいたんで『世紀火災広報の木戸と申します』と言ったんですよ。そしたら『世紀火災って、なんかあるの?』なんて言われちゃって。それであわてて『いいえ、ごあいさつにあがっただけです』って言ったんですけどね。『忙しいから後にしてよ』って言われちゃいました」(題材は高杉良著「広報室沈黙す」から借用しました)
直接話法も一種の修辞法です。うまく使えば実に効果的です。しかし、多用すると話は確実に長くなります。長くなるばかりでなく、これは無責任な話し方でもあります。
直接話法を多用するのは、他の人が話した内容を要領よくまとめて間接話法で話す能力が不足していることを示しています。そのような人が、自分が伝えるべき内容をシンプルなストーリーにまとめられるはずがありません。話しベタの一つの典型です。〈kimi〉