新聞の投書欄

今朝、朝食をとりながら新聞を読んでいたら、投書欄に学生時代の友人の名前を発見しました。そこで改めて投書欄を眺めると、投稿者のほとんどが高齢者と若年者であることを再認識させられました。担当記者が意識的に若い人の投書を取り上げているのでしょうが、新聞購読者の現在の姿をそのまま反映しているとも言えます。若年者は、親や祖父母が講読している新聞を読むことができますが、成長して実家を離れたら、新聞を購読することは、たぶんありません。
学生時代の友人の投書はこれが初めてではありません。警句のような風刺のような短文も投稿していて、ときどき採用されています。ソーシャルメディアにはまったく縁がありません。日常的にTwitterやInstagramやFacebookなどで発信している人が、いまさら新聞に投書する気にはならないでしょう。
新聞の投書欄の役割を否定するつもりはありませんが、なんとなくシャッター商店街を眺めたときのような、寂しさ、空しさを感じてしまったのでした。

余計なことばかりしてるんじゃないよ、ってか?

一人の高齢者が、もうそろそろいろいろな仕事をするのがしんどくなってきたなあと考えて、「もうやめたいよ」と言ったら、「オマエは余計な仕事ばかりしているからしんどくなるんだ。ハンコを押すためだけに生まれてきたんだから、死ぬまでハンコを押していればいいんだ」と言い放つ人が現れました。ヒドイことを言いますね。このような、一人の人間の生き方を否定する考え方は、回り回って障害者否定にも通ずるものではないでしょうか。
他人事ではなく、こちらも「余計なことに首をつっこんでばかりいないで、本業をしていればいいんだ」と言われそうですが。