チャーチルとダンケルク

15日日曜日の東京新聞「こちら特報部」の“本音のコラム”に山口二郎氏が映画「チャーチル」について書いていました。日本の現首相も見たのだとか。
たまたま飛行機の中で、この映画を見る機会がありました。
チャーチルが首相に選ばれるプロセスから始まり、フランスのダンケルクでドイツ軍に包囲されている英軍をどのように救出させるかに苦悩し、対独和平への誘惑を、生まれて初めて乗った地下鉄の中で直接国民の声を聞くことで振り切り、議会で、戦いの継続を「すべての英単語を駆使して」訴えるまでを描いています。このような演説の語法が日本語にはいまだに存在しないことをつくづく認識させられました。とくに最近の国会でのやりとりを見ると・・・。
さらにムービーのプログラムを検索すると、なんと「ダンケルク」があるのを発見。「チャーチル」が政治の場での英独戦を描いたものなら、こちらは同じ時系列における戦いの現場を描いたもの。ダンケルクに追い詰められている英軍を動員された多くの民間船舶が救出に行くエピソードを中心に描いています。
たまたまですが、日本人には馴染みの薄い第二次世界大戦初期の英独戦を、二つの面から知ることができたのでした。

ドラマの裏側はわからない

自分の会社が記者やジャーナリストから自分の会社がどのように見られているか、どこの企業も強い関心を持っています。そこで企業認知や自社の広報活動に関して記者の声を聞く場を設けたり、調査をかけたりすることがあります。これらは経験上とても有意義な調査になることが多く、自社の広報活動の成功している部分、足りない部分がクッキリと浮かび上がります。他社の広報活動について有益な情報やヒントが得られることもあります。
それはそれとして、このような調査を通じて気づくことがあります。記者やジャーナリストは“企業の広報を知らない”という事実です。
あそこの広報は頻繁にコンタクトしてくる、あそこの社長はフランクに取材に応じてくれる、この会社は役に立つメディアセミナーを開催している、といったことは現場の記者はよく知っています。彼らは広報の対象、もしくは受け手ですから当然です。
ところが彼らは、そこに至るまで、広報セクションがどのような目標のもとに、どのような企画を立て、どのような地道な作業を積み重ねているかについてはわかりようがありません。
テレビドラマにたとえるなら、ドラマを見ている私たちには、出演者の演技やストーリー展開の良し悪しについて感想を述べたり批評したりすることはできます。しかし、プロデューサーがどんな企画を考え、脚本家がどのような取材をし、どこにロケハンをして、ディレクターはどんな演技指導をしたのか等々の裏側は、テレビを見ているだけではわかりません。そんな楽屋落ちを覚らせることなく楽しめるドラマこそ理想でしょう。広報も同じことです。広報のテクニックや仕掛けなどを記者やジャーナリストに覚られてしまっては失敗です。
記者出身者を広報の責任者に据える企業や団体があります。しかし、大きな成果を挙げることが少ないのは、そんなところに要因があるのかもしれません。視聴者や評論家がドラマをつくろうったって、そう簡単には行きませんぜ。