Facebookにも書いたのですが、先日めでたくマルセル・プルースト著「失われた時を求めて」の日本語訳全14巻を読了しました。4年ほどかかりました。読むのが遅かったのではなく、新訳の発刊がなかなか進まなかったからです。写真のように光文社古典新訳文庫版で読み始めたのですが、なかなか続きが出ないので(現在も未完結)、第5巻から岩波文庫に乗り換え、新訳が出るたびに読み進んで今日に至りました。
個人的な経緯(いきさつ)もあって10代後半からいつかは読みたいと思いつつ半世紀を超えてしまったことになります。「個人的な経緯」というのは、私が「フランス文学専攻」という学科を卒業しているからです。それなのにフランス語が話せないと、これも半世紀にわたって揶揄され続けてきましたが、フランス「語」専攻ではありません。苦しい弁解ではありますが、実際その通りです。フランスの文学が好きだっただけです。そのような経緯の中にフランス文学の金字塔とも言われる「失われた時を求めて」が存在していました。
この小説を広くお勧めする気は全くありません。日本では専門家とマニア計100人くらいの人が読めば十分だなというのが率直な感想です。文芸評論家風に説明すれば、20世紀初頭のフランス社交界を舞台に貴族の没落とブルジョワの台頭、社交界人士の同性愛などをからめ、一方で時の流れに抗い、流され、老いて行く人間の姿を描いた小説でもあります。時の移ろいの描写はともかく、延々と続くサロンの描写に日本人は飽き飽きしてしまいます。自分自身につながる何物もそこに見い出せないからです。したがって面白くもなんともない。かくして日本人が読了することが極めて少ない小説の一つとなりました。
読み終えてやっと肩の荷を下ろした気分です。
靴は磨けよ、ってか?
料亭の女将は客の靴を見て人物を評価するという伝説があります。
それを信じてか、以前の勤め先の社長は、社有車にピカピカに磨いた革靴を常時載せていて、料亭やパーティに行くときは車中で履き替えるという演出をしていました。それでなにかいいことがあったのかどうかは知りません。
オシャレなスーツを着ているのに、革靴にはクリームを施した形跡なくカカトもつぶれている人がいます。洋服や髪形に気を遣っている割に靴に神経が行き渡らないのはなぜなんでしょう。頭隠して尻隠さず。革の表面がすり切れた靴がカッコいい、という文化はたぶん存在しないと思うのですが。
奥さんがご主人の靴を磨くというのもサザエさん時代の話で、共働きが当たり前で男女差別にやかましいいまの時代では、自分の靴は自分で磨かなければなりません。ところが、靴磨きというのは思いの外面倒くさい。疲れる作業です。問題は立って磨けないということ。普通の椅子でも高すぎる。街の靴磨きさんのような低い椅子を使うか、しゃがむか、床に腰を下ろさなければ磨きにくいんです。これがしんどい。それを考えると、ついついおろそかになりがちです。
スニカー出勤が増えて来た昨今では、そんな価値観は滅びつつあるのかもしれませんが。