記念日報道

間もなくやってくる8月6日は広島、8月9日は長崎に原爆が投下された日。
8月15日は第二次世界大戦で日本が敗戦した日。
ここしばらくは新聞、テレビで原爆や戦争の特集が連続して組まれます。ウクライナでの戦争も続いているので、今年も企画が目白押しとなるでしょう。それを「8月ジャーナリズム」などと呼ぶそうです。
月が変わって9月1日は関東大震災が起こった日。今年はちょうど100年目だそうで、南海トラフ地震も高い確率で起こりそうという昨今、大々的にキャンペーンが組まれそうです。
記憶を風化させてはいけない。誠にごもっともで異論はいささかもありません。しかし、これからも大災害や大事件は起こります。「記念日」は次々生まれてきて積み重ねられて行きます。
するとメディアは、それらの特集や特別企画を組まなければならないことになります。記者さんたちはその取材に追われます。記者の数を減らしている中で、その取材時間を確保するには何かを削減しなければなりません。
そこで削られるのは何ですか?
たぶんいまの世界や日本で起こっていること、これから起こりそうなことを発見し、掘り起こし、調査する報道が削られることになるのでしょう。
記念日報道だって、そこから新たな教訓が導き出せるし未来への警告にもつながるのだ、という反論もあり得るでしょう。
しかし記念日報道は、あらかじめテーマを与えられた報道です。その災害や事件のこぼれ話を探し出して記事や番組を作ればカッコはつきます。一面では安易なやり方と言ってよいのではないでしょうか。
記念日ばかりでなく、高校野球やノーベル賞の季節も同様に記者さんはそれらに動員されて、他の出来事にまで手が回らなくなります。
メディアの衰退が論じられるいま、一度考え直してもよいのではないでしょうか。