褒めてもいいじゃない

幼い頃、総理大臣はみな悪人であると思い込んでいました。総理大臣の何が悪いのか、もちろんよくはわからなかったのですが、そう思い込んでいたのは間違いありません。
物心がつくころは「アンポ・ハンタイ」の岸信介氏が総理大臣でした。失礼ながらどう見ても善人顔とは言えない人物でしたので、余計にそのようなイメージになってしまったのかもしれません。
実はその後も長く総理大臣や閣僚にはロクな人物はいないという固定概念から離れられませんでした。その原因は・・・他人のせいにしてはいけませんが、やはりマスコミの影響だと思います。
総理大臣になるまでは、いくらか公平に評価されていた政治家でも、その地位についた瞬間からマスコミの猛烈な批判にさらされます。現在進行形の政策を好意的に評価するメディアは、日本にはまず存在しません。
権力の監視がジャーナリズムの重要な役割であることは理解していますが、日本のメディアはもう少しニュートラルな論評ができないものでしょうか。総理経験者が亡くなり、当時の関係者もほとんど鬼籍に入ってしまった何十年後かに、ようやくあの政策はよかったと評価される。それでは遅過ぎませんか。
イデオロギーによってすべて賛成すべて反対という時代ではありません。個別の政策ごとにそれなりの評価は可能です。
人を育てるには褒めなければならない、という意見が目につくようになったのは90年代からでしょうか。そんな甘っちょろいことで人は育たぬという反対論もありますが、私は褒めることに賛成です。政治家だって人間ですから、批判される一方でポジティブな評価もされるというバランスのとれた環境でこそより正しい方向が選べるのではないか。褒めることで総理大臣を育てる、という視点も必要ではないかと、書生論ではありますが、思うのですよ。〈kimi〉

新体験、その後

その後
お見苦しい画像で恐縮です。6月18日のブログに書いた「新体験」のその後のご報告です。
この猛暑が異常気象であるとはまだ誰も想像していなかった夏の初め、むき出しの頭皮に直射日光が照りつけた瞬間に、コリャたまらん、と私はすべてを悟ってしまい、銀座の帽子屋に駆けつけました。「一番涼しい帽子をください」と言ったら、「麦わら帽子の少し高級なものと思ってください」と店員さんが出してくれたのが手編みのパナマ帽。それでなんとか頭皮が赤むけすることなく夏を乗り切ることができました。涼しいかと思ったら、案外涼しくないんですね、こういう頭。
それで、お盆過ぎから伸び始めた髪がいまはこの状態。さわるとほわほわして実によい感触です。日本製最高級化粧筆、いわゆる熊野筆そのものです。貂やミンクの毛皮の手触りと言っても決して過言ではありません。「とっても気持いいよ」と誰彼かまわずお誘いしているにもかかわらず、肉親親族を含め誰一人、未だこの素晴らしい感触を味わった者はおりません。〈kimi〉

ケイタイ優先

不思議な光景を見てしまいました。
一昨日のことです。地下鉄有楽町駅のホームからエスカレーターに乗ろうとしたら、なんと上りが停止中。身の不運をかこちながら横の階段を上ろうとしたそのとき、それを目にしたのでした。
停止している長いエスカレーターの途中に男が一人、女が一人、乗ったまま動こうとしないのです。停止して間もないので動き出すのを待っているのでしょうか。それにしては、すでに他に誰もいません。ケガでもして動けなくなっているのかとも思いましたが、ひたすら静かに直立しているのです。実に不思議な光景です。カメラを持っていないことをちょっと悔やみました。階段を上っている人たちの何人かも、怪訝な顔でエスカレーターをのぞき込んでいます。
事情は間もなく理解できました。彼らはケイタイでメールを読むか打つかしていたところ、乗っていたエスカレーターが停まってしまったのです。そこで、歩いて上るよりもケイタイの操作の方を優先した、というわけだったのです。
これって、なにかヘンではないですか。ご本人たちはちっともヘンだとは思っておられないのでしょうが、エスカレーターをのぞき込んでヘンな顔をしていた人たちも、きっとヘンだと思ったに違いありません。
私もたまにはやってしまうので、大きなことは言えませんが、歩きながらのケイタイの操作はとってもハタ迷惑です。前方への注意がおろそかになるので危険ではありますし、歩く速度が遅くなって人の流れを妨げます。彼らもまた、ケイタイの操作を他の何事よりも優先させているのです。それって、やっぱりヘンじゃないですか。〈kimi〉

再びプレゼンテーションについて

プレゼンテーションの最初にはジョークを一発かませろ!と、あちらのMBAコースでは教わるそうです。そのためでしょうか、スピーチの初めにジョークを言う米国人は少なくありません。しかし、面白いのもあればつまらないのもある。ユーモアのセンスはご本人のパーソナリティによるところが大きく、こればかりはいくら教わっても無駄というものなのでしょう。
しかし、プレゼンテーション自体は練習がものを言うようで、アップルのジョブズ氏は何時間も練習すると本に書いてありました。たしかに、練習すればするほどうまくなるはずです。
ところが現実は、日本企業のトップにいくら練習を勧めても、「そんな時間はとれない」と一蹴するでしょう。多くの日本人経営者は、銀行の役員と会ったり部下に説教する以上にプレゼンテーションが大切なものだとは考えていない、ということなんです。それじゃあ、いつまでたっても日本人のプレゼンテーションはうまくなるはずないですよね。〈kimi〉

新聞はクラスメディアかも

このところ必要があって、マスメディアについて調べています。より正確に言えば、マスメディアの衰退に関する本をいくつか読んでみたのです。
新聞の衰退に関しては、若者の活字離れと、その若者たちを吸収しているインターネットの隆盛、というのが共通して指摘される原因です。なるほど、とは思うのですが、それだけでもないような気がしていました。
そんな折り、卓見というべき一文を発見しました。朝毎日経が、本来の目的を隠すため・・・かどうか知りませんが、共同で運営している「新s あらたにす」という妙な名前のサイト。その中で唯一読むに足るコラムである『新聞案内人』にそれがありました。筆者はコラムニストの歌田明弘さん。タイトルは「『おじさん記者モード』からの脱出を」。詳しくは原文を読んでいただくとして、その趣旨は、政治、経済記事などはおじさん記者ばかりが書いているし、座談会に出るのもおじさんばかり。もっと若い読者と感覚的に近い若い記者にやらせたらどうか、というもの。
そう言われてみれば、いまの新聞はいかにも中高年好み。意図してはいないのだろうけど、ターゲットをおじさん、おばさん層に絞ったクラスメディアと言えないこともないなあ。〈kimi〉

ジョブズのプレゼンテーション

アップルのCEOスティーブ・ジョブズのプレゼンテーションに最近関心が集まっています。その様子はYouTubeでも見ることができますが、あんなプレゼンができるCEOは、いまの日本には存在しないと断言しておきましょう。そもそも大企業のトップがあのようにフレンドリーに聴衆に話しかける場が日本にはありません。
一言で「国民性の違い」と片付けてしまうのは大いに危険なのですが、日本人の経営者にジョブズ氏のごとく語りかけられても、気味が悪いでしょう。何か下心があるんじゃないか、と疑いたくなるに決まっています。
日本語に訳されたいくつかのジョブズ氏の発言を読むと、その文体の違いによって、ジョブズ氏がずいぶん異なった人格であるかのように思えてしまいます。これは翻訳の上手下手ではなくて、フランクにかつフレンドリーにプレゼンテーションするときに使う日本語の文体(話し方)が未だ確立していない証拠です。
ジョブズ流のプレゼンテーションがいくら話題になっても、日本人のプレゼンはしばらくは現状維持ではないかと予測しております。〈kimi〉

これが敗因

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昨夜は、早稲田大学が主催するIRセミナーで1時間ばかり話をしてきたのですが、申し訳ないことに、どうにも調子が乗りませんでした。
考えられる原因は2つ。一つは久しぶりの教壇であったこと。もう一つは疲労困憊であったことです。
先週から仕事が重なり、土日も出張。その上、かんかん照りの中をあちこち歩き回ったすえに教室に入りました。これが敗因です。やはり講義は万全の体調でやらなければなりません。休みをとりたいのですが、今週は無理、と先ほどわかってがっかりです。
上の写真は、出張のついでに撮った北海道の風景。水平線が傾いているのかカメラが傾いているのか。たぶん後者でしょう。〈kimi〉

「暮らしの手帖」の現在価値

今週の「週刊東洋経済」(7/17)に、暮らしの手帖社社主大橋鎮子さんのインタビューが掲載されていました。「暮らしの手帖」、数十年前なら広報関係者が毎号、多少の緊張感とともにチェックしていた雑誌です。
以前勤めていた会社の当時の主力製品は、この「暮らしの手帖」の商品テストに取り上げられ、評価されたことで市民権を得て売上げを大きく伸ばしました。それは会社の「伝説」と化し、社史にも掲載されました。
それから何年か経ち、その製品に対して世の中にアゲインストの風が吹き始めました。そんな折り、暮らしの手帖社から、新型となっていたその製品を再び商品テストすると伝えられました。
広報担当者の私は、製品について正しい内容を知っていただこうと、暮らしの手帖社に何度も足を運びました。あのときも夏でした。当時の編集部は六本木駅から少々の距離にあって、汗をふきふき歩いたことを思い出します。
出版社とは思えぬ西洋仕舞た屋風の社屋、リビングのようなインテリアと家具。いかにも「暮らしの手帖」の精神を表現しているようにも思えました。
成熟した商品経済の世に、「暮らしの手帖」の商品テストは消費者の関心を呼ばなくなり、その役目を終えたようです。しかし一方、いまの消費者は、ネットのクチコミなどを参照して、事前に商品情報を得てから購入行動に移ると言われています。あの商品テストは、現在にこそ価値があるような気がするのですが、時代との皮肉なミスマッチとなってしまったのでしょうか。〈kimi〉

ヤヤ!毎日jpは読んでいたのか?

驚きました。実に驚きました。
29日のこのブログに、毎日新聞のサイト「毎日jp」に関して、「トップページのデザインに難ありです。タテ4段割りがチマチマした印象を与えています。」と書きました。すると、30日の夕方、突如毎日jpのトップページのレイアウトが変更になったのです。
新しいレイアウトは朝日や読売と同様のタテ3段組みで、ずっと見やすく改良されています。
どうして突然・・・。毎日jpはこのブログを読んでいるのでしょうか。まさかね。〈kimi〉

新聞パラパラ

毎朝、各紙をパラパラめくるのは、広報を生業としている人間の基本とも言えますが、白状してしまうと、私はしばしばそれを怠けております。企業の広報責任者をしていたときからの悪いクセなのですが、片付けなくてはならない仕事が目の前にぶら下がっていると、どうしてもそれを優先させてしまうのです。そうこうしているうちに時間はどんどん過ぎて行き、夕刊が来てから朝刊を開いたり、ということになりがちです。
最低限読んでおかなくてはならない記事はシステム的にクリッピングされますから、問題ないと言えばないのですが、ときどきは重要な記事を見逃してしまいます。やはり新聞のパラパラは、広報の人間には重要な所作なのです。
その代りと言ってはナンですが、ネット上の各紙のサイトには1時間おきにアクセスしてチェックすることにしています。意識的にやっているというよりも、仕事にちょっと疲れたとき、世の中どうなっておるかな、とアクセスして一息入れるのが習慣となってしまったのです。
まず見るのが、朝読日経の「くらべる一面 新sあらたにす」という訳の分からないタイトルのサイトです。これはほとんど読むべきところがありませんが、お薦めは右下の「新聞案内人」というコラム。各紙OBによるちょっと辛口の評論がなかなか読ませます。
次にasahi.com。オーソドックスなページデザインで、読みやすいのが利点。近頃、MSN産経ニュースの真似をして(失礼!)、総理インタビューの完全収録など、長い原稿も掲載しています。
ついでながら、ここから朝日の読者会員サービスである「アスパラクラブ」にリンクしています。そこに弊社の医療ジャーナリスト田辺功が『医療よもやま話』を執筆しています。
YOMIURI ONLINEも読みやすくて気に入っております。速報性はasahi.comとほぼ同等でしょうか。情報量が多い印象です。
毎日jpは、トップページのデザインに難ありです。タテ4段割りがチマチマした印象を与えています。速報性は朝読に完全に及びません。情報量も少ない。ネット上の一時の混乱は過ぎ去ったものの、すっかりネット上でのやる気を失ってしまったのでしょうか。
MSN産経ニュースは私が楽しみにしているサイトです。ときに政治的な熱の籠もり過ぎた記事があってシラケますが、事件物は週刊誌的になかなか読ませます。
最後に有料化したNIKKEI NET。これが問題です。アクセスすると、一瞬「日経新聞電子版誕生」というインデックスページが表示され、その間に購読者か無料読者かがふるい分けられます。ほんの一瞬ではあるものの、これがなんともうざったい。私はレッキとした電子版の自腹購読者です。にもかかわらず、その一瞬があるために、ここにアクセスするのがおっくうです。気が重い。また、電子版の購読者は、紙と同じ記事が読めることになっていますが、ネット上では一覧性が著しく劣ります。新聞パラパラの方が、全紙面をすばやく把握でき、読みたい記事がはるかに見つけやすいのです。これは紙の絶対的に優れた点です。新聞の発行部数は長期低落傾向を示していますが、この優れた一覧性によって、いつか、あるところで歯止めがかかるような気がします。そのとき、新聞社の収支がバランスするかどうかは、また別の問題ですが。〈kimi〉