眠らせない

一昨日、土曜日の夕刻に学生時代の友人たちがココノッツのオフィスに集合しました。近くのレストランで遅めの新年会をやろうという目論見です。
集まった旧友の一人に某大学で演劇を教えている男がいます。大学教授としてより、前衛演劇団の主宰者として、その世界ではちょっと名を知られている存在です。長いつき合いなので、公演のたびにご案内をいただきます。初めはクラスメート総見といった塩梅で揃って観劇に出かけたものですが、やがて一人減り二人減り、ついに誰も行かなくなってしまいました。
暗い照明、聞き取れない台詞、怪しげなうなり声、そして筋のわからないまま終わってしまう舞台進行(一種の不条理劇なので当然と言えば当然なのですが)。折りたたみ椅子の小劇場で2時間あまりの芝居を見通すのは、普通の人間には眠い以上に苦痛でもあります
「オマエの芝居は眠いからなあ」などと、率直すぎる感想をぶつけられるのも学生時代の友人なればこそですが、「オレの演劇はエンターテイメントではない」とうそぶいて平然としています。
そんな眠い前衛劇にも熱心なファンがついていて、ときどき大新聞劇評にも取り上げられるから不思議です。人間の多様性とは、実に偉大なのです。
さて、前衛劇での居眠りには寛容な私ではありますが、広報セミナーなどではそうは行きません。受講者に居眠りをされると、講師としても私の立場がなくなります。そこで数年前から、私は一つの目標を設定することにしました。一人も寝かさないで2時間の講義を終える、というのがその目標です。
まず声です。小さい声、聞き取りにくい声では眠くなるのは当然です。私は地声が大きいので、その点は問題ありません。ただ、ときどき語がはっきりしないときがあるようです。受講者のアンケートで鋭く指摘されてしまいましたが、これは眠気とは関連がありません。
平板な話し方をしないことも大切です。声を大きくしたり小さくしたり意識的にしています。ある方から教わった方法は、ときどき黙る、というものでした。静かな時間が続くとぐっすり眠れそうですが、その説によれば、周囲の異変を感知して目を覚ますのだそうです。これはまだ試したことがありません。適度な間を置くと話にメリハリが出て、眠くなりにくいのは確かです。
抽象的な解説の連続も眠気を呼びます。私は会場を見渡して、居眠りをし始めそうな人がちらほら見えたら、実例や失敗談を話すことにしています。これはとても効果的です。
受講者のモチベーションももちろん影響します。学校の教師なら有無を言わさず講義すればよいのでしょうが(だから登校拒否が増えるんだ)、セミナーの講師はそうも行きません。聞き手の興味や問題意識とかけ離れた話をしていては、居眠りされても文句は言えないのです。「はずさない」ということが眠気を呼ばない最大のポイントなのです。
実は、前衛劇で眠ってしまう原因もまさにここにあります。一般にこれを「ひとりよがり」と呼ぶのですが、こればかりはとても友人には言えません。ゲイジュツとはひとりよがりなものですし。〈kimi〉

早くて早いか、遅くて遅いか

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たまには内輪話をしちゃいましょう。
わがココノッツは、広報畑の人間とジャーナリストがコラボレートしているのが一つの売りであります。結論から言えば、これは実に面白い。外から見えているジャーナリズムの姿とその内側とはずいぶん違うものだなあ、と広報畑の私などは、日々元朝日新聞編集委員たる田辺の話を聞くのが楽しくてしかたがありません。
と同時に、一般の企業で働いていた私などと、新聞社という特殊な企業で記者として働いていた田辺とは、労働観と言えば大袈裟ですが、働き方がずいぶん違う。
広報をやっている人なら常識ではありますが、朝刊の締めきりは深夜です。記者は出稿した原稿が活字になるのを確認してから帰宅します。毎日帰りが遅くて大変だなあ、などと同情する必要はありません。その分、朝が遅いのです。
10数年前のことですが、部下の女性にある新聞記者を紹介したことがあります。二人とも少々個性的で、婚期を逸しそうな按配でしたが、なんとなく相性がよさそうに感じられたのです。何回かデートを重ね、これはうまく行きそうだと思っていた矢先に突然破談となりました。理由は、女性の方の両親が「新聞記者は時間が不規則だ」という理由で反対したからでした。
そういうことで、わがココノッツも広報畑の人間は早めの出社で帰宅が比較的早く、ジャーナリスト畑は出社が遅く帰宅も遅い、ということになっております。これは生活習慣となって身についてしまったことなので、お互いもう変えようがなさそうです。だからと言って、当分破談にはなりそうもありませんが。
寒いですね。写真はロウバイです。狼狽ではなくて蝋梅です。〈kimi〉

医療機器市民フォーラム

昨日17日、「第4回医療機器市民フォーラム」が東京・有楽町の讀賣ホールで開かれました。昨年の第3回までの責任者をしていた関係で、主催者からご招待をいただいたので行ってきました。
これまでの3回は同じ有楽町の朝日ホールでしたが、それより大きい讀賣ホールを埋め尽くす来場者で、それだけでもこの種のイベントとしては大成功だったと言えるでしょう。また、講演やパネルディスカッションの内容も充実していました。関係者のみなさんのご努力に敬意を表したいと思います。
「医療機器」と言っても一般の人にはちっともピンと来ない、というのが医療機器業界の中でいつも出てくるグチの一つです。先日もある会議で、行政の方が「手術で麻酔がかかっているうちにいろいろな医療機器が使われるが、麻酔から覚めるともう目の前にはないから、一般の人が医療機器を知る機会が少ない」という趣旨のお話をされていました。ちょっと待ってよ、それって私が一昨年に業界団体の機関誌に書いたことじゃん、とも思ったのですが、自分の書いたことが知らず知らずに行政に影響を及ぼしているんだ、と信じて素直に喜びぶことにしました。その通り、多くの医療機器は病院の患者さんの目につかないところで使われていて、一般の人には馴染みが薄いのです。
「医療機器」という言葉は、2006年に成立した改正薬事法で初めて法的に認知された用語で、まだ新しく、それだけに生硬な感じもします。それ以前は医療用具とか医療材料とか医療器具とか医用機器とか、いろいろな呼び名で呼ばれていたわけですね。
それに比べて、「薬」というのはごく一般的な名詞だし、「医薬品」も昔から馴染みのある言葉。とても「医療機器」が太刀打ちできるものではありません。
また、医療用の医薬品は17,500であるのに対し、医療機器は300,0000あると言われています。数が多くて、ピンセットからMRIまで種類もいろいろ。とても一括りにはしにくい。こんなところが医療機器業界のあせりのようなものにつながってくるのでしょう。
なんとかして医療機器の社会的認知を向上させたい、そんな業界の思いから始まった「医療機器市民フォーラム」。たしかに費用もそれなりにかかるのではありますが、業界内でのマスターベーションに終わらせることなく、さらに大きく発展して行ってほしいと祈りながら会場を後にしたのでありました。〈kimi〉

さらさら読みたい

このところ、広告の世界で名の知られたある方のご著書を読んでいました。長く広告関係の団体の要職にも就かれていた先達で、私にとっても広告のイロハを教えていただいた恩人の一人でもあります。それだけに、いまの広告界への警鐘とも言える提言の多くが「そうだそうだ」と共感できるものでありました。
そのように実にすばらしい内容ではあるのですが、読む通すのには少々手こずってしまいました。
著者はコピーライターのご出身。もとより文章は下手ではありません。ハッとさせられる言葉遣いの数々にご経歴の片鱗が見られ、感心することしきりでありました。しかし、読み進むうちに、そのきらめく言葉遣いに少しずつ疲労感を覚えてしまったのでした。その卓抜な言い回しにいちいち思考が引っかかってしまって、すんなり読めないのです。
コピーライターはキャッチフレーズが勝負。アトラクティブな言葉の選択に頭を絞ります。それを受けてボディコピーでは、伝えるべき要素を短く的確に完結させなければなりません。それがコピーの作法です。しかし、そのように書かれた文章を一冊の書籍として連続で読むとなると、これがつらい。次から次に小さな山がやってきて、それを登り下りしているうちに体力を消耗してしまうと言えばわかっていただけるでしょうか。
ステーキに天ぷら、すきやきに鮟鱇鍋、さらには”比内鶏むね肉のソテーのピューレと森のきのこ 粒マスタードソース”、その次には”仔羊のロースト フヌイユフォンダン添え”、またその次には”平目のロースト 魚介とアーティーチョーク ソースピストゥ”などなど。このようなコッテリとした豪華料理を毎日食べ続ければ、さすがに食傷するというもの。やはり、真鰺の開きに豆腐の味噌汁、納豆にご飯の朝食で、昼はせいぜいおごって鴨南蛮、夜はぶりの照り焼きに風呂吹き大根、少々のサラダになめこ汁、お茶漬けさらさらなんて食事の方が長続きはするというもの。同様に、さらさらと最後まで読み通せる一冊には、コピーライティングとは異なる書籍の文章の作法が存在するようです。
短編小説と長編小説の技法はまったく異なるのだそうです。短距離ランナーとマラソンランナーの違いのようなものかもしれません。文章のうまい下手とはまた別の問題なのでしょうね、きっと。〈kimi〉

めでたしめでたし

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年末から年始にかけて、いくつかの寺社にお詣りをしてきました。
信仰はしていないのですが、いつの頃からか信心はするようになりました。信仰と信心とどこが違うんだ、と言われても説明できかねます。ただ、神社仏閣から聖堂教会に至るまで、御利益のありそうなところでは、必ずしっかりお祈りをしてくることにしております。ときどきはおみくじも引いてみます。
で、年末に行った太秦の広隆寺のおみくじは、なんと「凶」。やばいよ、これは。さっそく利き手と反対の左手でそのおみくじを針金に結んで来ました。そうすると吉に転じると、暮のテレビでどこかの教授が言っていました。
元旦に初詣に行った浅草寺でも試みました。ここには「凶」がたくさん入っていることが経験上わかっています。何年か前、ここで「凶」が出た年は碌なことがありませんでした。緊張して引いてみたら、今年は「半吉」。縁談も成就できないし、待ち人も来ないそうで、半吉なのにちっともよいことが書いてありません。これも急いで左手で結んで来ましたが、今年の運勢に暗雲が垂れ込めているようで、どうにも面白くありません。
もう一度チャレンジすることにしました。オフィス近くの平河天満宮。今度は「小吉」。なかなか「大吉」に巡り会いませんが、おみくじで一番よいのは「小吉」であると、どこかで読んだことがあるので、これにて満足することにしました。凶、半吉、小吉と、ご神託もだんだんよくなって、今年はきっとよい年になる、というような心持ちになってきました。めでたしめでたし。〈kimi〉

来年の課題

大晦日になりました。
早起きというほどでもありませんが、今朝は7時半に起きて昼過ぎまでずっとテレビを見ておりました。
いや、つまらないですねえ。再放送と企画を無理矢理ひねり出したとしか思えない安手の特番ばっかり。
テレビプロを見ても、夕方までそのような番組がずらりと並んでいます。NHKだって紅白の番宣ばかりです。これではとても数字は稼げません。テレビの媒体価値はどんどん下がるばかりです。
魅力的なコンテンツをつくるにはお金がかかる。タレントの出演料や装置、ロケ代などにもお金はかかるでしょうが、一番お金がかかるのは「クリエイティブな才能を集めること」でしょう。ところがその裏腹で、才能には数に限りがある。
80年代から90年代にかけて、日本の小説がつまらなくなったのは、コミックに才能が奪われたからだ、と言われました。そのコミックに陰りが見えて、才能は再び小説に向かいつつあるようです。
2月にはまた日本の広告費の統計が発表されると思いますが、昨年の統計でも、ここ数年、広告費がネットに流れているのは明らかです。金の流れに対応して、才能もまたそちらに流れているのでしょう。それでもテレビは番組を流さなければなりません。やっつけ番組で埋めるしか方法がない。それが視聴率を低下させ、視聴の質を落とす。スポンサーはテレビに広告費を回さず、さらに番組の質が落ち、媒体価値を下げるという悪循環です。
テレビとは異なる要因もありますが、新聞もまた悪戦苦闘しています。
これらの媒体価値の変動に敏感なのは当然のことながら広告界です。鈍感なのは広報界(こんな単語はあまり聞きませんが)です。
私たち広報を仕事にしている人間は、新聞、雑誌、テレビなどの媒体がアプリオリに存在しているという前提で仕事をしています。それがいまや根底からくつがえろうとしています。ところが、それに目を向ける広報人(という単語もあまり聞きません)はほとんどいないようです。
いまの経済状況は、媒体(報道機関)のパラダイムシフトをさらに加速させるでしょう。広報の手法そのものを再検討しなければならない時が来たようです。それをCocoKnotsの来年の課題にしたいと思います。
それでは、皆様また来年。〈kimi〉

よい新年をお迎えください

CocoKnotsを6月に創業して、初めての年末を迎えました
とてつもない経済危機の中にありながら、お陰様で無事に年を越すことができそうです。ご挨拶を大晦日のブログに書こうと考えておりましたが、それでは年内にお読みいただくことができません。中途半端な本日ではございますが、年末に当たって、これまでご支援ご協力をいただきました皆様へ厚くお礼を申し上げます。また、このブログをお読みいただいている皆様にもお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
この半年間、私たちCocoKnotsは試行錯誤の連続でした。あまりにも生々しいので、その中味は控えさせていただきますが、びっくりしたり驚いたり(同じかな?)、ぬか喜びしたりがっかりしたり(情けない!)したことがたくさんありました。しかし、そのどれもがエキサイティングでした。とても楽しめました。
来年はさらにエキサイティングな仕事ができるといいなあと思っております。皆様の一層のご支援をお願い申し上げます。
今年もまだ10日近くを残しています。もう何回かブログも書きますし、浄しこの夜もこれからですが、一先ず年末のご挨拶とさせていただきます。よい新年をお迎えください。

企業の側からIRを

先月の終わりから今月の初めにかけての3週間にレクチャーが6回。テーマはパブリックリレーションズ、IR、社内広報といろいろで、さらに「BtoB企業のブランディングにおける広報」という一ひねりしたお題も頂戴したので、頭の中がタコ足配線のようになってしまいました。
「広報概論」とか「広報マネジメント」といったテーマでは、過去に何回もレクチャーしていますから、前回と同じパワーポイントを使って無難にまとめることもできないではありませんが、それではどうも気合いが入りません。受講者のみなさまにも失礼でしょう。かと言って同じテーマで全く異なった内容というわけにも行きません。このあたりがなんとも悩ましい。そこで一つでも二つでも、新しい試みやコンテンンツを組み込もうと頭を絞ることになります。
一山越えて、この週末は少しのんびりしましたが、来年の2月には、まる1日をいただいて、IRの初歩の初歩からお話をしようというセミナーが控えています。
これまでいろいろと開催されてきたIRのセミナーには一つの特徴があります。それは市場の側の人たちが講師として、事業会社(発行体)側のIR担当者を教えるというパターンが多いということです。
企業の人間は金融マーケットを知りません。だから市場の側の人の話を聞いて勉強する。それは間違っているわけではありません。しかし、アナリストや投資銀行(今回の経済危機でその存在が危ぶまれていますが)のスペシャリストやファンドマネージャーや公認会計士や証券ジャーナリストといった市場側の人たちは、企業の内部でどのようにIRが「つくられているか」を知りません。彼らが日常使い慣れている金融・証券用語は、一般企業では一部の社員を除いてほとんど使われることがありません。初めてIRを担当する方が、そのような特殊な世界に身を置く講師の話を聞いても十分に理解できるはずがありません。
そんなことで私に講師の白羽の矢が立ったようです。企業のIR担当者が事例や体験を発表することはありましたが、企業の側に立ってIRの基本から教えるというのは、あまり例のないことでしょう。挑戦し甲斐があるとも言えます。
というわけで、せっかくのんびりしたのもつかの間、これからしばらく頭の中をIR一本にして、もう一度自分自身の中にIRを基礎から積み上げ直すつもりです。

涼しい顔で

CocoKnotsのオフィスの近くにあるうどん屋さん。讃岐風でなかなかおいしい。私の好みでもあります。しかし、あまり行きません。そのわけは店を仕切っている女性にあります。
繁盛店なので昼時は次から次にお客さんが入ってきます。一人客、二人連れ、グループといろいろ。それをカウンターと二階へ、空席を確認しながら適宜振り分けて行きます。注文を調理場に通します。お勘定もします。ときには調理場に入って自ら調理もします。とても忙しいのです。エライ。大したものです。それは大いに認めます。
しかし彼女、忙しすぎていつもフーフーハーハー言っています。より正確に言えば「フーフー」も「ハーハー」も言ってはいないのですが、そのような彼女の「気」が客の方に伝わってくるのです。それが私の居心地を悪くします。
友人に年季の入った落語好きがいます。彼は金髪の豚野郎こと春風亭小朝をあまり評価しません。噺のうまさは認めながらも、高座でいつも汗だくになっているのはよろしくない、と言います。噺に熱が入るのは結構だが、それを客に覚られるようでは芸が未熟だと言うのです。
一生懸命に取り組んでいる仕事に関しては、結果よりその懸命さを認めてもらおうという気持が無意識のうちに働いてしまうことがあります。これではプロフェショナルとは言えません。涼しい顔をして成果を出す。これこそ美学ですね。

電報の存在価値

久しぶりに電報を打ちました。自分で打ったのは何年ぶりでしょうか。電電公社に電話をかけた記憶がありますから、70年代のことだったかもしれません。その後、勤め先では、近くにいるスタッフに「ちょっと祝電打っておいて」などととズボラを決め込んでいたのです。
さて、改めて自分で打つとなると、どうやって打ったらよいのか。インターネットで調べたら、NTTのサイトから直接打てることがわかりました。D-MAILというんだそうです。これって、なんか変です。ネットでつながっている先ならメールで十分じゃないのかなあ。なんでネットからわざわざ電報を打たなくちゃならないんだ?と頭の隅で自問しながら、D-MAILにアクセスしました。
私が打とうとしていたのは祝電です。今回も初めは手紙で祝意を伝えようと考えたのですが、これが実に難しい。心を込めた言葉を書こうとするとさらに難しい。とくに相手が親しい友人ではなく、目上の方だったり、半分義理だったりすると、これはもう紋切り型の祝辞しか頭に浮かびません。しかし、かつてはコピーライターを名乗っていた人間です。紋切り型で済ますのは少々名誉にかかわります。これはメールにおいても同様です。
ところが、電報では例文と言うものが用意されています。ネットが発達する以前からあったと思いますが、これがとても便利なのです。電報なら、この例文を利用して堂々と紋切り型を使っても世の中は許してくださるのです(と信じております)。また、電報では、心を込めれば込めるほど料金が高くなりますから、長文電報は相手に無用な恐縮をされてしまう恐れがある。それではかえって失礼です(ずいぶん身勝手な論理ではありますが)。しかも、電文は伝統的に省略の美を尊びます。「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」を理想としております。 べたべたした「心のこもった文章」を練り上げないで済むというのは、電報の最大の美点ではないでしょうか。故に名誉が傷つくこともありません。
さて、D-MAILのサイトで作業開始です。指示に従ってあれこれ選択をして行けばよいのですが、最初が台紙の選択でした。画面に現れたのは全部花をあしらった豪華なもの。どれがよいやら判断がつかず、とりあえず一番初め置かれている「パールアイボリーの額の中に赤やピンクのバラとアジサイ等を敷き詰めたプリザーブドフラワー(一部造花)です。置いて飾る他、壁掛けとしてもご利用頂けます。」という台紙をクリック。それから電文の入力へと進みました。
そのとき、何か心をよぎる不穏なものを感じました。こういうときは早まっては行けません。思い直して台紙選択の画面に戻りました。そして気がつきました。一番最初に掲げられているのは一番高い台紙であることに。なんと20,000円です。アブないアブない。
よく見れば一番最後に目立たないように0円の普通の台紙も掲載されていたのですが、そのときは気がつかず、3,000円の多少しゃれた台紙に変更して事なきを得ました。
以前、電報の廃止が議論されたことがありました。どういう理由で生き残ったのか忘れてしまいましたが、電報には上記の「紋切り型が通用する」という美点のほかに、受け取った方に「わざわざ電報を」というワザワザ感を喚起させるという美点もあります。義理の世界では電報はいまだに存在価値があることを再認識いたしました。サイトから電報を打つというおかしな行為にも一定の意味があるんですね。
しかし、NTTの策略にひっかかって20,000円の台紙で発信してしまった人も多いんじゃないかなあ。