実用性の問題について

役所からハンコをなくすのだとか。これについては賛成です。
どこかの役所で手続きをしようとしたら、書類に印を押すのを忘れていました。三文判も持ってきていません。サインや拇印ではだめだと言われて、一瞬途方にくれたら、窓口の人が言いました。
「そこを出たところの売店で認印を売っていますよ」。
何のためのハンコなのか、ますます途方にくれました。

ハンコはしかし、役所の非効率性のほんの一部分でしかありません。何故必要なのか、必要性がさっぱりわからない書類を何種類も添付しなければならない諸々の手続きの方を、ハンコより先に簡素化してほしい。そこに時間と労力とコストがかかり過ぎます。押印をなくすだけで達成感を演出し、行政改革はオシマイということにならないでしょうね。ちょっと怪しい。

こんなにハンコが話題になろうとはつゆ知らず、この春から篆刻を再開しました。書や水墨画などに押されているあの落款印を趣味で彫ろうというものです。20年ほど前にもしばらくやっていたので、道具は一通り揃っています。
COVID-19の流行で外出もままならない。7月は長雨で8月は猛暑。エアコンを利かせた部屋でできる。これは誠に家籠もり向きの趣味であることを再認識しました。と同時に、20年の時間の隔たりも感じました。一つは視力が落ちたこと。運転免許も裸眼で更新していますが、細かい印面を見つめると乱視がかなり厳しい。ルーペが必須となりました。もう一つはネットで多くの情報が得られるようになったこと。道具や材料はネットで揃いますし、プロの篆刻家が毎日YouTubeで篆刻の知識や技術を紹介しています。実演が見られますから、とても参考になります。
役所のハンコは実用の世界のものながら、よく考えたらその実用性がないじゃないかと指摘を受けたわけですが、落款印の方は趣味、遊び、芸術の世界のもので、もともと実用性など求められていなかったので、これからも生きながらえるのではないかと思います。
実用性を目指す学問と実用性を目指さない学問。どちらが長く生き残って行くのか・・・似てませんか。

いま読むべき本でした

いまごろ読んでいるのか、と呆れられそうです。
ジョン・ダワー著「敗北を抱きしめて」
奥付を見ると2001年3月の初版です(その後、増補版が出版されています)。20年間、自宅の本棚に眠っていました。それを読み出したのは、まさに新型コロナのおかげです。自宅に籠もる時間が長くなったので、手もとに読むべき本がなくなってしまいました。そこで本棚を漁って、未読のこの本を引っ張り出しました。
まさにいま読むべき本でした。戦後の占領期の混乱した政策が現在の政治や統治システムのおかしさ、不合理さ、居心地の悪さに直結していることがよく理解できました。
いまの政治家にもぜひ読んでほしい、あるいは読み返してほしいとつくづく思いました。しかし、どう見ても今日権力を握っている人たちが読むとは思えない本でもあります。どこかの知事が多少上から目線で発言したように、それだけの「教養」はお持ちでないのかもしれません。
なお、この翻訳はとてもすばらしい。まったく翻訳であることを感じさせないばかりか、ソースの日本語文献を丹念に参照しています。それにもすっかり感銘を受けました。

田舎町の水曜日

関東の北東部にある町を訪ねました。カメラを持って出かけるのはほぼ8ヶ月ぶり。古い家並みが残っていると聞いたので、それらを被写体にしようという狙いです。
市営の広い無料駐車場は平日ということもあってかガラガラ。掲示板横の箱から案内地図を取り出して歩き出しました。
メインストリートと思われる道を歩いているのは、私のほかに駐車場のパジェロから降りてきた長髪の中年男性と女の子を連れた男性の計4人。みな観光客のようです。
まず観光案内所のような立派な施設に寄ってみました。案内所が左。観光パンフレットや地図が置いてあるホールの奥に事務所がありましたが、みなさん自分の仕事に熱心に取り組んでおられて、入って来た観光客には関心がないようでした。右が小さな博物館。発掘された土器から江戸時代の道具類まで展示されていました。
さて町歩きです。地図を頼りに600m四方ほどの地域に散在する○○家住宅とか××家住宅といった国の登録有形文化財に指定されている古い建物をざっと見て回りました。それぞれが個人の所有で実際に住んでおられる現役の建物だったりするので、内部を見学することは叶いません。外側から眺めるだけです。
古民家であっても余裕のある家はしっかり補修されています。一方で廃屋になっている建物も少なくありません。空き地もあちらこちらに見られました。店の多くも閉まっています。ほとんど人影を見かけません。車もめったに通らない。少々気が重くなってきて、写真を撮る気も萎えてきました。
「割烹」と看板を掲げた店が営業していたので、そこで昼食をとることにしました。まだ1時前なのに客は私だけ。
 「水曜日は町の一斉休業日なんですか?」
 店のご主人が答えました。
 「そういうわけではないんですが、昔から水曜日に休む店が多いんです。ま、水曜日でなくても同じようなものですよ」

玉座のある会議室

会議室の立派なテーブルを取り囲んだ椅子の中に、一つだけひときわ大きな椅子を置いている会社があります。その会社の最高権力者専用の椅子に間違いありません。最高権力者が出席しないミーティングでも、そのチェアに坐る人は誰もいません。侵すべからざるチェア。玉座とも言えるでしょう。
ある会社ではいくつかある工場の会議室にそれぞれ玉座が用意されていました。社長が工場に視察に来たときに備えているわけです。
社長はえらい。これはどの企業でも変わりません。企業のガバメントという観点からも、それは認めざるを得ないところがあります。社長の指示を社員が無視する会社というのはアブナイですから。しかし、社長の前では社員は何も言えない、ただただアタマを下げているだけ、という企業体質もまた非常にアブナイ。社長におうかがいを立てなければ何事も決まらない。にも関わらず、なかなか社長には具申できない。おっかなくて、なかなか言い出せないという企業体質なのではないかなあ。玉座のある会社にはそんな臭いがプンプンします。

ここまで来たか、監視社会

ある写真家のもとへ突然、国が運営するある公園の管理事務所からメールが届きました。
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この度、貴団体のイベントが某月某日に××公園で開催される予定について確認いたしました。
https://××××××(写真家が運営するサイトのURL)

このイベントは参加費が必要なようですが、××公園は某省が管理する国の施設でございますので、規定により園内で有料イベント等の営利行為は許可できないことになっております。
万が一、園内での営利行為が判明した場合は、中止をお願いせざるを得ませんのでご了承ください。今後は営利行為となるイベントの実施は固くお断りさせていただきたく、ご理解とご協力の程よろしくお願い申し上げます。

貴ホームページ、ツイッター、SNS等での××公園の有料イベント募集の記載につきましては、他の利用者の誤解を招きますので、既に開催されたものや今後のイベント募集含め削除いただけたら有り難く存じます。
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規則は規則ですから、その公園を使う以上は規則に従わざるを得ません。営利目的ならその公園を使えないということもわかりました。
しかし、この話を聞いて何か釈然としないものが残りました。
管理事務所は、写真家のホームページを見て、このような警告のメールを送ってきたわけですが、それはたまたまでしょうか。そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。営利目的で公園を利用している輩がいないか、管理事務所はすべてのサイトを常に検索しているのではないかとの疑念が生じます。もしかすると内閣調査局の協力を得て監視しているのかもしれません(ちょっと大袈裟かな?)。
怪しいヤツは事前に潰しておこうというわけですが、それは行政権による事前抑制あるいは事前検閲に通じる行為ではないでしょうか。法律家ではないので正確にはわからないのですが、公園内で営利行為が行われそうだと気づいたら、それが実行されているのを確認した上で注意を喚起するのが真っ当なやり方ではないかと思うのです。市民の楽しみの場である公園の管理事務所が秘かにこのような調査をしていることにも、少々薄ら寒い思いがいたします。

ボクはやっと認知症のことがわかった

私は原則として本はお薦めしないことにしています。関心や価値観は人さまざまですから。正直に言えば、他人から「面白いから」とか「ためになるから」などと言われるのは大迷惑です。なんの関心もない話題だったり、嫌いな著者だったりすることも少なくありません。義理で読んでいると、貴重な時間をこんな本のためにつぶされるのかと癪に障ることもあります。
ではありますが、この本は多くの高齢者やそのご家族には読む価値ありだと思いました。
「ボクはやっと認知症のことがわかった」KADOKAWA刊。
専門医が自らの専門とする疾患にかかる例はしばしば耳にします。認知症の第一人者である長谷川和夫先生もその例で、自分が認知症になってしまった。専門家と患者が合一してしまった。私たちが認知症を知る上でこれ以上の条件はありません。
「認知症になったからといって、人が急に変わるわけではない」という言葉には、専門家=患者であればこその説得力があります。むろん現実にはこの本に書かれているような美しい日常ばかりでないでしょう。憎しみや嫌悪が渦巻く修羅場もあるだろうとは思いますが・・・。
長谷川先生には一度だけお目にかかりました。PR誌の編集をしていた80年代、取材にうかがったかと思います。この本をまとめた読売新聞の猪熊律子さんにも、企業の広報担当者だったときに、一度だけ取材される側としてお会いしたことがあります。印象に残る記者さんでしたが、その後はコンタクトする機会はありませんでした。
それはともかく、かつて実際にお目にかかったお二人が組んでのよいお仕事だと思いました。

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出たい人より出したい人

最近はあまり目にしませんが、「出たい人より出したい人」という選挙の標語がありました。
報道関係の人たちがつくるある会で最近会長が交代しました。それまでの10年近くある男がその座に居座り続けました。ただの名誉職に過ぎませんが、それが彼の現在の職業を維持するために必要な肩書きだったのではないかと噂されていました。自分の所属する組織に有利となるような催しを強引に開いたりして会員の顰蹙を買っていましたが、そのような人物がなぜ長期間居座ることができたのかと言えば、会則で会長は立候補と決められていたからです。推薦人も必要ありません。理事会でナアナアで決めることになっています。名称だけは立派でも会員の老齢化が進み活気が失われつつある小さな会の会長など、よほど志のある人か、そこに利用価値を見出した人でなければなりたがりません。彼は後者だったようです。出たい人しか会長にならないという仕組みは、どうもいただけません。
現在の政治家さんにも志のある人はいるのでしょう(そう信じたい)けれども、日頃の言動や、やっていることなどを報道から知る限り、政治家になること、大臣や知事になること、あわよくば総理大臣になること、そしてそこからより多くの利益や名誉を得たいと思っている人たちの方がはるかに多いような気がします。
誰でも公職に立候補できるのは民主主義の基本ではありますが、同時に立候補という仕組み自体に、真の民主主義と矛盾する要素が含まれているのではないかとも思えてしまいます。だれか、そういうことを論じている人はいないかな。

新しい生活様式

いま、私たちは生活習慣の、あるいは文化の歴史的な転換点に立っているのかもしれません。
人との間隔はできるだけ空けろだの、家に帰ったらシャワーを浴びろだのというお上のお達しのことではありません。
電話が黒電話から携帯、スマホと変わっても、私たちの第一声はいまも「モシモシ」です。ネット上の情報によれば1890年に日本で電話が開通したとき、「申し上げます」の「申し」が略されたことによるとのこと。英語のHello!に代わるものとして定着したらしい。
この2~3ヶ月、ネット会議だとかWEB会議がにわかに盛んになりました。少々ややこしい手順の末、モニターの画面に相手の顔が表示されたとき、さすがに「モシモシ」という人はいません。電話に似たようなものですが、相手の顔が確認できて表情がうかがえるとき、日本人は「モシモシ」を言わないのかもしれません。英語圏の人たちはWEB会議でも当たり前に「Hello!」と発しているでしょうから、これは日本独得の現象なのに違いありません。新発見ではないでしょうか。
その代り手を振る人が多い。「私はちゃんとここにいますよ」。会議ソフトの設定をちょっと誤ったりすると音声が届かなかったりしますから、これは有効なジェスチャーと言えます。
さらに、会議が終わって退出ときに手を振る人はずっと多い。「さようなら」、「バ~イ!」。
これって、新しい生活様式ではないでしょうか。それが生まれ、定着しつつある瞬間にいま私たちが立ち会っている。しかも世界共通のようなのです。これを歴史的な転換点と言わずして何としよう?

広報という人文知を軽んじるな

4月26日付朝日新聞に掲載された京都大学人文科学研究所の藤原辰史准教授による寄稿「人文知を軽んじた失政」を読んで、ハタと膝を打ちました。
一部を抜粋します。
「これまで私たちは政治家や経済人から『人文学の貢献は何か見えにくい』と何度も叱られ、予算も削られ、何度も書類を直させられ、エビデンスを提出させられ、そのために貴重な研究時間を削ってきた。企業のような緊張感や統率力が足りないと説教も受けた。
 だが、いま、以上の全ての資質に欠け事態を混乱させているのは、あなたたちだ。長い時間でものを考えないから重要なエビデンスを見落とし、現場を知らないから緊張感に欠け、言葉が軽いから人を統率できない。アドリブの利かない痩せ細った知性と感性では、濁流に立てない。コロナ後に弱者が生きやすい「文明」を構想することが困難だ。」
まさにその通り。
しかし、私が膝を打ったのは、もう少し下世話なレベルで思い当たるところがあったからです。
長く広報の仕事をしてきた中で、何度も何度も「この広報企画が業績にどのように貢献するのかわからない」と言われてきました。説教も受けました。
いまこそ言い返したい。
あなたたちは長い時間でものを考えていない。かすかな兆候から重要なエビデンスを見出すことができず、いつ直面するかわからぬクライシスに対する緊張感に欠け、教条主義、官僚主義的にしか人を統率できない。アドリブの利かない痩せ細った知性と感性では、濁流に立てませんよ。
言いたかったなあ、あのとき、このとき、そのように。

記事はこちら > https://digital.asahi.com/articles/DA3S14456624.html?iref=pc_ss_date

自分の表情という会議ストレス

自宅勤務を専らとしてから2週間あまり。自宅のソファーにひっくり返ってスマホばかり見ていたら、目の焦点が合わなくなってしまいました。先月の自動車免許更新では、朝から目薬をさした効果か裸眼で合格しましたが、加齢とともに視力調節機能の回復は明らかに遅くなっているようです。
そのぼんやりした眼を見開いてPCの画面を見ております。テレビ会議です。
慣れてしまえば、テレビ会議は寄り集まっての会議に十分代替可能であると確信しました。これからはテレビ会議の方が主流となり、よほどの事情がない限り会議室に集まる必要はなくなるだろうと予測します。
となると大会社のズラリと並んだ会議室の半分は使われなくなります。テレワークが定着すればデスクを並べたフロアの面積も縮小する。すると不動産需要が縮小する。REITも暴落する・・・と風が吹けば桶屋が儲かるようなことを夢想していますが、それもヒマ、いや時間の余裕のなせるワザです。
そのテレビ会議、ITが苦手な人がまごつくのはやむを得ないとして、決定的な問題は自己嫌悪にありと発見してしまいました。。
ふつうの会議では、他の出席者の顔色をうかがいながら発言することはできますが、そのときの自分がどんな表情をしているかを自覚することはできません。ところがテレビ会議では、自分の顔をいやでも見ながら会議をしなければなりません。苦笑したり皮肉に口をゆがめたり、その表情が逐一目の前のモニターに映し出されます。これはまずい。心の動きがこんなに表れていようとは。他の出席者たちも無意識のうちにそれに感づいて、それぞれ自己規制をしているかもしれません。
会議の駆け引きに、自分自身の表情というもう一つの要素が加わります。思わぬストレスです。それが会議の流れにどのような影響を与えるか。経営学や社会心理学の新しい研究テーマになるかもしれません。