早生まれですが、なにか?

この季節になると、早生まれの子には体力や学力のハンディキャップがあるか、というテーマの報道を目にするようになります。3月下旬生まれの身としては、少々興味を惹かれるのですが、たいていは差があるんだかないんだかわからない結論でお茶を濁されてしまいます。
では自分自身ではどうだったのか、とはるか昔を思い起こしてみると、どういうわけか子どもの頃にハンディキャップを意識した記憶がありません。そんなこと考えたこともありませんでした。
もっとも小学校1年生のときの算数の足算引き算競争では、いつもビリから2番目でした。常にビリだった田島君が早生まれであったかどうかは知りません。駆けっこも遅い方でした。運動会の徒競走では6年生にして初めて3着になりました。
それは確かにその後に影響を与えたようです。たとえば宴会のワリカンの計算。電卓もスマホも使える世の中ですから、やるハメになればやりますが、できれば他の方にお譲りしたい。苦手意識がそうさせます。スポーツは何をやっても上達しません。ゴルフを始めたときはなかなか100を切れませんでした。これも苦手意識が足をを引っ張っていたように感じます。
このようないくつかの事象はあるものの、社会に出てからはそんなことを意識したことはまったくありません。多くの報道と同様あいまいな結論になってしまいますが、それは大学受験で一年間のハンディキャップを精算してしまったからでもあります。

マスクがマスク

マスク、ないですねえ。マスクが世の中からマスクされている、なんてシャレている場合ではないのですが・・・。
昨日、東京郊外の大病院の構内に出店しているセブンイレブンに寄ったら「マスクはレジで販売します」と空の棚に掲示が。レジで「マスクありますか?」と言ったら、「ありますよ~」と明るい声が返ってきました。確かにありました。1枚100円。
今朝の電車の中でノドがイガイガしました。ヴィックスを舐めても収まらず、数回咳をしてしまいました。これはまずい。周囲を見回すのも怖ろしく、あわててバッグからマスクを取り出しました。
いま10枚ほどマスクの手持ちがあります。コロナ騒ぎが始まる前に購入していたものです。持ってはいますが、感染していない人がマスクをしても無意味だという「専門家」のご意見に従って、街中でも電車の中でもマスクはしていません。それでいいのかどうか、確証はありません。人間は自分の意見を補強する情報ほど取り入れやすいと言うのが社会心理学の定説です。もともとマスクが大嫌いなので、その情報を取り入れているという、ただそれだけのことです。手持ちのマスクを使ってしまうのが惜しい、というケチな了見もそれなりにありますが。

反知性の時代を生き延びる

いまで言うところのパワハラ上司のもとで働いていた若き日の十数年間、つくづく「泣く子と地頭には勝てない」を実感したものでした。マネジメント技術などてんで持ち合わせていないその上司は常に強権的でした。部下の尊厳などには少しも気が回りませんでした。自分の思うようにならなくて、ついに窮すると泣き出すのです。女性でしたから。男性だったら暴力をふるうか開き直るところでしょう。どちらにしても論理や理屈を受けつけずに自分の意志を押しつけるという点では同じことです。
こういう人がなぜか成功する。少なくとも理屈ばかり考えている人よりも権力を握る確率が高い。知識や教養は無知や自己愛には勝てないのです。最近、論理を理解できないか、理解できないふりをする「指導者」が世界中にたくさん登場していますが、権力とは本質的にそういうものなのかもしれません。
それに関連する、とも言えないのですが、東京の西の郊外へ向かって伸びる私鉄に京王線と田園都市線があります。何年も前のことですが、不動産屋さんが言いました。「京王線てインテリが多いんですよ。みんないい学校を出ている。でもお金は持っていないんだ。田園都市線は、田園調布あたりの金持の子どもが家を建てて住んでいる。大した学校は出てないけど、金はあるんですよ」
これが事実であるかどうか確認する術もありませんし、近頃はずいぶん様子が変わっているとは思いますが、不動産屋さんの感想は、社会的なパワーと知性とは反比例するという指摘にほかなりません。
昔もいまも金と権力を得たいと思ったら、間違っても知性を持ってはいけません。それが反知性の時代を生き延びる方法ではないか。このところそういう思いを強くしています。

守りのマスク?

このクルマ、ドアにクッションのようなものをぶら下げて駐車しています。隣のクルマのドアにぶつけられて、自分のクルマがキズつくのを防ごうということでしょう。その隣のクルマとはわが家のクルマのことです。仮想敵は私と連れ合いの二人です。これまでキズつけた覚えは一度もないにも関わらずです。当初は「新車だからなあ」と鷹揚に構えていましたが、だんだん不愉快になってきました。ロールスロイスじゃあるまいし・・・。
これが何かと似ていると気づいたのは昨今のことです。新型コロナウイルスの感染が拡大するにつれてマスクで外出する人が多くなりましたが、健康な人の感染を防ぐためにマスクは役立たないと専門家は言っています。すでに感染している人がマスクをするのは咳やクシャミによる飛沫を遠くに飛ばさないために有効であるということです。
クッションは元気な人のマスクです。クルマのドアの端に取り付けるプラスチック製の小さな緩衝材がありますが、あれをわが家のクルマにつければ、感染者のマスク同様、お隣さんのご心配を和らげることができるかもしれません。 しかし、咳やクシャミが出るのは止められませんが、ドアを注意深く開けることはできますし実際にそのようにしています・・・ などとあれこれ考えているうちに、なんだか犯罪者のような気分になってきました。
一昨日から37.7℃の発熱がありました。これが4日続けば相談窓口に電話してよろしいとのことでしたが、1日半で36℃台に下がりました。だからと言って新型コロナでないとは言えません。明日はマスクをして外出することにしましょうか。

放っておいてよいものか?

かつて大騒動になったWELQ問題以来、ネット上の医療情報に関しては非科学的な情報が少なくなったようです。Google検索では上位に比較的まともな情報が上がってきます。そのようなアルゴリズムに改善されたそうですが、それでも眉唾ものの情報がなくなったわけではありません。
世の中には科学的な事実よりも反科学主義的な考え方を好む人たちもいて、そのような人たちは吸い込まれるようにおかしな情報にリーチしてしまうようです。自分だけが信じるなら、それはご自由ですが、さらにSNSなどで拡散しようとするのを見ることも少なくありません。
そのときどうするのがよいのか、少々迷うことがあります。こちらは医師でも研究者でもありませんので、頭に蓄えている情報はすべて伝聞情報にすぎません。自分の知識が絶対正しいという自信はまったくありません。それでも、あまりにもおかしな情報を、それも知人が信じ込んで拡散しているのを見たりすると、これを放っておいてよいのかと迷ってしまいます。コメントに「これはフェイクですよ」などと書き込めば、人間関係には好ましい影響を与えません。が、SNSは半ば公共的なメディアですから、その投稿を読んで信じ込む人がほかにも出てくるかもしれません。
こんなことで、自らの倫理感を試されることになるとは・・・。

ある企業戦士の死

昨秋、一人の男が死にました。心筋梗塞と聞きました。
成功したサラリーマンでした。若いときは理不尽な上司に虐められました。いまならパワハラとして告発する方法もあったでしょうが、当時は我慢するか会社を辞めるかしか地獄から抜け出す方法はありませんでした。彼は我慢を重ねてしのぎつつ、支店長として営業成績を上げ続けました。
その後、会社の体制が変わった流れに乗って、昇進の道を突き進みました。
睡眠時間は3時間と決めました。当然、昼間は眠い。それを隠しながら仕事をしました。1年に100冊の読書をすることを自らに課しました。新しいツールにはすぐに飛びつきました。シャープが全盛の頃に売り出した電子手帳Zaurusの新型が出るたびに次々に買い換えました。Suicaが出ると、現金なしでどこまで暮らせるかに挑戦したりしました。
社外でも顧客である某職能団体と深い関係を構築し信頼を勝ち取りました。著書が数冊あり、講演依頼が引きも切らずの状態となりました。
若手の役員として経営の中枢を担いました。しかし、社長にはなれませんでした。会社を離れてからは消息を聞くこともまれになりました。会社のOBたちが集まると、昔の仲間のウワサで盛り上がるのですが、彼の話はトンと聞きませんでした。誰も彼に関心がないようでした。そして突然の訃報に接しました。
彼について深くは知りません。親しくもありませんでした。しかし、いまは耳にすることが少なくなった「企業戦士」という言葉を聞くたびに彼を思い出します。ご冥福をお祈りします。

新年のご挨拶とさせていただきます

あけましておめでとうございます。
今日からまたオフィスに出てきました。仕事始めということもあってか、メールも電話も少ないので業界各紙の1月1日号をパラパラめくっております。
恒例の、というべきか、毎年変わり映えもせず、というべきか、役所の幹部やら業界団体のトップやらの年頭所感がいくつも掲載されています。はっきり申し上げて、ほとんど読む価値がありません。
思い起こせば筆者もかつて年頭所感のゴーストライターをつとめた経験が少なからずあります。執筆のコツは、その時々のトピックスを散りばめること、厳しさを強調しつつも期待感を表明すること、署名筆者の個性をほんの少し臭わせること、そして何はともあれ無難な内容にすることなのです。読み手の参考になったり、役に立つような内容を提供することなど少しも考えまません。故に、読む価値がないのです。
仕事柄、それらを承知の上で斜め読みしましたが、7割方の結びの言葉が、「・・・を持ちまして、新年のご挨拶といたします」とか「新春の挨拶に代えさせていただきます」という紋切り型で終わっていることに、いまさらながらうんざりさせられました。これから方々で開催される賀詞交歓会でも「業界のご発展を祈念いたしまして、ご挨拶とさせていただきます」が締めの言葉になります。まあ、目くじらを立てるほどのことでもありませんが、こんな言葉を読んだり聞いたりするたびに、年が明けても世の中変わらないなあ、と思うのであります。

年末年始の恒例です

今年も暮れようとしています。オフィスに出てくるのも今日でおしまい。仕事納めではありますが、いわゆる「仕事」はしていません。セーターにチノパン姿です。で、何をやっているかと言えば、PCのCPUとマザーボードの交換です。私がオフィスで使っているPCは、自分で組み立てた自作マシンなのです。
実は昨年の年末年始も似たようなことをしていました。PCのハードディスクをSSD(メモリー)に置き換えてスピードアップしようとして見事に失敗。どろ~んとした気分のまま年を越し、新年の数日をOSのクリーンインストールとアプリの設定という非生産的な作業に費やしたのでした。
そのようなトラブルの可能性を考えて年末年始にPCをいじっているのですから、想定内と言えば想定内であったのですが・・・。
さて今年は、PCの動作が突然遅くなったり固まったりする不快な症状を解決するのが目的です。しかし、昨年の苦い経験があるからビクビクもの。少々緊張しました。
結果はあっさり「成功」です。動作が速くなったようです。いくつかのトラブルに見舞われ、来年へ持ち越す宿題も残していますが、昨年より気分はだいぶマシです。
さあ、もう作業はおしまいにしましょう。みなさま、どうぞよいお年をお迎えください。

「いいね」はもういいね

FacebookやTwitterなどへの投稿に対する「いいね」について、心理学やら社会学やら民俗学やら、ネットでいくつかの考察を読んでみましたが、どれが「いいね」なんだか「よくないね」なんだかよくわかりませんでした。「いいね」が多いとうれしいのは承認欲求が満たされるから、という説には納得できますが、若い人たちは「いいね」をつけるかどうかですべての事象を判断している、みたいな極論には「いいね」をつけかねます。それほどのものかどうか・・・。
Facebookなどに投稿すると、何でもかんでも「いいね」をつけてくる人がいます。知り合いの投稿には、中身を読まずとも「いいね」をつけるのが礼儀と心得ておられるようです。「読みました」というお印といった意味合いもあるでしょう。一方で、まったく「いいね」を送って来ない人もいます。何万というフォロワーを持つタレントさんや有名人なら理解できますが、そうでない人たちの場合はどういうことなのか? 威張っている、見下している、ばかにしている、まあそんなところでしょう。こちらは、ときどき「いいね」しているというのに・・・。どちらにしても「いいね」がうざったいことには変りありません。SNSにも少々飽きてきました。世の中でもいまがSNSのピークである、と大胆に予言しておきましょうか。

手のシワ

ベッドで本を読んでいたら、自分の手のシワに気づきました。既視感がありました。思い出したのは祖父の手のシワです。小学3年生のときに亡くなった祖父からは、いつも本を読んでもらっていました。その時の手のシワを覚えているわけではありませんが、一瞬懐かしさが胸をかすめました。
エリザベス・テーラーもフランク・シナトラも、顔は施術によって若々しく見せていましたが、首と手のシワだけは隠せなかったとどこかで読んだ覚えがあります。祖父の年齢までにはまだしばらくありますが、現実を突きつけられたような気もします。ハンドクリームを塗っておけば、ここまでシワが目立たなかったかなあ。無駄な抵抗はやめよ・・・はい。