腹話術と交通安全運動の関係

毎年春秋に交通安全運動というものが行われます。内閣府によりますと「広く国民に交通安全思想の普及・浸透を図り,交通ルールの遵守と正しい交通マナーの実践を習慣付けるとともに,国民自身による道路交通環境の改善に向けた取組を推進することにより,交通事故防止の徹底を図ることを目的とする」ものだそうです。
2021年の筑波大学の調査では、運動の実施月の交通事故死者数は他月より2.5%少なかったそうですが、お役所もちゃんと効果検証をしているのでしょうか。
交通安全運動が始まると、街角にテントが設けられ折りたたみ椅子に誰やらが座っています。知り合いが、商店街振興組合の依頼で先日そのテントに詰めたそうです。高齢の女性が3人立ち寄られたので、サービス品のティッシュペーパーをお渡ししただけで、あとはただ座っているだけだったと言っていました。
テレビのローカルニュースが報じるところでは、交通安全週間中にはしばしば「一日署長」というものが任命されるようです。売れない(失礼!)タレントさんに警官の制服を着せタスキをつけてパレードしたりする。テレビに取り上げられれば、それなりに効果があったとなるのでしょうね、きっと。
それよりさらに不思議に思うことがあります。これもテレビニュースによりますと、交通安全のイベントにはしばしば所轄署の警察官が腹話術で交通安全をアピールするらしい。近年、腹話術を見る機会はほとんどありません。そう言えば半世紀前にも小学校で見たような気もします。上のイラストはあるフリーサイトにあったものです。「腹話術」と検索したらこのイラストがヒットしました。腹話術=交通安全は社会的認知を得ているようです。
なんとなく前例踏襲、惰性の臭いがします。伝統を受け継ぐのも大切かとは思いますが、少しは見直しをしたり新しいことも考えてみたらいかがですかと言いたい。

カタイ人

そろそろ高校の同期会をやろうじないかと幹事として十数名が呼び集められました。
卒業生名簿の確認・再整理から当日の段取りまで、もろもろを決めなければなりませんが、そのような事務的な話はほんの十数分で終わってしまい、あとは焼酎で酔っ払う宴会になってしまいました。
肝心の打合せが簡単にすんでしまうのは、隅の方に坐っている一人の男の存在があるからです。
彼は幹事代表でも元生徒会会長でもありません。一幹事に過ぎませんが名簿の作成から出欠メールや往復はがきの文案まで、すべて彼の手によって事前に用意されています。それを見て「まあ、こんなところでいいんじゃないの?」と、あっという間にすませてしまうのです。
宴会に移ると彼はみんなの話の輪にほとんど加わりません。ウケル話も冗談の一つも言うことなく後景へと退いてしまいます。
この種の人物がどこの会社でも団体でもあらゆる組織に存在します。しかも多数派です。彼らは完璧なスケジュール管理や在庫管理などをなし遂げます。文書を作成させても誤字脱字がありません。一方で原理原則にはうるさい。前例を尊重したがる。細かい。整合性にこだわる。斬新な提案には抵抗を示します。クリエイティビティは一般に乏しい。しかし、命じられれば着実に遂行する。規則が変更されればそれを忠実に順守する。一旦前例ができてしまえばその後は何事もなかったようにそれを実行します。いわゆる官僚がその典型です。
こういう人たちは往々にしてアタマがカタイと評価されます。これは一種の悪口でもあって、時として「アタマがワルイ」の言い換えであったりします。実直ではあるけれどリーダーにはなりにくい。しかし、組織も社会もそのような大多数の人たちによって下支えされています。彼らがいなければ世の中回りません。
個人的にはこういう人種は少々苦手なんですが、こういう人たちのことをエスタブリッシュとかエリートとか上級国民とか呼ばれている人たちはいま一度思い出してほしいとも思うんです。だって彼ら多数派がいるから、その上にあぐらをかいていられるんですから。

土産話はお好き?

今年の旧盆や夏休みは台風にたたられましたが、それでも旅行をした人は増加したそうです。テレビのワイドショーで、あなたはお土産を買いますか、買いませんかというインタビューをしていました。どちらが多かったか忘れてしまいましたが、番組としては「土産話」が一番よいお土産でしょう、と四方八方丸くおさめていました。

このところ知人が北欧をクルーズ旅行した話をSNSにさかんに投稿しています。豪華クルーズ船の内部の紹介から美しい観光地で感動した話、旅行者があまり行かない土地での出来事などを写真つきで紹介しています。さぞ楽しかっただろうと思いますが、それを読まされるこちらは・・・それほどでもありません。
SNSなら読まなければすむのですが、ときどき自分の旅行記をまとめた冊子を送ってくださる方もおられて、その処理に頭を悩ますこともあります。
沢木耕太郎の「深夜特急」や高野秀行の「南西シルクロードは密林に消える」など、書籍となっている旅行記は大好きなんですが、あれは才能とスキルを持つプロが書いたもの。素人の紀行文ってやつはどうもいけません。
顔中に感動を漲らせての土産話も同様で、「あんたが行ったことのないところに行ってきたんだ」とか「こんなこと、行った人しかわからないでしょう」といった優越感がそこはかとなくまとわりついています。その上から目線が不快感を呼び起こします。エッフェル塔の前でバンザイしている写真などその最たるもの。
なにを僻んでいるんだと言われそうですが、その通りです。こちらは大いに羨ましくて、それで不愉快になってくるんですよね。

ここに書いてあったのかあ

今日7月6日付朝日新聞の「声」欄に「『させていただく』違和感あり」というタイトルの投書が掲載されていました。
「させていただく」表現に違和感というか、抵抗感を抱く方が高齢者を中心に多いような気がします。かく言う私もそうでした。
ところが、あるときからさしたる抵抗感なく使い始めました。そのきっかけは司馬遼太郎が「この語法は浄土真宗の教義上から出たもの」と書いているのを読んだからでした。
ところが、それが作家の膨大な著作のどこに書いてあったのか、すっかり忘れてしまいました。どこだったかなあと、著書を何冊かめくってみても見つからず、サイト検索してもヒットせず、あきらめていたら偶然1ヶ月ほど前、それを再発見したところだったのです。
 朝日文庫「街道をゆく24 近江散歩 奈良散歩」p.11~12。
司馬は言います。
「真宗においては、すべて阿弥陀如来-他力-によって生かしていただいている。(中略)この語法は、絶対他力を想定してしか成立しない。『お蔭』が成立し、『お蔭』という観念があればこそ、『地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました』などと言う。(中略)この語法は、とくに昭和になってから東京に浸透したように思える」
そういうことなのか。それなら使ってもいいかな、などと極めて非論理的ではありますが、考えたのでした。
ちなみにわが家の菩提寺は禅宗、曹洞宗なんですが。

この年で?

にわかに思い立って、アスレチッククラブに入会しました。
この年で?と高校の同級生に訝しがられましたが、そうです、この年にしてなのです。
一昨年の暮れから自宅で軽い筋トレを始めました。体力の衰えを自覚したということもありますが、健康診断のたびにドクターから「なんだかんだ」とご注意を受けるからでもあります。「なんだかんだ」は言われるものの治療はなしです。それほどではない。その代わり運動をしなさいとしつこく忠告されます。
ブルワーカーⅡという筋トレ道具、何十年か前、PLAYBOY誌などに広告が出ていました。これを使えば誰でもムキムキのキン肉マン(当時はマッチョという単語は使われていなかったはず)になれると思わせてくれました。しかも秘かに部屋の中でトレーニングできる。実に魅力的です。貧相な肉体の持ち主として、恥ずかしながらムキムキを夢見て購入したものの、ほとんど使わないまま押入の奥に放り込んでいたのを引っ張り出しました。ビニール製のケースには穴が開いていましたが本体は新品同様。説明書もありました。
さらにAmazonに鉄アレイを二つ注文しました。最近の鉄アレイは表面がソフトに加工されていてとても感触がよろしい。これも家捜しをすれば立派なダンベルがあるはずなのですが、探すのが面倒くさい。
この二つの器具を使って、週に4~6回筋トレを行って1年半。力を入れてもふにゃふにゃだった二の腕にささやかながら力こぶができてきました。
となるとさらに負荷を高めたい。もっと重い鉄アレイを購入しようかとも考えましたが、アスレチッククラブのマシンを使った方がより効果的かもと思い至りました。
入会して驚きました。「この年で?」どころではありません。トレーニングに励んでいるのは高齢者ばかりではありませんか。背中が屈曲した高齢のご婦人が静々とエアロバイクに歩み寄り、慎重にセッティングをしてこぎ出します。同年代と思われる男性が猛烈な勢いでランニングマシン上を疾走しています。どこを見回しても若者も壮年もいません。平日だからでしょうか。いやいや、いまや土日でもアスレチッククラブは高齢者で満ちているのだそうです(平日会員だから土日の様子は見たことない)。どおりで入会申込みをするときも、係の女性がごくごくあたりまえに対応してくれたわけです。
知らないところで世の中って変化しているんだなあ。

ロバートさんのルール

昨年の4月から仰せつかっていた分譲住宅管理組合の理事職も今月一杯で任期満了となります。ほっとする前に「総会」というものがあります。理事長=管理者ではないただの並び大名ながら、何もしないでいるわけにも行きません。
管理組合の総会は株式会社の株主総会にあたるもの。執行部たる理事会としては、議案は粛々と可決されなければなりません。ところが株主総会同様、いやそれ以上に何やかやとご意見やらクレームやら自己アピールやらが表明されて紛糾することが少なくありません。にも関わらず今回の議案は13もあるのです。とても1~2時間では終わりそうもありません。
それなら13議案を一括して採決してしまったらどうか、などという意見も出て来ました。
ちょっと待って。それはまずいでしょう、と申し上げて、突然思い出したのがロバートのルールです。オフィスの本棚に英語版があったなあ、と。
ご存じのように米国連邦議会の規則をもとにロバートさんという軍人さんがまとめたもの。民主主義の基本ルールと言われ、どこの会議でも概ねこれに基づいたルールで運営されているはずですが、その存在を知っている人は少ないという不思議なルールです。
それによれば、議案は一つひとつ採決されなければなりません。一括採決なんて乱暴なことをしてはいけません。
ちなみにロバートのルールの日本語訳は絶版で、ネットで調べたら8万円とか10万円の値がついていました。必要とする人は確実にいるということでしょう。民主主義の危機が叫ばれているいま、新訳が出版されるとよいと思うのですが、売れないのかなあ。それこそ民主主義の危機の象徴ですね。

見えていなかった

「見えているようで見えていない。」
二人称の主語を加えると、「キミは見えているようで何も見えていない」と年寄りのお説教になってしまいますが、実際にそういうことってあるんですね。
なんとなく感じてはいたのですが、やはりおかしいと意識したのはほんの数ヶ月前のこと。昼間の明るいリビングでは、自宅のテレビがよく見えないのです。カーテンを引くといくらか改善するものの、コントラストの低い夕方の場面などは何が何だか見分けがつきにくい。自分の目のせいかとも思ったのですが、よくよく画面を観察してみると上部が少し暗く、下の方が明るく見えます。チューナーは内蔵していないものの4K対応というこの液晶テレビを購入して5年あまり。故障するにはちと早すぎます。
しかし、こりゃだめかもしれないと意を決して大型家電店へ向かったのでした。
いや驚きました。実に鮮明。とくに青が鮮やか。見慣れたニュースショーのスタジオが、まったく違った景色に見えます。女性アナウンサーの目の下に灰色のカゲがあるのにも初めて気がつきました。
見えているようで見えていなかった。
近所の歯医者さんの建物の壁を家人は「きたない色だなあ」と思っていたそうです。白内障の手術をしたら、それがきれいなレモンイエローに塗られていることに初めて気づいたと言っていました。
雑誌の編集をしていた友人は、色校正を見て印刷所にあれこれ指示を出していましたが、白内障の手術をしたら・・・そんな雑誌を買わされた方は、見たくても正しい色は見せてもらえなかったことになります。
気づかぬところで、こんなことはいろいろあるのだろうなあ、と思いながら毎日有機ELの画像を眺めております。

第五福竜丸を覚えていますか?

一度は実物や現地を見てみたいと思いながら、いつか長い年月がたってしまうということがあります。江東区の夢の島公園に保存されている第五福竜丸(福龍丸)がその一つでした。
いまや世の中からすっかり忘れられてしまっていますが、米国が南太平洋で盛んに原爆や水爆の実験をやっていた頃、近くの海域で操業していたマグロ漁船の第五福竜丸に放射能を含んだ灰が降りかかり、乗組員が放射線被害を受けました。そのお一人は数ヶ月後に亡くなり日本中が大騒ぎになりました。
と書いても、それは1954年のこと。まだ幼児だったのでリアルタイムでよく理解できたはずもありません。雨に放射能が含まれていて濡れるとハゲるぞなどと真剣に心配していただけです。なのになぜか第五福竜丸が焼津港に帰ってきたシーンなどが記憶に残っています。まだ家にテレビはありません。どうして覚えていたのだろうと思いを巡らせて、思い至ったのはニュース映画です。当時は映画館に行くと、お目当ての映画の前や二本立ての間にニュース映画を上映していたのです。
話を戻すと、第五福竜丸はその後、紆余曲折を経て東京のゴミ捨て場であった「夢の島」にうち捨てられました。それを東京都が展示館を建てて保存しました。1976年のことだそう。美濃部都知事の時代ですね。
50年近く経ちますが、展示館は十分メンテナンスされていて、その日は休日のためか見学者が10人以上いました。小さいお子さんを連れた夫婦なども見かけました。時代は変わっても社会から忘れられても、よくぞこれまでしっかり保存してきたものです。
それにしてもこんな小さな木造船でよく南太平洋まで行ったものだと、それにも驚きました。
実物を見ないとわからないことって、たくさんあるものですね。

寝正月で思ったこと

最近めっきり弱くなったためか、お屠蘇代わりの日本酒の1合あまりでよい気持に酔っ払ってしまいました。三が日にはなんの予定もなく来客もなく、酔眼を空中に漂わせ、ただただ所在なく過ごしていましたが、新年だから何か新しいことが始まるとか、期待するものがあるとか、何かを始めようということもありません。
それは日本が衰退し始めているためか、ロシアが戦争を仕掛けているためか、中国が独断的な政策を推し進めているためか、いやいや単にこちらが年齢を重ねたためなのでしょう。
ぼんやりテレビを見たり新聞を読んだりソーシャルメディアを眺めていたりしていると、心配になるのはメディアの衰退です。
正月のテレビ特別番組は、いつになったらステレオタイプから脱皮するのでしょう。タレントの大騒ぎやら、通常の番組を薄めに薄めて尺を延ばしたスペシャルやら、とても見る気にはなりませんでした。NHKもニュースを含めて徳川家康がらみの企画ばかり。そんなにまでして大河ドラマを見せたいんか。
ステレオタイプの企画や家康がらみのコンテンツを作っている方が独創的な番組を創るよりずっとお手軽なのでしょう。そうして、テレビはますます視聴者を失って行くのでしょう。
元旦の分厚い新聞も毎年同工異曲の企画で読む意欲がわきませんでした。
ソーシャルメディアに投稿する「友達」も年々少なくなって、広告だけがずらずらと表示されます。
できればメディアに批判的なことは申し上げたくありません。しかしメディアが多くの人たちの支持を失ってしまえば、私たちの広報の仕事も成り立ちません。
既存のメディアに頼らない広報の方法を多くの広報のプロたちが模索しています。残念ながらいまのところ、これはという方法論を確立したという話は耳にしていません。
いましばらくメディアにはがんばってもらわなければならないのです。
現状のまま、また1年が経過してしまえば、また「なんだかなあ」とため息をもらしながら、年末を迎えなければならないことになってしまいます。

ある読書家への返信

○○○○○様

メール、ありがとうございました。
お読みになったという山崎努さんの「柔らかな犀の角―山崎努の読書日記」は、たしかに面白そうですね。この夏に連載されていた日経新聞「私の履歴書」もとんでもなく面白かった。彼は天性の文章書きですね。
さて、こちらは先週の金曜日から熱を出しまして、翌日には38度を超えました。これはやられたなと思いましたが、PCR検査が陰性ということでコロナではありませんでした。それでも二日ほど病臥していました。その間に読んでいたのは、最近文庫本になった池井戸潤さんの「ノーサイド・ゲーム」です。
ビジネスマンが低迷するラグビー部の再建を任されるというストーリーと広告にありました。あの作家の小説はどれも面白く、長く会社勤めを経験した人間にはリアリティが半端ないのですが、一方で、読む前になんとなく筋立てが想像できるようでもあり、スルーすることも少なくありませんでした。
ただ、この小説の主人公が君嶋という名前なのです。「島」の字が旧字の「嶋」であるところが、私と異なっていますが、キミシマには違いありません。
実際に読んでみると、半沢直樹の焼き直しみたいなシーンがあったりして、そのあたりは予想通りでした。そこに例によって、主人公が取締役会で対決する場面が出てきます。そして敵対する役員から
「・・・・・、君嶋!」
などと叱責されます。小説中の会話であっても、「キミシマ!」と名指しされるのを読むたびに、自分が怒鳴られたかのようにドキッとしまうのです。キミシマという苗字が比較的少なく、これまで同姓の方と遭遇する機会が少なかったという事情もあります。しかし、かつて勤め先の取締役会で報告などをしたときの情景や緊張が反射的に蘇ってくるようなのです。勤め先の会社では呼び捨てにされることはありませんでしたが、説教のような厳しいご意見をいただいた経験は何度もあります。それがトラウマになって意識の底に沈殿しているようです。
フランスの詩人ギヨーム・アポリネールは、第一次世界大戦の終結を喜ぶ群衆の「くたばれ、ギヨーム!」という叫びを死の床で聞いて、自分が罵倒されていると思い込んでしまったと伝えられています。群衆が叫んでいた「ギヨーム」とは、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世のフランス風の呼び名だそうです。
名前って思いのほか自意識と深く結びついているのですね。


┏┏┏ 君島邦雄
┏┏   E-mail: kimishima@guessnokanguri.com
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