ぎりぎりセーフ

友人が主宰する前衛劇団の公演を観るために久しぶりに横浜まででかけました。
開演前に腹ごしらえをと中華街でチャーシューメンを食べながらスマホを見ていたら、知人の視覚障がいのある方からメールが入ってきました。
詳しいことは知りませんが、音声に変換してメールを読んだり書いたりしておられるようで、少々の漢字誤変換はあるものの、ほぼ普通のやりとりができます。すごいなあ、といつも感心してしまいます。
さて、チャーシューメンを食べ終わって向かった県立芸術劇場の入口には、大きく「盲人達」と書いたポスターが貼られていました。これから観ようとする前衛演劇の題名です。童話劇「青い鳥」で知られるフランスの作家メーテルリンクの書いた戯曲で、それを友人の演出家が大胆に再構成して上演するというものです。
「盲人」という言葉もあまり耳にしなくなりました。ほとんど「視覚障がい者」とか「目の不自由な人」とかに言いかえられています。
「盲人」は差別用語とされているのではないか、それはまずいのでないかと心配になってネットで調べたら、いまのところ差別用語とまではされていないが、限りなくクロに近いグレーという位置づけのようです。ぎりぎりセーフといったところでしょうか。そうでなくては県立の施設での上演は難しかったのではなないかと勝手に推測しました。「めくらたち」だったら完全にアウトとなったでしょうが、この戯曲の過去の日本語訳でそのように訳したものはなかったようです。
いま上に「障がい者」と書きました。「障害者」の害の字は適当でないから「障碍者」と表記すべきだという意見もあり、無難な「障がい者」にしておこうとか、行政や報道機関が調査をしたり議論したりしていますが、これも結論は出ていないようです。
何が差別用語になるのかという議論は極めてセンシティブです。人によって受け止め方に大きな違いもあるようです。それぞれの用語の是非はともかく、広報活動を進める上では、「差別用語」と疑われる言い回しには十二分に注意すべきであるのは間違いありません。

語感の問題

日常、料理はいたしません。例外はカミさんが入院したとき等々で、そのようなときは、「参ったなあ」などとはツユ思わず、あれをつくってみようか、こうやったらうまいのではないかと、やる気がもりもりと盛り上がります。
料理の基礎知識は皆無と言えます。
子どもの頃、母親が不在のときに味噌汁を作ろうと試みたことがあります。そのとき、出汁というものの存在を知りませんでした。水に味噌と具を入れて煮立たせれば味噌汁ができ上がるものと思っていました。味見をしたら、塩辛いばかりでうまくない。即席だしの素などという便利なものが普及していなかった時代です。戸棚を探したら固形のコンソメスープが見つかりました。
仕事から帰った父親がその味噌汁を飲んで、なんとも妙な顔をしましたが、決して不味くはなかったといまも思っています。
先日、テレビの料理番組を何気なく見ていたら、その講師は、醤油やら油やら薬味やら数種類の香辛料やらを順番に加えるのではなく、あらかじめ小さいステンレスボウルにそれら一式を混ぜ合わせておき、頃合いを見て一気に加えるというやり方をしていました。それはよいとして、その混ぜ合わせておいたボウルの中身を「調味液」と呼んでいたのが気になりました。「調味液」、「調味液」と何度も耳にするうちに、その「調味液」なるものが、なにやら人工的な身体によろしくない薬品のような気がしてきたのです。「調味料」はよくて、なぜ「調味液」はいけないのか、と反論されると答えようがありませんが、これは語感の問題です。
語感と言えば、近頃都で流行る「人流」なる言葉。なんとも語感が悪すぎる。人の流れを科学的に分析する科学的スタンスは結構ですが、流れる人間どもの中の一人としてはなんとも居心地が悪い。「物流」はよくて、なぜ「人流」はいけないのか。語感の問題であるとともに、人を人とも思わぬ人たちの存在に危険な臭いがするからです。

リーダーのコミュニケーション力

このところ、ブログを書く気がさっぱり起こらず、ずいぶんと間が空いてしまいました。
言いたいことは数々あるものの、それらのほとんどが何かしらパンデミックに対する政策から導かれたものなので、どれもこれもメディアやネットで誰かが指摘していること。それをあえてブログに書くことはないなあ、と書く気が萎えてしまうのです。
その一つに、リーダーのコミュニケーション力についての議論があって、広報のプロたちの間でもささやかな炎上が起こっていることを発見しました。
言うまでもなく現在の国や地方政府のリーダーたちのコミュニケーション力への懸念なのですが、上手いとか下手とかいう以前に、どうしてコミュニケーション能力の低い人物がトップにまで上り詰められたのか、ということの方に大いに興味をそそられます。
20年ほど前、日本企業のリーダーたちのコミュニケーション能力の低さが大きな話題になっていました。アップル社のジョブス氏などのプレゼンテーション力に比べて、わが国の企業トップのプレゼンは・・・といった文脈が多かったようです。
ところが現在、そのような指摘はほとんど見られません。な~んでだろ?
日本企業のリーダーのコミュニケーション力は、顕著とは言えないまでも、20年前に比べれば進歩したことは間違いないようです。少なくとも投資家たちと渡り合えるだけのコミュニケーション能力を持っていなくてはベンチャーを含め企業のリーダーにはなり得ない、という環境が日本でも定着したのではないかと推測します。
翻って政治の世界はどうか。企業のリーダーがさらされるような厳しい環境とは異なる旧態依然のぬくぬくした環境の中で、ヒソヒソ話だけでリーダーになれる仕組みがいままで温存されてきたのではないか。それでいいのか、とCOVID-19のパンデミックの中で疑問が浮かび上がってきたのでした。

どら焼きの皮

大手カステラメーカーの工場に直売所が付設されていることを、知人から教えてもらいました。そこではカステラの切り落としを売っているとのこと。目が輝きました(鏡で確認してはいませんが)。
カステラは子どもの頃からの大好物。とりわけその端っこや底のザラメが好みです。切り落としを見逃すことはできません。さっそく出かけて来ました。
お目当てのカステラ切り落としを購入したついでに、直売所の品々を探索していたら、「どら焼きの皮」という商品を発見していまいました。餡なしの皮だけです。瞬間にして、これこそが私のアンメットニーズであったことに気づきました。
どら焼きも店によって満足度が大きく異なります。餡の甘さや風味も重要な構成要素ではありますが、私においては皮のふっくら感や柔らかさ、弾力、舌の感触などの方をより重視しております。
迷わず買って来た「皮だけ」を食べてみると、これは感動でした。
ここのどら焼きは、大きな字では書けませんが、あえて買って食べたいとは思っていませんでした。しかしこの「皮だけ」はうまい。絶品です。
餡が入っているとソコソコ。餡がないと絶品。これはどうしたわけでしょうか。
その上、大発見までしてしまったのです。それは、
「どら焼きの皮はパンケーキである」
という真理であります。それに気づいた人はこれまでおりません(たぶん)。
つまり「どら焼きとは二枚のパンケーキで餡を挟んだ菓子のことである」という新定義がここに生まれたことになります。
ものを別の視点から見ると、まったく異なるもの見えて来る。まさにどら焼きをリフレーミングしてしまったのであります。

どうするんだよ、日本

2030年にはガソリン車の販売を禁止するのだとか。その頃には町中を走っている純粋のガソリン車やディーゼル車は半分以下になっているとも予想もされています。
おっと待ってくれよ。それは結構だが、本当にできるのかよ。
自宅に車庫があるのなら、コンセントから夜中に充電することもできます。しかし、そうは行かない車の方が日本には多いのではないでしょうか(どこかの総理大臣の口ぐせになっちゃった)。
写真は、ある大規模団地の駐車場です。集合住宅では自宅から車まで電線を引き回すことは不可能です。ガソリン車やハイブリッド車なら空き地を舗装するだけで駐車場とすることができましたが、電気自動車(EV)となると充電設備を設けなければなりません。
2018年にパリに行ったとき、道路ワキの駐車場にもすでに充電用のポールが立っているのを発見して驚きましたが、これからの10年間で日本津々浦々の駐車場に充電設備を整備することなど可能なのでしょうか。とても信じられません。
あるいは、EVへの全面切り替えではなくて、ハイブリッド車でお茶を濁すということなのでしょうか。それでは世界の流れにまたまた遅れてしまうような気がします。
どうすんだよ、日本。

あっ、なくなっちゃった

閉店してしまった小料理屋

ココランチ」という、半蔵門・麹町界隈のランチの店を紹介するページを会社のサイト内で10年以上運営しています。そこがいまピンチです。
半蔵門・麹町界隈でも古くからある名店がある日突然閉店してしまったり(写真のように)、別の新しい店に入れ替わっていたり、それが激しいのです。
言うまでもなく、新型コロナが流行してから2度の緊急事態宣言とやらを経て、飲食店は苦境に立たされています。夜の営業が制限されるばかりでなく、ランチの客も減っています。出勤者を7割減らせと霞ヶ関方面から大声で叫ばれているのですから、そこからほど近い半蔵門あたりが影響を受けるのも当然でしょう。タクシードライバーの客が多いラーメン屋の話では、タクシーも減車しているのでめっきり客が減ったそうです。
サイトで世の中に公開している以上、存在しない店をいつまでも掲載していてはフェイクニュースになってしまいます。そこは丹念に調査をして正しい情報にアップデートしなければなりません。ところがテレワークでオフィスへ出勤する回数が極端に減っています。ランチをとる機会も減っているので実地調査もままなりません。
「あっ、なくなっちゃた」と閉店が確認されれば紹介を削除しますが、その店舗で新たに開業した店があっても、それを代わりに紹介するというわけにも行きません。いつまた閉店してしまうか、いま状況ではなはだ覚束ないのです。そんなわけで掲載するお店がどんどん減ってしまいました。
コロナ禍はこんなところまで影響しています。幸い「ココランチ」の社会的インパクトはほぼゼロですけど。

めでたさも中くらいなり

今年の年賀状です。「謹賀新年」とか「賀正」とか「明けましておめでとうございます」といった新年を賀する文言をつかう気分ではありません。
COVID-19によるパンデミックの真っ最中に、めでたい、めでたいと言い合うことができるのか? 今年のような状況下でなくても、年賀状を書くたびに「何がめでたいのか?」という違和感を抱き続けてきたことでもありますし・・・。
年が改まれば昨年のことはみ~んな水に流してしまえる、ということなら確かにめでたい。しかし、そういうわけにも行きません。ずう~とつながっています。
去年今年貫く棒の如きもの
というこの時期にしばしば引用される虚子の句のように、貫かれているんですね、去年から今年にかけて。もっとも虚子の句の言わんとするところはもっと意志的なものでしょうけど。
それよりは、
めでたさも中くらいなりおらが春
という一茶の句の方が、今年にはよりふさわしいようにも思えます。

その呼び方は?


「ポツンと一軒家」というテレビ朝日系の番組を毎週録画して、時間があるときに見ています。限界集落化が進む田舎の、さらにその奥に孤立している家屋の中で、どんな人たちがどのような生活をしているのか、のぞき見趣味のようではありますが素朴に興味をひかれます。視聴率もよいとのことです。
ではありますが、気になることもあります。
一軒家の捜索に向かう若いディレクターたちが、年齢のいった男性に対して「お父さん」と呼びかけ、女性には「お母さん」と呼びかける。それが少々鼻につくようになってきました。
親しげは雰囲気を出そうという演出かもしれませんが、親でもないのに「お父さん」、「お母さん」と呼びかけられる謂われはありません。では、他にどんな呼びかけの言葉があるのか。ないんですよね、日本語には。「おじさん!」ではおかしいし、「ミスター!」では長嶋さんになってしまいます。結局「あのう~」しかなさそうなのです。
と書きながら思い出したのは、イヌやネコの呼び方です。以前、犬猫病院の獣医さんと話していたら、患者のイヌやネコ(患犬、患猫でしょうか)たちを「あの子たち」と呼ぶのが気になって他の呼び方はないのかと尋ねたら、ないのだそうです。ペットを飼っている人たちもみな「うちの子が」なんて言っています。これも一度気になったら、気になってしかたがありません。ちなみに、私はイヌもネコも飼ったことがありません。家にはaiboが一匹(一台?)おりますが。

実用性の問題について

役所からハンコをなくすのだとか。これについては賛成です。
どこかの役所で手続きをしようとしたら、書類に印を押すのを忘れていました。三文判も持ってきていません。サインや拇印ではだめだと言われて、一瞬途方にくれたら、窓口の人が言いました。
「そこを出たところの売店で認印を売っていますよ」。
何のためのハンコなのか、ますます途方にくれました。

ハンコはしかし、役所の非効率性のほんの一部分でしかありません。何故必要なのか、必要性がさっぱりわからない書類を何種類も添付しなければならない諸々の手続きの方を、ハンコより先に簡素化してほしい。そこに時間と労力とコストがかかり過ぎます。押印をなくすだけで達成感を演出し、行政改革はオシマイということにならないでしょうね。ちょっと怪しい。

こんなにハンコが話題になろうとはつゆ知らず、この春から篆刻を再開しました。書や水墨画などに押されているあの落款印を趣味で彫ろうというものです。20年ほど前にもしばらくやっていたので、道具は一通り揃っています。
COVID-19の流行で外出もままならない。7月は長雨で8月は猛暑。エアコンを利かせた部屋でできる。これは誠に家籠もり向きの趣味であることを再認識しました。と同時に、20年の時間の隔たりも感じました。一つは視力が落ちたこと。運転免許も裸眼で更新していますが、細かい印面を見つめると乱視がかなり厳しい。ルーペが必須となりました。もう一つはネットで多くの情報が得られるようになったこと。道具や材料はネットで揃いますし、プロの篆刻家が毎日YouTubeで篆刻の知識や技術を紹介しています。実演が見られますから、とても参考になります。
役所のハンコは実用の世界のものながら、よく考えたらその実用性がないじゃないかと指摘を受けたわけですが、落款印の方は趣味、遊び、芸術の世界のもので、もともと実用性など求められていなかったので、これからも生きながらえるのではないかと思います。
実用性を目指す学問と実用性を目指さない学問。どちらが長く生き残って行くのか・・・似てませんか。

いま読むべき本でした

いまごろ読んでいるのか、と呆れられそうです。
ジョン・ダワー著「敗北を抱きしめて」
奥付を見ると2001年3月の初版です(その後、増補版が出版されています)。20年間、自宅の本棚に眠っていました。それを読み出したのは、まさに新型コロナのおかげです。自宅に籠もる時間が長くなったので、手もとに読むべき本がなくなってしまいました。そこで本棚を漁って、未読のこの本を引っ張り出しました。
まさにいま読むべき本でした。戦後の占領期の混乱した政策が現在の政治や統治システムのおかしさ、不合理さ、居心地の悪さに直結していることがよく理解できました。
いまの政治家にもぜひ読んでほしい、あるいは読み返してほしいとつくづく思いました。しかし、どう見ても今日権力を握っている人たちが読むとは思えない本でもあります。どこかの知事が多少上から目線で発言したように、それだけの「教養」はお持ちでないのかもしれません。
なお、この翻訳はとてもすばらしい。まったく翻訳であることを感じさせないばかりか、ソースの日本語文献を丹念に参照しています。それにもすっかり感銘を受けました。