式が嫌いな次第で

冬季オリンピックが昨夜で閉幕しました。閉会式の中継は見ないで寝てしまいました。開会式も見ていません。昨夏のオリンピックの開会式も、事前にもろもろの問題が報じられていましたので、傍目八目で少々見たものの、やはり途中で寝に就いてしまいました。
競技は楽しませてもらいましたが、セレモニーにはどうにも興味がわきません。面白い趣向が登場するかもしれませんが、それがどうした?というカンジ。感性が鈍いのだと言われれば、その通り。セレモニーへの感性が薄いのです。
小学生のときから入学式だの卒業式だのにはうんざりしていました。校長の挨拶というか訓示というか、あんなものまるで聞いていなかったし覚えていません。来賓の地方議員やPTA会長の挨拶においておや。なぜあんなことが続いているのでしょう。大学の卒業式にも出席しませんでした。
先日、マンション管理組合の重要事項説明会というものが開催されました。1000人以上いると思われる住人のうち、出席者は6名のみ。管理業者の社員さんの説明と若干の質疑のみで終わりましたが、出席者の一人が「組合長がこの場に立ち会っているのだから、挨拶の一つもしたらよかったのに」と言っていました。そういう挨拶好きもいるんですね。ま、「けじめ」がほしいということかもしれません。その気持もわからないではありませんが。
さて、記者発表や記者会見をセレモニーの一種と思い込んでいる会社があるようで、これは大きな誤解だと思います。会社にとって記者会見の開催は一大事であることは間違いありませんが、記者会見は情報提供の場であると認識した方がよいと考えます。記者が会見に出席するのは、情報がほしいからであって、セレモニーに出席する栄誉を得たいと考えているわけではありません。だからエライ人の単なる「ご挨拶」は不要です。エライ人が登壇する以上は、報道に足る情報を提供しなければならないのが記者会見というものです。

耳でも楽しめるスポーツ

視覚障碍のある友人からメールをいただきました。
「なんだかんだ言っても、オリンピックがテレビを占拠しています。チラッとその気にさせられる種目がないではありませんが(女子体操とか)、見れども見えずなので見ません。ただ、ワイドショーかなにかで、兄妹が同時に柔道の金メダルを取ったとか、優勝したソフトボールのエースが上野投手なんて聞くとビックリ仰天しました」

おや、ラジオではオリンピック中継をしていないのかと、新聞のラジオ欄を確認したら、この日は競泳、体操、卓球、陸上競技などの実況中継が予定されていました。
そこで思い出したのはプロ野球中継です。
1960年代からつい10年ほど前まで、ほとんどの民放AMラジオは毎晩巨人戦を実況放送していました。タクシーに乗ると、必ずと言っていいほど運転手さんがそれを聞いていました。プロ野球は、耳で聞いても楽しめるスポーツなんです。
オリンピック競技の中にも、ラジオの実況を聞くだけで楽しめるものがあります。日本中が沸いたという「前畑がんばれ」はラジオの実況でした。
一方で、実況を聞いても何がなんだかわからない競技もありそうです。スケートボードやサーフィンなどの新しい競技がその典型でしょう。
その違いは何かと考えてみたのですが、2つの条件を思いつきました。
一つは、視聴者がその競技をよく知っていて、実況アナウンスを聞くだけで一つひとつのプレーやシーンを思い浮かべることができること。
「ピッチャー大谷、セットポジションから、投げました。ストライク。156キロの直球が内角低めに決まりました」なんてね。
もう一つは、実況のアナウンス技術が歴史の積み重ねの中で磨き上げられていること。競馬中継もその一つでしょう。杉本清アナウンサーはよかったなあ。80歳を超えても地方競馬の実況をやっておられた方もあるとか。
そこへゆくと、スケートボードなどはテレビで見ていても何がなんだかわからない。そもそもルールがわからない上に、アナウンサーが話す用語や表現が耳慣れない。これをラジオで聞きてもわからないでしょう。
そう言えば、パラリンピックで行われるブラインドサッカーやゴールボールなどは、ラジオで中継されるのでしょうか。これら視覚障碍者のための競技は、ぜひラジオ中継すべきだと思いますが、その放送を聞いてもわかるかなあ。これは難しい問題ですね。

語感の問題

日常、料理はいたしません。例外はカミさんが入院したとき等々で、そのようなときは、「参ったなあ」などとはツユ思わず、あれをつくってみようか、こうやったらうまいのではないかと、やる気がもりもりと盛り上がります。
料理の基礎知識は皆無と言えます。
子どもの頃、母親が不在のときに味噌汁を作ろうと試みたことがあります。そのとき、出汁というものの存在を知りませんでした。水に味噌と具を入れて煮立たせれば味噌汁ができ上がるものと思っていました。味見をしたら、塩辛いばかりでうまくない。即席だしの素などという便利なものが普及していなかった時代です。戸棚を探したら固形のコンソメスープが見つかりました。
仕事から帰った父親がその味噌汁を飲んで、なんとも妙な顔をしましたが、決して不味くはなかったといまも思っています。
先日、テレビの料理番組を何気なく見ていたら、その講師は、醤油やら油やら薬味やら数種類の香辛料やらを順番に加えるのではなく、あらかじめ小さいステンレスボウルにそれら一式を混ぜ合わせておき、頃合いを見て一気に加えるというやり方をしていました。それはよいとして、その混ぜ合わせておいたボウルの中身を「調味液」と呼んでいたのが気になりました。「調味液」、「調味液」と何度も耳にするうちに、その「調味液」なるものが、なにやら人工的な身体によろしくない薬品のような気がしてきたのです。「調味料」はよくて、なぜ「調味液」はいけないのか、と反論されると答えようがありませんが、これは語感の問題です。
語感と言えば、近頃都で流行る「人流」なる言葉。なんとも語感が悪すぎる。人の流れを科学的に分析する科学的スタンスは結構ですが、流れる人間どもの中の一人としてはなんとも居心地が悪い。「物流」はよくて、なぜ「人流」はいけないのか。語感の問題であるとともに、人を人とも思わぬ人たちの存在に危険な臭いがするからです。

リーダーのコミュニケーション力

このところ、ブログを書く気がさっぱり起こらず、ずいぶんと間が空いてしまいました。
言いたいことは数々あるものの、それらのほとんどが何かしらパンデミックに対する政策から導かれたものなので、どれもこれもメディアやネットで誰かが指摘していること。それをあえてブログに書くことはないなあ、と書く気が萎えてしまうのです。
その一つに、リーダーのコミュニケーション力についての議論があって、広報のプロたちの間でもささやかな炎上が起こっていることを発見しました。
言うまでもなく現在の国や地方政府のリーダーたちのコミュニケーション力への懸念なのですが、上手いとか下手とかいう以前に、どうしてコミュニケーション能力の低い人物がトップにまで上り詰められたのか、ということの方に大いに興味をそそられます。
20年ほど前、日本企業のリーダーたちのコミュニケーション能力の低さが大きな話題になっていました。アップル社のジョブス氏などのプレゼンテーション力に比べて、わが国の企業トップのプレゼンは・・・といった文脈が多かったようです。
ところが現在、そのような指摘はほとんど見られません。な~んでだろ?
日本企業のリーダーのコミュニケーション力は、顕著とは言えないまでも、20年前に比べれば進歩したことは間違いないようです。少なくとも投資家たちと渡り合えるだけのコミュニケーション能力を持っていなくてはベンチャーを含め企業のリーダーにはなり得ない、という環境が日本でも定着したのではないかと推測します。
翻って政治の世界はどうか。企業のリーダーがさらされるような厳しい環境とは異なる旧態依然のぬくぬくした環境の中で、ヒソヒソ話だけでリーダーになれる仕組みがいままで温存されてきたのではないか。それでいいのか、とCOVID-19のパンデミックの中で疑問が浮かび上がってきたのでした。

投書欄の落日

学生時代の友人から「謹んでお知らせします」というメールをもらいました。「本日の新聞に下記の投稿が載りました」として、投書の内容がそのまま書かれていました。
いまの新聞の投書欄には高齢者と中学生や高校生からの投書が目立ちます。20代から50代の投書は少ない。読者層の高齢化を反映しているとも言えますが、働き盛りの人たちが自分の意見を発信したければ、TwitterをはじめInstagram、Facebook、YouTube、noteといったweb上のツールがたくさんあります。「発信弱者」とも言える人たちだけが、新聞の投書欄を利用しているとも考えられます。
かつて広報の担当者は、毎朝新聞記事をチェックするついでに、投書欄にもざっと目を通していました。一般の人たちの志向傾向をつかむのに有用と考えられていました。しかし、いま投書欄に目を通す広報担当者はどれほどいるでしょうか。それよりもネット検索をかける方がよほど有用です。
新聞が掲載する投稿も、以前よりは尖った投書が少なくなり、無難な意見や身辺雑記が採用される傾向が強いように感じます。友人の投稿もまた、まあ誰でも考えているような無難な内容でありました。

ここまで来たか、監視社会

ある写真家のもとへ突然、国が運営するある公園の管理事務所からメールが届きました。
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この度、貴団体のイベントが某月某日に××公園で開催される予定について確認いたしました。
https://××××××(写真家が運営するサイトのURL)

このイベントは参加費が必要なようですが、××公園は某省が管理する国の施設でございますので、規定により園内で有料イベント等の営利行為は許可できないことになっております。
万が一、園内での営利行為が判明した場合は、中止をお願いせざるを得ませんのでご了承ください。今後は営利行為となるイベントの実施は固くお断りさせていただきたく、ご理解とご協力の程よろしくお願い申し上げます。

貴ホームページ、ツイッター、SNS等での××公園の有料イベント募集の記載につきましては、他の利用者の誤解を招きますので、既に開催されたものや今後のイベント募集含め削除いただけたら有り難く存じます。
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規則は規則ですから、その公園を使う以上は規則に従わざるを得ません。営利目的ならその公園を使えないということもわかりました。
しかし、この話を聞いて何か釈然としないものが残りました。
管理事務所は、写真家のホームページを見て、このような警告のメールを送ってきたわけですが、それはたまたまでしょうか。そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。営利目的で公園を利用している輩がいないか、管理事務所はすべてのサイトを常に検索しているのではないかとの疑念が生じます。もしかすると内閣調査局の協力を得て監視しているのかもしれません(ちょっと大袈裟かな?)。
怪しいヤツは事前に潰しておこうというわけですが、それは行政権による事前抑制あるいは事前検閲に通じる行為ではないでしょうか。法律家ではないので正確にはわからないのですが、公園内で営利行為が行われそうだと気づいたら、それが実行されているのを確認した上で注意を喚起するのが真っ当なやり方ではないかと思うのです。市民の楽しみの場である公園の管理事務所が秘かにこのような調査をしていることにも、少々薄ら寒い思いがいたします。

ボクはやっと認知症のことがわかった

私は原則として本はお薦めしないことにしています。関心や価値観は人さまざまですから。正直に言えば、他人から「面白いから」とか「ためになるから」などと言われるのは大迷惑です。なんの関心もない話題だったり、嫌いな著者だったりすることも少なくありません。義理で読んでいると、貴重な時間をこんな本のためにつぶされるのかと癪に障ることもあります。
ではありますが、この本は多くの高齢者やそのご家族には読む価値ありだと思いました。
「ボクはやっと認知症のことがわかった」KADOKAWA刊。
専門医が自らの専門とする疾患にかかる例はしばしば耳にします。認知症の第一人者である長谷川和夫先生もその例で、自分が認知症になってしまった。専門家と患者が合一してしまった。私たちが認知症を知る上でこれ以上の条件はありません。
「認知症になったからといって、人が急に変わるわけではない」という言葉には、専門家=患者であればこその説得力があります。むろん現実にはこの本に書かれているような美しい日常ばかりでないでしょう。憎しみや嫌悪が渦巻く修羅場もあるだろうとは思いますが・・・。
長谷川先生には一度だけお目にかかりました。PR誌の編集をしていた80年代、取材にうかがったかと思います。この本をまとめた読売新聞の猪熊律子さんにも、企業の広報担当者だったときに、一度だけ取材される側としてお会いしたことがあります。印象に残る記者さんでしたが、その後はコンタクトする機会はありませんでした。
それはともかく、かつて実際にお目にかかったお二人が組んでのよいお仕事だと思いました。

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出たい人より出したい人

最近はあまり目にしませんが、「出たい人より出したい人」という選挙の標語がありました。
報道関係の人たちがつくるある会で最近会長が交代しました。それまでの10年近くある男がその座に居座り続けました。ただの名誉職に過ぎませんが、それが彼の現在の職業を維持するために必要な肩書きだったのではないかと噂されていました。自分の所属する組織に有利となるような催しを強引に開いたりして会員の顰蹙を買っていましたが、そのような人物がなぜ長期間居座ることができたのかと言えば、会則で会長は立候補と決められていたからです。推薦人も必要ありません。理事会でナアナアで決めることになっています。名称だけは立派でも会員の老齢化が進み活気が失われつつある小さな会の会長など、よほど志のある人か、そこに利用価値を見出した人でなければなりたがりません。彼は後者だったようです。出たい人しか会長にならないという仕組みは、どうもいただけません。
現在の政治家さんにも志のある人はいるのでしょう(そう信じたい)けれども、日頃の言動や、やっていることなどを報道から知る限り、政治家になること、大臣や知事になること、あわよくば総理大臣になること、そしてそこからより多くの利益や名誉を得たいと思っている人たちの方がはるかに多いような気がします。
誰でも公職に立候補できるのは民主主義の基本ではありますが、同時に立候補という仕組み自体に、真の民主主義と矛盾する要素が含まれているのではないかとも思えてしまいます。だれか、そういうことを論じている人はいないかな。

早生まれですが、なにか?

この季節になると、早生まれの子には体力や学力のハンディキャップがあるか、というテーマの報道を目にするようになります。3月下旬生まれの身としては、少々興味を惹かれるのですが、たいていは差があるんだかないんだかわからない結論でお茶を濁されてしまいます。
では自分自身ではどうだったのか、とはるか昔を思い起こしてみると、どういうわけか子どもの頃にハンディキャップを意識した記憶がありません。そんなこと考えたこともありませんでした。
もっとも小学校1年生のときの算数の足算引き算競争では、いつもビリから2番目でした。常にビリだった田島君が早生まれであったかどうかは知りません。駆けっこも遅い方でした。運動会の徒競走では6年生にして初めて3着になりました。
それは確かにその後に影響を与えたようです。たとえば宴会のワリカンの計算。電卓もスマホも使える世の中ですから、やるハメになればやりますが、できれば他の方にお譲りしたい。苦手意識がそうさせます。スポーツは何をやっても上達しません。ゴルフを始めたときはなかなか100を切れませんでした。これも苦手意識が足をを引っ張っていたように感じます。
このようないくつかの事象はあるものの、社会に出てからはそんなことを意識したことはまったくありません。多くの報道と同様あいまいな結論になってしまいますが、それは大学受験で一年間のハンディキャップを精算してしまったからでもあります。

これは台本です

記者会見の想定問答集(Q&A)というものをこれまで何回書いて来たことか。企業に籍を置いていた頃は、記者会見や企業説明会のたびに毎回50~100近くの質問を想定し、それぞれの回答を書き上げていました。次に、関係部署に回覧して意見を聞いた上で修正を施し、最後に会見者自身が自分の言いたい内容を加筆修正して仕上げるするというプロセスです。
回答の書き方には2つの流派があるようです。回答事項を箇条書きにして、それを参考にしながら会見者が自分の言葉で発言する方法。もう一つは、回答者が読めばそのまま発言になるように、いわばセリフのように書く方法です。私は後者で作成していました。こちらの難しさは、できるだけ文章語ではなく語り言葉にするところにあります。それが原稿棒読み調を防止するのに役立ちます。もう一つは、発言者の日常の語り口調に合わせることです。発言者の好む言い回しなどを十分に把握しておかないとこれは不可能です。
広報コンサルタントとしては、回答を作成するのはクライアントサイドの仕事ですから、記者から出て来そうな質問を考えることが中心です。実際に9割ほど的中したことがありますが(エヘン)、これはクライアントサイドでは少々難しい作業となるようです。会社として答えにくい質問や発言者(社長や上級幹部)がいやがる質問は社内から出しにくいのです。そこに広報コンサルタントの存在意義があります。
さて、そこで先般29日の総理の記者会見です。
複数の報道によると、内閣記者会から質問をあらかじめ提出させて回答原稿を作成し、それを読んでおられたようです。その原稿は想定問答集ではありません。想定する必要がないのですから。これを日本語では台本と呼ぶのではないでしょうか。しかし、それを読む人を役者と呼んでは本物の役者さんに失礼になりそうです。