黄色いベスト

2018年4月、パリ、オルセイ美術館の前。まだ黄色いベストは着ていない

フランスの抗議運動の報道が日本では少なくなりましたが、実際はますます盛んなようです。そのデモの参加者が着用している黄色いベスト。あれはなかなかいいアイデアだと思います。デモで着用するのもアイデアではありますが、クルマに黄色いベストの搭載を義務づけたことの方です。
フランスでは、故障などでクルマを離れるときには、このベストを着用することが義務づけられていると聞きました。日本では三角の表示板を後方に置くことになっていますが、それを置きに行くのも、高速道路ならかなりコワイ思いをするでしょう。そのときに黄色いベストがあればちょっとは安心かな。そもそも最近は、新車を買っても発煙筒は車内に設置されていますが、三角表示板はついてきません。わざわざ購入する必要があります。
日本でも黄色いベストを義務づけたらどうでしょう。と、そう提案したいところですが、たぶん実現しないでしょうね。それによって大規模なデモが起きたら困ると、為政者たちはきっと考えるでしょうから。

屋上の楽園

すっかり関心の圏外に去ってしまった存在があります。私にはデパートの屋上もそれ。昔は小さな遊園地などがありましたが、いまの世の中にそんなものが残っているはずもなく、何があるのかわからないし用もないから足を向けることもない。そのうちにデパ屋のことなどすっかり忘れてしまいました。それがひょんなことから銀座のデパートの屋上へ上がることになったのでした。
そもそもエレベーターの「R」ボタンが作動しないデパートがあります。レストランのある最上階からさらに階段を上らないと屋上へ出られなかったりします。デパートとしても、屋上はできれば上がってほしくないスペースなのかもしれません。
まず訪れたのは銀座三越の屋上。半分はレストランになっていますが、もう半分は立入禁止の芝生の周りに短い遊歩道ができていてベンチもある。小さい子を遊ばせているお母さんがいました。そこで驚いたのは、神仏両方の祠があって社務所らしきものに係員が常駐していたことです。神や仏が機能している空間であるようです。もう一つ印象に残ったのは、あの和光の時計が見下ろせたことです。と言っても高い柵があって半分しか見えませんが、ちょっと非日常なビューを楽しむことができました。
次は松屋銀座。階段を上がったらゴルフ練習場の入口でした。一部のエレベーターでないと屋上には上がれないようです。開放されているスペースは小さく眺望もありませんが、ここにはお寺がありました。ガラス窓のウチソトに座れるスペースがあって、そこでコンビニ弁当を食べている人がいました。ここは穴場です。知る人ぞ知る隠れ家ランチスペースです。
最後は旧松坂屋のGINZA SIXです。高い、広い。全周にわたって遊歩道があって、銀座を上から見下ろせます。スカイツリーも東京タワーも見えます。屋上庭園もよく手入れされているし、中央の広場もな~んにもなく広々していて、天気がよければ異次元感のある快適な空間です。まだ外国人観光客には知られていないようです。銀座を歩いていて疲れたら、ここで一休みがお薦めです。

T先生へ

ご入院、手術とうかがいました。いろいろとご心配でしょうが、現代医学は進んでおりますから、きっと手術は成功するだろうと思います。
周囲にも何人か同じ病気を患った者がおりますが、共通しているのはみなヘビースモーカーであることです。聞いた話では、タバコを吸うと唾液に有害物質が混じり、長年の間に食道を侵すのだとか。こわい話です。きっと病院の先生からも「これを機会に禁煙してください」と強く指導を受けられたのではないかと思います。それに対してどのようにお考えになったのか、少々気になっております。やはりタバコがいけなかったのだなあ、と心底気づかれたのでしょうか。いや、たまたまだよ、タバコを吸っていても罹らない人も多いじゃないかとお考えになったのか。
肉親や知人のヘビースモーカーたちは、ほかにも肺がん、膵臓がん、胆嚢がんなどにかかって死んで行きました。タバコの害は専門家の指摘を待つまでまでもなく、実感しております。ご自身がご病気になられた上は、その「実感」ははるかに現実的なものではないかと考えるのですが、いかがでしょう。
ご病気になる前のことですが、居酒屋などが全面禁煙になったら「俺はどうやって生きていけばいいのか」とおっしゃっておられたそうですが、これからどうやって生きて行かれるおつもりですか。
ご尽力いただいた健康増進法改正案はずいぶん抜け穴だらけです。このままでよいのかどうか、お元気になられましたら改めてご見解をうかがいたいところです。
末筆ながら、一日も早いご回復をお祈り申し上げます。

まなじりを決する必要はなくなった?

今年の5月から元号が変わるそうですが、昭和が平成に変わったときほど、元号不要論がマスコミに登場しないことに少し驚いています。
では、自分自身は過去の出来事を元号で記憶しているのか西暦で記憶しているのか、と考えてみました。
生まれた年は昭和で覚えていましたが、いつしか西暦の方が先に浮かぶようになりました。ネットで申し込みなどをするときに西暦での記入を求められることが多くなったことが影響していると思います。
祖父の生まれ年は元号ですが、父の生年は元号と西暦が同時に浮かびます。明治33年つまり1900年という区切りのよい年だからです。母の生年は、父との年齢差11年を足すことで1911年と計算できますが、大正に変わる前年と記憶してきました。明治44年です。
小学校に入学した年は昭和で記憶しています。大学を卒業した年は西暦です。就職した会社が外資系だったからかもしれません。転職した年も西暦です。
大病が見つかった年は暦年ではなく年齢で覚えていますが、その前年に西暦2000年の大騒ぎがあって、1月2日の朝、お屠蘇に酔っ払ったまま対応のために出社しました。あの時点ではその後の病気を知らなかったのだなあ、と感慨にふけることがあります。
会社をやめてココノッツを立ち上げた年は2008年と西暦で覚えているので、平成何年だったか咄嗟には思い出せません。
振り返ってみると、近年になればなるほど西暦で記憶している事柄が多いような気がします。平成も30年になりますが、生まれたときから昭和が身体にしみ込んでいるので、一瞬戸惑うのです。昭和の年に25を加えれば容易に西暦に転換できましたが、平成の年から11を引くと西暦になることは、いまさらながら先ほど調べて知りました。前世紀なら平成の年号に1988を足すことで西暦に転換できます。そんなことをする人はまずいないでしょう。
日常生活はすでに西暦を中心に動いていて、元号はいわば文学的な存在と言えるかもしれません。伝統だから元号があってもいいよね、とそんな感じでしょうか。だからまなじり決して元号の存続を論じることも少なくなってきたのか、とかんぐっております。

主客転倒

先日、ある県が主催するセミナーに参加してみました。
数日前に発症したふくらはぎの肉離れのために、足を引きずり引きずりビルの最上階の会場に到達したときは、すでに県知事のご挨拶が始まっていました。
ほぼ満員。係の職員さんに案内されてなんとか空席に滑り込みました。狭い椅子の上でカバン、コート、何種類ものレジメ、重い参考資料などをさばくのに四苦八苦してようやく前を向いたら、知事のご挨拶が終わりました。
落ち着いて周囲を見回しましたが、何か違和感があるんです。案内された席は中央よりやや後。テーブルはありません。ところが中央より前の席にはテーブルがある。しかも名札が立っています。そこに関係団体や県下市町村の名称が書かれています。報道席もあります。はは~ん。そこですべてを理解しました。
セミナーの目的は、広く産業界の人たちに県の施策を聞いてもらうところにありました。ところが招待された産業界の人たちが後の狭い席で、県の関係者が前のテーブル席。よくあるヤツです。主客転倒。それに気づかぬのか気がつかない振りをしているのか・・・。
セミナーを開催することによる真の効果を求めるよりも、セミナーを開催したという実績の方が県の担当者には大切なのだ、とここで断言してしまいましょう。こういうことがお役所のイベントでは多すぎます。私は員数合わせの一人として招待されただけですから(これもお役所的形式主義の一つです)どうでもよいのですが、県民の税金を使ってのイベントがこれではねえ。

紅花墨

「紅花墨」(別名「お花墨」)という墨を覚えていますか? 日本の墨のスタンダード。小学校で初めて習字を習うとき、お習字セットに入っていたかもしれません。特徴的なデザインです。
ところがこのデザインは意匠登録されておらず、「紅花墨」という商品名も商標登録されていません。だからどこのメーカーでも同じ商品名の似たデザインの墨をつくることができる、ということを奈良の老舗墨屋である古梅園の店員さんから教えてもらいました。そこの何代目かがオリジナルをつくった当時は、意匠登録や商標登録をするような時代ではなかったと説明を受けました。江戸時代の話のようです。
お習字セットに入っていた「紅花墨」は、だから古梅園のオリジナル品でなかったかもしれません。その可能性が高い。しかも、どこの「紅花墨」にもいくつかの等級があり、小学生用は最低ランクのものだっただろうと想像がつきます。
上の写真の中央が現在の古梅園製の紅花墨。右は日本で最も有名な書道具・香の老舗の製品(品質検査ではねられたキズ墨なので商品名の部分に色が入っていません)。左はどこの製品かわからない使い古した昔々の「紅花墨」。
左の古墨は論外として、中央と右については一流の書家ならともかく、素人には磨り心地や墨の色などの違いはわかりません。ところが、上のような話を聞かされた後では、オリジナルの方がどことなくよいような気がします。
これはブランド論の初歩の初歩。当たり前過ぎることではありますが、実感として再認識したのでありました。

「批判」は疲れる

中小企業に勤める40代の会社員が言いました。
「最近、朝日新聞とかサンデーモーニングとか見るのやんなっちゃった。もうどうでもいいような気がして」
若い年齢層の保守化が指摘されています。“ここにもいたか”と思ったのですが、一方で“わかる気もするなあ”とも感じたのでした。
私は複数のTwitterアカウントを持っています。世の中の生の動向を知ろうと、それぞれテーマを変えて読んでいます。その一つに、現政権に批判的な学者やコラムニストや芸人たちを中心にフォローしているものがあります。毎日寝る前にそれをチェックしていますが、読んでいると何となく気伏せになってくる。疲れるような気分を感じます。
議論というものは本質的に緊張状態を作り出します。とくに批判は緊張状態を高めます。その正邪に関わらず、批判的な言論を読んでいるだけで、無意識に緊張するようです。
たとえばどんな提案にも否定から入る上司っていますね。こういう人と話すときは緊張します。また、異論ばかり唱える部下と対するときもそれなりに緊張します。そんな職場では常に緊張状態が起こります。こちらに闘志があるうちは面白いですが、疲れてくるとそこから逃げ出したくなる。そのうち「もうどうでもいいよ」と妥協したくなります。
現政権側にでたらめなことが多くても野党支持者が一向に増えないのは、こういう心理も一因ではないか、と思いつきました。批判勢力が批判すればするほど、それを聞いている人たちは心理的に疲れてしまう。
40代会社員も、安月給での長時間労働で疲弊しています。新聞やテレビでこれ以上疲弊させられてはたまらない、という意識が働いているのかもしれません。何事にも「どうぞどうぞ」と言っている方が世の中丸く収まって平和です。見たくないものは見ない方が気分は穏やかです。
1970年代、学生の反体制運動が盛り上がっていた頃、「私、何も壊したくないんです」と言い放った女子学生がいました。その気持がいまになって少し理解できる気がします。それでいいとは思いませんが。

神様仏様、なぜ写真がお嫌いなのですか?

飛鳥大仏
有名な神社仏閣ではたいていご神体やご本尊を撮影禁止にしています。あれはなぜでしょう?とネットで検索してみましたが、どうにも腑に落ちません。
信仰の対象にカメラを向けるとは何事ぞ、ということなら理屈もへったくれもありません。その神社やお寺のお考えなのですから。
しかし、そこまで考えているのかなあ、というのが素朴な疑問です。
仏像や美術品がフラッシュ光を浴びると褪色が進むからという説もあるようですが、明確に証明されているんだかいないんだか。ネットではよくわかりませんでした。フラッシュが問題なら、「撮影禁止」ではなくて「ストロボ禁止」にすればよさそうなものです。神社には仏像のようなものがありませんから、これは理由になりにくい。ご神体が鏡ならフラッシュなど跳ね返してしまうでしょう。
写真を撮る人が多いと人の流れが滞るから、というのも理由に挙げられそうですが、さびれたお宮さんでも禁止しているところがあります。ルーブル美術館では押し合いへし合いで観光客がモナリザを撮影しています。
著作権はとうの昔に切れているはずですが、ウチの所有物の写真を勝手に商業印刷物に掲載されてはたまらん。その際には掲載料をいただきたい、ということはありそうです。著作権法で「専ら美術の著作物の複製物の販売を目的として複製し、又はその複製物を販売する場合」は保護されることになっています。が、そういう事例を発見したらその都度個別に対応する、で十分なようにも思います。
繰り返しになりますが、撮影禁止に科学的な根拠はかなり希薄なのではないか、と強く疑っております。
上の写真は、明日香村にある飛鳥寺の飛鳥大仏です。日本最古にして1400年間ここに座ったまま動いていない唯一の仏像だそうです。国の重要文化財でもありますが、どうぞ写真を撮ってくださいと言われました。その理由は・・・伺うのを忘れました。残念。

公共利益が個人利益を上回るとき

カルロス・ゴーン氏の公私混同ぶりが連日これでもかこれでもかと報じられています。それらが真実だとすれば、そのスケールの大きさには驚くばかりです。しかし、企業経営者によるちっぽけなスケールの公私混同なら日本中いたるところで見られます。
ゴーン氏は豪華な家族旅行の費用まで日産に出させていたそうですが、海外子会社へ出張するたびに夫婦同伴で出かけるサラリーマン社長もいます。海外でのレセプションには夫婦同伴が当たり前であるとの理屈ですが、一国の元首や首相ではあるまいし・・・。その一方で社員の海外出張は厳しく制限したりします。
どうして周囲の役員や幹部がゴーン氏の公私混同に見て見ぬふりをしていたのか、と批判されています。批判は当然ですが、長年会社員生活をしてきた者にはわからぬでもありません。比較的小さな公私混同なら、投資家や企業を含む「公共の利益」と組織人としての「自己利益」を天秤にかけて自己利益を優先する、つまり見て見ぬふりをする人が多いでしょう。しかし、だんだんと不正のスケールが大きくなると、企業の経営に影響を及ぼしかねない。企業の存続が覚束なくなってしまえば、個人の利益も危うくなってしまいます。自己利益より公共利益を優先せざるを得ない事態となります。そこに至って、そこまで封印してきた個人の倫理観もにわかに頭をもたげてきたりして、突然カタストロフィが起きてしまいます。
報道を見ていると、今回の事件がそんなふうに見えてきました。