恥ずかしながら引っかかってしまいました。クレジットを使って詐欺サイトへ商品を発注してしまったのです。
休日にたまたまサングラスを落として割ってしまいました。代りを購入するつもりでネットを探していたら、amazonで4割引きを見つけて発注しました。そこでやめておけばよかったのですが、さらに欲深くネットを探索したところ、驚くべき安さのサイトを見つけてしまったのです。あわててamazonをキャンセルして乗り換えたのですが、発注をかけたまさにその瞬間に「これは詐欺サイトだ!」と気がついたのでした。なんでもう3秒早く気がつかなかったのか、そこが不思議なところです。だからこそ詐欺屋さんの商売が成り立つのでしょう。
すぐにクレジット会社へ電話してカードを無効にしてもらいました。すると担当の方が「こちらで対応いたしますので、何もご心配はいりません」とやさしく言ってくださいました。詐欺被害に遭って心的トラウマを受けている人たちへの対応を十分に研究しているのでしょう。これは素晴らしい対応だと、すっかり感心してしまったのでした。
速いに越したことはありません
マナーがよ過ぎませんか?
日本人のマナーが最近悪くなっていると主に保守的な人たちが主張されているようですが、そんなことはない、戦前戦後の方が悪かったのだという記事をネットで見かけました。実感としてはそれが正しいと思います。
先日の土曜日、神楽坂の毘沙門様(善國寺)の境内でしばらく休んでいました。すると、参拝を終えた人たちがかなりの割合で山門で振り返り、一礼してから出て行きます。個人的な印象ではありますが、少なくとも昭和の後半にはこのような行動はあまり見られなかったような気がします。寺社の参道の真ん中を歩いてはいけない、などというのもありますが、おじいさん、おばあさんと一緒に参拝することも少なくなり、改めてネットで調べたら、そのような参拝方法が書かれていたのではないでしょうか。よいわるいの話ではありませんが、あまり世の中を堅苦しくするのもどんなものでしょうか。
奈良時代の破斯人
平城宮跡で出土した「天平神護元年」(765年)と記された木簡に、ペルシャ人の役人とみられる「破斯清通」という名前があったいうニュースがありました。
http://mainichi.jp/articles/20161006/k00/00e/040/212000c
私事ですが若いときに、異色の趣味を持つ医師を訪問してルポを書く仕事をしていました。その中に歴史に詳しいドクターがおられて、奈良時代にペルシャ人が日本に来ていたというお話をうかがいました。毎回、同じような切り口のルポでは面白くないので、続日本紀に書かれている李密翳という名のペルシャ人を主人公にした短い物語を書いて、冒頭の「つかみ」にすることにしました。
幸か不幸かそのルポが掲載されたPR誌も原稿も残っていませんので、いまさら読まれて恥ををかくことはないと思いますが、ニュースを見てしばし恐れを知らぬ若き日を思い出したのでありました。
カステラとおくんち
2年前まで勤めていた社員が福砂屋の「特製三五焼カステラ」をお土産に会社を訪ねてくれました。折しもこの7日から長崎のおくんち(長崎くんち)が始まります。
何年か前におくんちを見物に行きました。町内ごとに異なった傘鉾や曳物を持っているのは京都の祇園祭と似ています。ただ、その年に出演できる町内が決められていて、踊町と呼ばれるその順番は7年に一度しか巡って来ません。
メイン会場で見物していたら、ある演じ物にかわいいお稚児さんが登場しました。スピーカーで紹介されたそのお稚児さんは福砂屋さんのお孫さん(?)でした。こういう役割はやはり地元に貢献している老舗、名士の家に割り振られるものなんですね。
おくんち見物の記憶より、そのことが妙に印象に残っています。
ノーベル賞週間
大隅氏にノーベル賞が授与されることが発表されて、今年もノーベル賞週間が始まりました。日本人が受賞するとメディアはその話題ばかりになりますが、そんなことがいつまで続くのでしょうね。
湯川博士が1949年に受賞してからしばらく日本人の受賞がありませんでした。もう日本人は受賞できないのではないかとか、人種差別だといった悲観論が出ていたときに、16年ぶりに朝永博士が受賞しました。そのときは日本中が大喜び。そういうことならまあ理解できますが、すでに26人も受賞しているんですからね。日本人以外の受賞者に対しての冷淡さと比較すると、さらにその異常なはしゃぎぶりが際立ちます。受賞は素直に祝福するとしても、授賞式までの間の大騒ぎにはメディアの商業主義の臭いもして、いささか違和感を覚えますね。
できないヤツほどバタバタする
否定されるとねえ
お話をした後で、なんとなくよい気分になる場合とイヤな気分が残る場合がいますね。もちろん叱られたり、無理な注文を押しつけられたりすればイヤな気分になりますが、平和にお話したときの後味のようなものに違いがあります。
それにはさまざまな要素がからんでいると思うのですが、相手の方が受容的な受け答えをする方か否定的な受け答えをする方かという点が大きく影響しているように思います。日常の会話では意識することはありませんが、よくよく注意して観察していると、「へえ」とか「なるほどねえ」とか「そっかあ」と受ける人と、とっさに拒絶したり反論したり言い訳を言ったりする人がいることに気づきます。否定されることは、たとえ最後には受け入れられたとしても気分のよいものではありません。
肯定しているつもりで「いやねえ」などと相づちを打つ女性がおられますが、あれも感じのよいものではありません。「イヤよイヤよもヨイのうち」などと怪しからぬことを昔の人は言っていましたが、もちろんそれとは異なる意味でです。
ガバナンスの問題でしょう
生徒が先生?
たまたま再放送していたNHK「総合診療医ドクターG」という番組を見ました。患者の症状を劇中劇で見せて3人の研修医が診断を下し、それを経験豊富な医師が先生となって正しい診断へと導くというもの。少々専門的すぎるような気もしないではありませんが、一般の人たちにとってブラックボックス化している診断学を公開するという意義はあると思います。それはともかくとして、違和感を覚えたのは、先生役の医師が研修医に対して「○○先生」と呼ぶことです。医師免許を持っている同士は先生と呼ぶという長い業界の慣習によるものですが、生徒に向かって「先生」呼ぶのはやはりおかしい。
先日、読売新聞医療部におられた方のお話を聞く機会がありました。同紙の看板コラム「医療ルネッサンス」では、スタート以来、医師も患者さんも「さん」づけにしているとのこと。一つの見識だと思います。