読書感想文は事務文書である

小学校の夏休みの宿題として課される読書感想文の書き方マニュアルを配布した学校があるそうで、ネットの世界で話題になっています。
http://digital.asahi.com/articles/ASJ8W4RCMJ8WUTIL00M.html?iref=comtop_8_01
私も小学生のとき、作文には多少の自信がありましたが読書感想文は苦手でした。
子供心に思ったのは、課題図書を読んでも感動する部分が見つからないから、何を書いてよいかわからないということでした。本の選択が自由であっても、感想文を書かなければならないとなると、そう気ままに選ぶわけにも行きません。先生に感心してもらえるように書かなければならないという意識も強く働いて、かえって書く意欲をなくしたのでした。
文章には実務的な文章と文学的な文章に分けられます。プレスリリースは実務的な文章の典型です。こういう文章を書くにはマニュアルは有効であると思います。一方で、文学的な文章をマニュアルにしたがって書けと指導するのはナンセンスもよいところです。従来の作文教育は、どちらかと言うと後者に偏っていたように思います。しかし、仕事をする上では実務的な文章能力が求められますから、そちらの教育も必要不可欠です。
読書感想文の宿題というのは、事務文書作成のトレーニングだと思えばよいのかもしれません。必要な要素をすべて満たして、誰からも後ろ指を刺されない文章をつくりあげる。小学生のときにそのことに気づいていればコンクールで入賞できたのに、と思うと少し悔しいなあ。

はしか

はしかに感染した人が幕張メッセのコンサートに行ったとか、関西空港を利用していて空港職員が感染したとか、東京立川のアニメイベント会場にも行ったとかで都が注意を呼びかけています。
率直な感想を言えば、世の中変わりましたね。以前はあちこちにはしかの患者がいて、わざわざ感染するように患者の家へこどもを連れて行くなどという無茶もやっていました。
世の中が変わったのは、公衆衛生の改善のワクチンの普及によるもの。そのことにいま一度思いをはせる必要がありますね。

悪相

凶悪犯罪の容疑者として新聞などに掲載される顔写真はみな悪相をしています。メディアの方で意識的に悪辣な表情の写真を選んでいるのかもしれません。悪いヤツは凶悪な表情をしている時間が多く、そこを写真に撮られやすいということもあるでしょう。
ビジネスの世界でも、いかにも悪相をしている方がおられます。生まれつきだから仕方がない、とも言えますが、人間性に優れた方々は恐ろしい顔つきの中にも親しみやすい表情を必ず持っておられます。パーソナリティは顔に表れる。それは間違いありませんね。

来年まで営業しているかどうか?

いま、来年春開催予定の70人規模のパーティ会場を探しています。紹介されてデパートに入っているレストランへ行ってみました。
料理は手頃な値段で質も悪くありません。広いバンケットルームもあって、AV(アダルトビデオではありません)も使えます。そこで来年の予約ができるかどうか聞いてみたら、「6ヶ月前までしか予約は受けてないんですよ。来年も営業しているかどうかわからないもので」という答えが返ってきました。詳しくは後日マネージャーからお電話させていただきますとのことでしたが、いつまでたっても電話が来ません。痺れを切らせて電話をかけたらマネージャー氏は不在。代わりに出た先日とは別の店員さんも「来年までやっているかどうか・・・」と言います。こんな重要事項を店員さんが気軽に口にするというのはどういうことなんでしょう。そう言えば、土曜日の夜に視察に行ったのに客がほとんどいませんでした。
今日、その店を経営している会社の業績が悪いという記事がネットに出ているのを発見しました。やはり来年まで営業するのは難しそうです。

広報イベントとネクタイ

ここ数年と比べ今年は暑さがいくらかマシであるように思います。最近の猛暑の方が異常であって、今年が平年並みなのかもしれません。それでも暑いことは暑いので、すっかり定着した感のある“クールビズ”でノーネクタイで過ごせるのはとてもありがたいことです。そもそも湿度の高い日本の夏にネクタイを締めることの方がおかしいんです。
さて、こんな季節に行われる広報イベントでネクタイを締めるかどうか。これはまた別の問題です。製薬会社や医療機器会社のようなドクターを相手にビジネスをする業界では、会社の中ではノーネクタイ、チノパンで仕事をしていても、そのような場ではクールビズも何のその、ネクタイをきっちり締めるのが“業界の常識”になっています。これは出席するドクターに対して失礼にならないようにという過度の配慮が働くためでしょう。
あるとき、講師としてお招きした医学界のVIPドクターがノーネクターで現れ、「あれ、しまった。どなたか余分なネクタイを持っていませんか」と逆に恐縮されたことがありました。それを聞いた主催者側はすぐに近くの洋品店に向かって駆け出したのでありました。主催者側のスタッフの方がネクタイをはずすという選択肢は誰も思いつかなかったようです。

ある選挙

弊社は東京商工会議所の会員なので、議員選挙の投票券が送られて来ました。それに前後して、見知らぬ会社からのお手紙が次々に舞い込みます。中を見ると、議員に立候補したから投票してくれとの選挙運動です。議員になると、どんないいことがあるのでしょう。また、会員のためにどんないいことをしてくださるのでしょう。さっぱりわかりません。そんな人には投票しません。だからと言って、他の候補が何をしてくださるのかもさっぱりわかりません。そもそも中小企業の代表であるべき商工会議所ですが、トップは常に大々企業の経営者が占めています。そんなこんなで、確信をもっていつも棄権しております。

誤植が多くてごめんなさい

校正という仕事には向き不向きがあります。私は大の苦手です。性格の違いのようにも思いますが違うかもしれません。一見ズボラのように見えて、校正をさせると漏れが少ないという人も存在するからです。
ある友人のブログにはミスタッチがほとんどありません。すごいなあと言ったら、「オレは元編集者だから当たり前だ」と威張っていました。職業的矜持が完璧な校正をさせているようです。
ある著名な写真家のブログは誤字ばかり。どうやら音声入力を使っているらしいのです。それはそれで構いませんが、写真家をしているくらいで目が不自由というわけではないのですから、校正くらいしてほしいものです。誤植が多い文章を読ませるのは読者をバカにしていることになるのではないかなあ。
このブログにミスタッチや誤植が多いのは、バカにしているのではなくて、冒頭に書いたように校正が大の苦手だからです。ごめんなさい。

急に舵は切れませんが

生来いろいろなものに興味があって、あれこれ手を出すものの、どれもモノになりません。そんなあれこれの一つに写真があります。そこでたまにカメラメーカーが主催するセミナーや写真クラブに顔を出すのですが、そこはまさに老人会そのものです。若くて40代。それもチラホラです。杖をついておられる方の方がはるかに多い。若いカメラマニアもたしかに存在するものの、カメラ産業の将来が明るいとはとても思えません。
性能のよくなったスマホで十分。プロカメラマンもSNSに投稿するときにはスマホを使っています。クルマも、若い人たちは実用上しかたなく所有しているにすぎません。多少スポーツカーが売れても大勢に影響はありません。
こういう価値観の変化に大企業も気づいてはいるはずですが、大型船ほど急には舵が切れないのでしょうね。

取り残される瞬間

先日二人の高齢者とお話しする機会がありました。お一人は大会社をリタイアしていまは講演活動をしておられる方、お一人は女流音楽家です。たまたま話がFacebookに及び、音楽家が「私、ああいうの苦手なのよね」とおっしゃったら、すかざず相手の方が「あんなものやらない方がいいですよ!」と言い放ちました。嫌悪感さえ感じられる勢いでした。
その方の現役時代にはFacebookなど存在しませんから、使ったことがないのも当然と言えば当然ですが、80歳を超えても個人サイトを持ち、毎日Facebookに書き込んでおられる方が知人の中に複数存在します。だから一概に年齢だけを問題にすべきではありません。しかし、多くの年寄りはこうして新しい技術から取り残されていく。その現場に立ち会ってしまったような気がしたのでした。
SNSを知らなくても人間の価値には何の影響もありません。SNSを手放しで絶賛すべきものとも考えてはおりませんが、脊髄反射のように拒否反応を示されたことにはいささかショックを受けました。加齢とともに新しい物事を理解したり使ったりする意欲を失うのはやむを得ないとして、そこに嫌悪感まで伴うということには初めて気がつきました。これは初対面の人に対して警戒感や嫌悪感を持つのとどこか共通したことなのかもしれません。

どうでもいいことですが・・・

SMAPが解散するのだそうです。職業柄一応チェックはいたしますが、個人としてはあまり関心がありません。そもそもデビューしたときからファンではありません。ヘタクソな歌や子どもっぽい歌詞が気に入りませんでしたから、どうしてあれだけの人気になったのか、肌感覚として理解できません。
高校野球にも個人としては関心がありません。これは東京の高校を卒業して、その高校も予選一回戦敗退ばかりを繰り返していたためでしょう。地方育ちのみなさんの熱狂を別世界のことのように感じております。
友人にヤクルトの熱烈なフアンがいます。ファンクラブにも入っていて、神宮球場にもしばしば足を運んでいます。この男に誘われて試合を見に行った別の友人の話によりますと、敗戦濃厚な試合運びにゲームセットまで「バカヤロー、バカヤロー」と大声で叫び続けていたとのことです。この心境がまったく理解できません。
どれもこれも大勢に影響ないことのように思うのですが、それぞれ人生の一大事だと考える人も少なくないということは、広報に関わる者として押さえておくことべきことなのでしょうね、きっと。