毎朝、ラッシュのピークからやや過ぎた時間帯に地下鉄に乗っています。吊革の半分ほどに乗客がつかまっている程度の混み方です。そこにときどき車両を移動する人が現れます。降車駅の階段に近いドアに移って定時前に会社に滑り込みたいという心理は、長年会社勤めをした経験からは十分理解できるところですが、その程度の混み具合ですと、立っている乗客の身体に触れたり少々押しのけたりすることは避けられません。立ちながら読書をしたりスマホを使ったりしている乗客にとっては決して気分のよいものではないでしょう。
その地下鉄がある駅とある駅の間を走っているとき、毎日必ず乗客を押しのけるように車両を移動して行く男性がいることに、ある日気がつきました。同一人物です。堅気の仕事をしているような風体です。きっと乗る駅の階段と降りる駅の階段が離れているのだろうと、初めは考えました。ところが、ある日は前から後へ、またある日は後から前へと日によって移動方向が異なるのです。目的は明らかにほかにありそうです。
その目的がわかったのはつい先頃です。乗客をかき分けながら網棚の上の所有者不明の雑誌にひょいと手を伸ばしたのです。翌日からよく観察していると、歩きながらチラリチラリと網棚に目をやっていることが確認できました。
週刊誌の価格はいま350円から400円。新聞の駅売りは110円から160円ほど。その出費を惜しむが故に毎朝10輌編成の端から端まで人をかき分けながら、迷惑がられながら、さらに奇異な目で見られながら捨てられた雑誌や新聞を求めて歩いているのだとしたら・・・。人それぞれ。価値観の多様性は認めるところではありますがねえ。〈kimi〉
時間ですよ!
広報に関連するレクチャーをする機会が年に何回かあります。とくに今年はご依頼をたくさんいただき、その準備に追われています。
レクチャーも長年経験を積むにつれ、いくつかのコツや禁じ手が身についてきます。
最も重要と考えているのは、時間厳守です。90分という時間が与えられたら90分ピッタリで終了する。終了時間を過ぎると、受講者の集中がぷっつり途切れるのが明らかにわかります。準備してきた内容を残してしまったとしても、制限時間を過ぎたら聞き手が聞く耳を持たなくなってしまうのですから、それ以上いくらしゃべっても無意味というものです。
かと言って、「時間が来ましたので、途中ですがここで打ち切ります」というのでは受講者に失礼です。全部しゃべってしまおうと、早口ですっ飛ばしてしまうのも同様です。
時間を過ぎても悠然と話し続けるエライ先生などもってのほか。何を考えているのだろうと呆れてしまいます。主催者にとっても大迷惑になってしまいます。
レクチャーしながら時間をコントロールするのは一つの技術ですが、そもそも準備段階で時間がはみ出すほどのコンテンツを盛り込まないのが鉄則でしょう。
余談ですが、レクチャーの質を判断する一つの目安にしていることがあります。
字釈とでも言うのでしょうか。たとえば、
「癌とは『やまいだれ』に『品物の山』と書きます。いろいろな悪い生活習慣が山のようになると発症する病気です」
みたいな講釈です。漢字は表意文字とか表語文字と呼ばれるように、それぞれ意味を持っていますし、その語源も白川静氏の「字統」などを引けばすぐにわかることです。ところが、漢字の講釈師たちの話には牽強付会が少なくありません。思いつくままにいくつか例を挙げると、
「食は人が良くなると書きます。それだけ食事というものは大切です」
「辛いは十回起ち上がると書きますが、最後の一回を起ち上がると幸せになります」
「吐という字は口偏に±と書きます。マイナスと取り除くと叶になります」
講義のテクニックと思ってやっておられるのでしょうが、無意味もいいところ。詐欺みたいなものです。こういう話をしたことは一度もありませんし、これが始まったら、すぐに講演会場を後にすることにしております。〈kimi〉
おセンチ
仕事に役立つかと考えてFacebookに入って何年になるでしょうか。ちっとも役立たないとわかってから、もっぱら親しい人たちとの交流に限定して使っていますが、それでも少しずつ「友達」の数が増えてきます。
知り合いの意外な一面が書き込みからわかったりするのは、Facebookのいいところでしょう。最近「友達」になったご高齢の紳士たちが、尊敬に値する見識とインテリジェンスの持ち主であることがわかったときは、ちょっと得した気分になりました。
そのような「友達」の中に、驚くほどの頻度でコメント(近況)をアップしている人たちがいます。「この人、いつ仕事をしているの?」と意地悪な疑問さえ感じるほどです。
薬業界の周辺情報をせっせとシェアしてくださる方がいたり、お子さんのためにお父さんがつくるお弁当を毎日紹介してくださる方、ご親族を亡くされて、ご葬儀からその後の面倒な諸手続まで、ほぼリアルタイムでご報告された方もいます。読んでいるうちに、こちらも思わず「南無阿弥陀仏」の心境になってしまいました。
そのような人たちには、ある種の共通点があるような気がします。
主張したいことや個人的な「思い」をたくさん持っていらっしゃるということです。しかし、それらを発表する場は多くありません。それでFacebookを利用しておられるのでしょう。それもFacebookの存在価値の一つなのかもしれません。
印刷媒体でそれらを表明する場合より、ずっと個人的な内容が書き込まれる点も特徴的です。読んでいるうちに「おセンチ」という単語が頭に浮かんで来ました。センチメンタルの略です。死語となって久しい昔々の流行語ですが、感傷的と言うとちょっと強すぎるときに使われていたかと思います。
まことに失礼ながら、熱心に書き込みをしているあの方この方を思い浮かべながら、おセンチな人たちなんだなあ、と密かに納得してしまいました。人間関係にどこか飢えている方々なのかもしれません。
たまには有益な情報もいただいていますから、それらの書き込みにはそれなりの価値は認めてはおりますが。〈kimi〉
手帖と同窓生
広報を業としている者が、メディアに関して批評がましいコメントをするのはおこがましいと言うか、控えるのが慣わしのようなものですが...。
暮しの手帖誌の広告の
「これはあなたの手帖です。この中のどれか一つか二つは、すぐに今日のあなたの暮らしに役立つでしょう」
というコピーが少々気になりました。
一言申し上げておきますと、最近は手に取る機会が少なくなったものの、子どもの頃からの大の暮しの手帖ファンです。いまはなき商品テストをはじめ、料理の記事や黒田恭一さんのレコード・CD紹介なども熱心に読んでいました。長じては、企業の広報担当者として、商品テストに対する異議を伝えるために何度か編集部へ足を運んだこともありましたが、決して嫌いにはなりませんでした。
さて、件のコピーです。「これはあなたの手帖です」と言いきる自信、素晴らしいですね。創刊以来の実績が言わしめるのでしょう。ではありますが、どことなく上から見下ろしているようなニュアンス、いわゆる上から目線が感じられないでしょうか。
戦後の日本社会で同誌が果たしてきた役割や位置づけは、何も知らない市井の人たちに教えてあげる、というものだったと思うのですが、現代日本の社会意識とは少し異なってしまったような気がします。
もう一つ、違和感を感じる雑誌記事があります。文藝春秋の名物企画である「同窓生交歓」です。功成り遂げた数人のクラスメートの記念写真とともに、その一人の短文を掲載するというもの。掲載された方の喜びはいかばかりかと拝察いたしますが、この取材に呼ばれなかった社長にも教授にも作家にも局長にも理事長にもなれなかったクラスメートのみなさんはどう感じておられるのか。このページを見るたびに、そちらの方が気になって仕方ありません。〈kimi〉
なかなか
人によって、無意識に頻用してしまう独得の言い回しや単語があるものです。無意識だけに、よくよく注意して推敲して摘み取らないと、なんともしまらない文章になってしまいます。
筆者の場合、そのような例の一つに「なかなか」があります。
このブログでも、調べてみると、
「それがなかなか難しいのです」
「健常人にはなかなか理解できません」
「これはなかなか便利な機能である」
「なかなかそうは行きません」
などと頻発させています。まことにお恥しい限りです。
この「なかなか」の効用は、ちょっと口語っぽくくだけた雰囲気が出せるところにあります。公文書などにはあまり使われない言葉でしょう。また、話の焦点をぼかすソフトフォーカスレンズのような効果がありますが、それだけに、使いすぎると文章がぼやけてきます。
筆者が「なかなか」を使うようになったのは、以前仕事でご一緒したある方の影響です。
その方は、しばしば次のような使い方をしました。
「○○部長ってさあ、ああ見えてもなかなかなんだよねえ」
「彼もさあ、なかなかだから、気をつけなくちゃいけないんだよ」
何を言いたいのか明確ではないのですが、なんとなく言いたいことはわかるような気がするから、不思議な修辞法です。
一般には「なかなかよい」という含意で使われることが多いのでしょうが、この方の場合は「隅に置けない」とか「裏がある」とか「自分の主張を曲げない」とか、多少ネガティブな意味を込めているようです。しかし、明快に表現してしまうと、いつかその人物評がご本人の耳に伝わって、自分に災いが降りかかるかもしれません。「なかなか」と言っておけば、なんとでも言い逃れができます。
これは独裁国家とか全体主義国家においては極めて有用な語法となるでしょう。
「あそこの基地を見る機会があったんだけどさ、なかなかでしたよ」
などと言っている限りは秘密保護法に抵触する恐れはありません。いまから「なかなか」の使い方に習熟しておいて損はないのかもしれません。〈kimi〉
最先端はお好き?
その後、STAP細胞の論文への疑問やら韓国のフェリーの沈没やら、大きな事件が立て続けに起こったので、例の偽作曲家の話題は週刊誌やワイドショーからすっかり消えてしまいました。人の噂も七十五日。今頃、偽作曲家はシメシメと思っていることでしょう。
そんなことを思い出したのは、今朝の電車の中で、モーツアルトの弦楽四重奏曲を聴いていたからです。
モーツアルトばかりでなく、私たちが好んで聴くクラシック音楽はバッハ、ヘンデル、ベートーベン、ブラームスなど、17世紀から20世紀初めまでのいわゆる調性音楽です。コンサートでも演奏される音楽のほとんどが調性音楽です。そして、偽作曲家がゴースト作曲家から供給を受けていた音楽もまた調性音楽でした。それでCDがたくさん売れました。もちろん作曲家の耳に障害があるなどという修飾が大いに影響したわけですが、これが無調の現代音楽だったら、ほとんど売れなかったはずです。
新聞や雑誌からの情報によれば、ゴースト作曲家氏も本名で発表しているのは無調の現代曲だそうです。しかし、それは売れていない。
現代作曲家によるとんがった音楽は、誰がどう擁護しようが、そのほとんどが聴いていて面白いものではありません。まるでわからない。数学や理論物理学の最先端の講義を聞いているようなものです。何事によらず最先端を目指すことは大切です。しかし、最先端の部分は誰もが楽しめるものではありません。そこで多くの人たちは、現代クラシック曲には見向きもせず、もっぱらポップスやロックを聴くようになってしまったのだと思います。だって、その方が楽しいもの。
STAP細胞も、その研究を本当に理解できる人は限られます。私たちはわかったようなつもりになっているだけで、実はな~んにもわかっていないのです。そんな難しい話より、もっとわかりやすくて原初的な感性に訴えかける話題の方が楽しいに決まっています。そこで、何回STAP細胞ができたのかとか、ノートの冊数がどうとか、小保方さんが美人だとか洋服のブランドがどうだとか、そんな方面につい関心が向いてしまうのでしょう。〈kimi〉
誰も住まない町の列車が来ない駅
出版社はおわびをしないのか?
今年になって電車のトラブルに続けて巻き込まれました。人身事故による「運行見合わせ」や「大幅な遅れ」に遭遇することすでに5回。さらにこのところの雪で、いつもなら1時間で着くところが2時間もかかったりしました。ただのダイヤ遅れなら、いずれは着くだろうと、急ぎの用事さえなければのんびり構えることもできますが、途中の駅まで進みながら止まってしまい、いつになったら動くのかさっぱりわからないとなると途方にくれます。このまま運行再開を待つか他社線に迂回すべきか、的確なアナウンスがなければ判断のしようがありません。
ビクトル・ユゴー作「レ・ミゼラブル」。19世紀のフランス文学を代表する長編小説ですが、フランスの歴史について多少の知識と興味を持っていないと実に読みにくい小説でもあります。筋立てが進行する部分は半分ほどで、あとの半分には当時の政治情勢に関する作者の認識やら義憤やらが書き連ねてあります。そこが難所で読み通すのがつらい。つらいけれども、そこを読まないとこの小説の真髄はたしかにわかりません。
その「レ・ミゼラブル」の新訳全5巻が2012年の秋から出版され始めたので、決意を固めて読み始めました。
第1巻を読み終わる頃に第2巻が出る。実によいテンポで出版されて、順調に読み進むことができました。つらい難所もかつての大先生訳よりは読みやすく、なんとか乗り越えました。ところが、第4巻が2013年2月に出て以来、パタッと出版が止まってしまいました。出版社からは何のインフォメーションもありません。最終巻が出版されるのをこのまま待つか、別の訳本で読了してしまうか・・・。途中駅で止まった電車の乗客そっくりの状態に陥りました。せっかく座れた電車ですから、そのまま居眠りでもしていようか思っているうちに、すっかり熟睡してしまい、目覚めたら2014年2月、突然に最終第5巻が発刊されました。
ところがです。ようやく出た第5巻のカバーにも帯にも、発刊が遅れたお詫びは書かれていません。訳者のあとがきには夫人への“おのろけ”が書いてあるばかりで、翻訳が遅れた理由も弁解もありません。
第一巻が出たのは、この小説を原作とした評判のミュージカル映画が公開されたタイミングでした。いま出せば売れるに違いないと、翻訳がすべて終わっていないのに見切り発車して、見事に「大幅な遅れ」に直面したのだろうと想像します。せっかく原作を読了してから映画を見ようと計画していたのに、上映期間には間に合いませんでした。仕方がないので長い停車中にwowowで見てしまいました。
良心的な書籍を出し続けている出版社として、これは残念な企業姿勢と言えるでしょう。顧客に対する情報公開について、どのように考えているのでしょう。〈kimi〉
古新聞
毎朝の通勤電車でしばしば隣り合わせる初老の男性はいつも熱心に新聞を読んでいます。日常的な光景ですから、特段に気にとめることもありませんでした。
ある日、何気なくその男性が読んでいる紙面に目を移しました。その瞬間、クラッと眩暈のようなものを感じました。軽い見当識障害のようでもあり、既視感にとらわれたようでもある。自分がどこにいるのかわからないような気分、と言ったらよいでしょうか。
10秒か20秒ほどかかってようやくわかりました。彼が読んでいるのは今日の新聞ではない、ということが。
それは2日前の夕刊でした。発行当日に読んだ記事の記憶と、その朝の最新の新聞を読んだ記憶との間で整合をとるのに、私の脳が少々手間取ったのでしょう。初めから古い新聞であると認識していれば、そのような不思議な感覚を体験をすることもなかったはずです。
そのむかし、「今日の出来事」というTVニュースがありました。新聞記事やニュースはまさに今日の出来事を伝えていますが、その多くは報道の時点で終結してしまったのではなく、その後も刻々と事態が変化しています。翌日の新聞にはその続報が掲載されています。私たちは現在進行形で報道された出来事の動きや変化をとらえているのでしょう。数日前の新聞の見出しをそれと知らずに認識した私の脳は、進んでいるはずの事態が逆戻りしていることで混乱してしまった、というのが私の推測です。
過去の記事を読むことにも意義がありますが、新聞の本質はやはり「新しい」ということなんでしょうね。〈kimi〉
ヘタの直接話法
話し上手というのは、広報を仕事にする人にとってはかなり必要度の高い能力です。単にペラペラしゃべればよいというものではありません。おしゃべりは広報の仕事ではむしろマイナスです。話し上手とは、正しい内容を筋道を立てて相手に理解できるように話す。それだけのことではないでしょうか。
これは心がけ次第でできるものです。しかし、心がけなければ、いつまでたってもできない。そういうものでもあると思います。
話しベタの方はいろいろなタイプがあります。訥弁は、必ずしも話しベタではありません。とつとつと説得力のある話し方をする人もたしかに存在しますから。
ある事柄を伝えるのに、多くの言葉を使う人と少ない言葉で伝えることができる人がいます。多くの言葉を使うということは、話が長いということ。話したいと思う内容をシンプルなストーリーのまとめられない、脇道にそれる、言ったり来たりするといったことがあると、話は自然に長くなります。聞いている方も、いつになったら結論に到達するのだろうとジリジリしてきます。
このような話しベタの中に、「直接話法で話す人」がいます。たとえば、こんなふうに・・・。
「記者クラブに入ったら、長髪の人がいたんで『世紀火災広報の木戸と申します』と言ったんですよ。そしたら『世紀火災って、なんかあるの?』なんて言われちゃって。それであわてて『いいえ、ごあいさつにあがっただけです』って言ったんですけどね。『忙しいから後にしてよ』って言われちゃいました」(題材は高杉良著「広報室沈黙す」から借用しました)
直接話法も一種の修辞法です。うまく使えば実に効果的です。しかし、多用すると話は確実に長くなります。長くなるばかりでなく、これは無責任な話し方でもあります。
直接話法を多用するのは、他の人が話した内容を要領よくまとめて間接話法で話す能力が不足していることを示しています。そのような人が、自分が伝えるべき内容をシンプルなストーリーにまとめられるはずがありません。話しベタの一つの典型です。〈kimi〉