代替エネルギー

代替エネルギーという用語を3.11以来よく目にするようになりました。Alternative energyの直訳なのでしょうが、なにか違和感を感じてしまいます。
終戦直後に使われた「代用食」は、白米に代わる主食という意味です。食糧事情が悪かった当時は、トウモロコシ粉とかコウリャン粉などを指してそう呼んでいたのでしょうが、そこには白米こそが主食であって、一時的にその代用で我慢しているというニュアンスが感じられます。いつかは白米に戻りたい、という願望が反映されているのでしょう。
「代替エネルギー」には、化石燃料や原子力こそが主たるエネルギーであって、その他はその「代替」である、という意図的な過小評価が込められているように思えます。
さて、気がつけばいまや日本人は白米がなくても平気になってしまいました。三食カップラーメンというのは感心しませんが、そば、うどん、ラーメン、つけ麺、パスタ、ペストリー、サンドウィッチ、スープ春雨、シリアル・・・たまには白米もいいよね、などと言う人もいます。それなら代替エネルギーだって、気がつけばエネルギー源の主流になっていた、という時代が来るのかもしれません。
と、こんな堅いことを書くつもりではありませんでした。
電車から毎日、ビルの中でランニングマシンを使っている人たちが見えます。エアロバイクで汗を流している人たちもいます。これらに使われるエネルギーがいかにももったいないような気がしてきたのです。これをエネルギーとして利用すれば、まさに再生可能エネルギーになります。走りながらベルトを回して発電する。エアロバイクにも発電機をつなぐ。そんな発電装置をアスレチッククラブばかりでなく、あちこちの公園や広場に備え付け、時間がある人は、ちょっとそこで汗を流す、と同時に発電をする。運動不足の解消と発電の一石二鳥になります。荒唐無稽でしょうか。しかし200年ほど前まで、ヨーロッパでは帆船とともにオールで漕ぐガレー船が実用に使われていたのです。日本にだって人力車や輪タクがありました。マンパワーを過小評価してはいけません。〈kimi〉

雑魚客にも

京都には、住んだことはないものの学生時代から何かと縁が続いて、これまで100回近く訪れています。ということは、京都のホテルに100泊以上は泊まっていることになります。
宿泊料が安いとか、京都駅に近いとか、酔っ払ってもすぐに戻れる繁華街の真ん中であるとか、利用者を増やしたいからと頼まれた公的施設とか、その時々の目的やフトコロ具合等に合わせて宿泊先を選んで来ましたが、近頃あるホテルが気に入って、しばしばそこを利用するようになりました。
部屋は広く設備もよいのですが宿泊料は安くありません。繁華街からは少々離れています。地下鉄の駅から歩いて15分はかかります。悪条件がいろいろあるにもかかわらず、そこを使うのは理由があるからです。
タクシーをホテルにつけると、ベルキャプテンがドアを開けてくれます。シティホテルなら当たり前のサービスですが、大企業の経営者や政治家などへは極めて慇懃なのに、私のようなその他大勢の、いわば「雑魚」の客に対しては、形式的でおざなりな動作ですますホテルが多い中、ここはちょっと違うのです。雑魚客であっても、毎回かける言葉が異なるのです。天候や時間、客の年齢や性別、チェックインなのか外出からの帰りなのか、荷物が多いのか少ないのか、そのような状況を一瞬に判断して適切な一言をかけているようです。これはできそうでできないことです。
ロビーに入ると、ホテルマンたちの目配りが行き届いていて、それぞれ「お帰りなさい」とか「いらっしゃいませ」と挨拶をします。それがちっともマニュアルっぽくありません。トラブルが生じても、一生懸命解決に努力してくれるので腹が立ちません。日本語が上手くない外国人女性ポーターを含めて、このような客あしらいが徹底しています。
これはお客様を大切にすることが客を増やすという、スカイマークとは対極の姿勢です。
誠に素晴らしいのですが、清潔なベッドさえ用意されていれば十分、といった基準でホテルを選ばざるを得ないこちらのフトコロ状態が常態化しつつあるが、少々残念です。〈kimi〉

空にもタメ口

スカイマークの「サービスコンセプト」が話題になっています。責任を押しつけるなと消費生活センターがクレームを申し入れたということですが、そんなことは些末な問題。顧客重視経営をかなぐり捨てた、なんとも奇妙な宣言文です。
その文中に「より安全に、より安く」とありますが、これまでのビジネスの常識では、顧客を大切にすることの延長線上に「安全」があると考えてきたはずで、客を荷物のように考える会社が本当に安全を守れるのか、はなはだ疑問です。「安全はほどほどに、より安く」と言う方がむしろ論理的だし、誠実ささえ感られるかもしれません。お客は減るでしょうけど。
それはそれとして、この文書にこんなセンテンスがあります。
「お客様に対しては従来の航空会社の客室乗務員のような丁寧な言葉使いを当社客室乗務員に義務付けておりません。客室乗務員の裁量に任せております」
丁寧でない言葉遣いってどんなんでしょう。
「オイ、そこのオバチャン。早く席に座れよ。後の客が入れねえじゃねえか」
なんて、言うんでしょうか。乗務員の裁量に任されているんですから、これでも問題ないわけです。
80年代のことだったでしょうか。渋谷のパルコを見学していたら、店員のオネエさんが、
「いいよ、これ。すっごく似合ってるう」
とお客さんに言っているのを聞いて、すっ魂消たことがあります。それまでの小売店の慣習なら、
「これはとてもお似合いですわ」
です。店員が客にタメ口をたたく時代に、そのときからなりました。
これは顧客軽視ということではなさそうです。若い女性である顧客と同じ目線で、同じマインドで接客しよう。つまり顧客により近づこうということだろうとも解釈できます。そう考えれば、客室乗務員のタメ口もあながち否定できないのかもしれませんね。
「飛行機がさっきから揺れてるけど、大丈夫よ。落っこちないからさあ」
こんなアナウンスが当たり前になるんでしょうね、きっと。〈kimi〉

お尻だけはふいてくれ

久々にブログを更新するというのに、はなはだ尾籠なタイトルで申しわけありません。
私の友人知人の中にお尻をふかない人がいるのです。もちろんトイレでお尻をふかないということではありません(注:ふいているという確証もないのですが)。
例を挙げてみましょう。
ある人は、私に本を書かないかと持ちかけてきました。古くからの友人であり出版社のエライ人でもあったので、企画を考えて手渡しました。それから10年ほども経つというのに、採用なのかボツなのか、私は何も告げられておりません。もちろんボツには違いないのですが、その後も何度か顔を合わせる機会があったにもかかわらず、まったくの知らんぷりです。
またある人は、ある企業が直面したやっかいな問題のアドバイザーになってほしいと依頼して来ました。社会的地位の高い方でもあるし、その企業の社長に話を通すということなので、それなりに下調べをして待機していましたが、それから3年、まったく何の音沙汰もありません。その間何度かお会いしてはいるのですが、その話題には一切触れません。ちなみにやっかいな問題は、その企業に好ましくない結果で収束したようです。
自分から持ちかけた話の結末をなぜつけないのでしょう。企画がボツになったとか、企業側が難色を示したというような話しにくい話をするには小心すぎる人たちなのか、それとも単なる脳天気なのか、あるいはまだほかに理由があるのか…。
なにはともあれ、お尻だけはちゃんとふいてもらいたいものです。〈kimi〉

記者の専売特許

なぜ新聞記者は文章読本を書きたがるのだろうと、先週書きました。答えは簡単です。「自分は文章がうまい」と自負しているからです。
その正否はともかくとして、新聞記事が、素人の作文のお手本に好適であることは認めざるを得ません。それだから、記事の書き手による文章読本にはそれなりの需要が見込めるということになるのでしょう。本を書かないまでも、退職後に大学教員に転身して、作文指導をしているOBも少なくありません。
しかし、実は新聞記者たち自身が気づいていない専売特許はほかにあるのです。それは取材力というものです。
新聞、雑誌、テレビ、ラジオの4大マスメディアの中で、最も分厚い取材組織と取材ノウハウを有しているのが新聞社です。新聞の退潮が誰の目にも明らかになってしまった現在においても、これは変わりません。
フリーのライターさんからは、新聞の取材力に批判的な意見も聞かれます。それもある面で正しいとは思いますし、独自の取材力を持つフリーライターが少なくないことは承知していますが、新聞社で先輩から後輩へと受け継がれる取材ノウハウや取材力はいまだ侮れない水準にあるのは確かです。
優れた文章は、テニオハの使い方だけで書けるものではなく、そこに盛り込まれる視点や情報の質に負うところが大きいわけで、それは取材力から生まれます。取材力は情報収集力と言い換えてもよいでしょう。
ビジネスの世界でも、学問の世界でも、広報の世界でも、取材力のある人とそうでない人では、企画やアプローチの仕方に大きな違いが生じるはずです。これこそ新聞記者OBのみなさんから伝授していただきたいノウハウだと思うのです。〈kimi〉
 

記者にビジネス文書が書けるか

新聞一面下にある書籍広告を見ていたら、文章の書き方みたいな本の広告が目につきました。著者は元朝日新聞記者。デジャビュというべきでしょうか。このテの本の著者に、なぜか朝日新聞のOBが多い。「天声人語」の歴代執筆者をはじめとして、名文家として名高い朝日OBは何人か存在していますが、だからと言って、朝日だけに文章が上手な記者が多いとは思えません。夏目漱石は朝日に在籍していました。記者ではなく作家としてですが、その影響が今日にまで及んでいるのでしょうか。
日野啓三や真山仁は讀賣、井上靖と山崎豊子は毎日、司馬遼太郎は産経、高井有一と辺見庸は共同、横山秀夫は上毛新聞といった具合に記者経験を持つ作家は少なくありませんが、朝日出身となるとにわかには思い浮かびません。これもまた不思議な現象です。石川啄木や松本清張も短期間在籍していたものの、啄木は校正係だし、清張は広告部嘱託の図案係だったそうです(どちらもWikipediaによる)。朝日のOBは小説を書かずに文章読本を書く、のでしょうか。
なぜ新聞記者が文章読本を書きたがるのか、ということが前々から疑問でした。上記のように記者上がりの作家は少なくありませんが、新聞記事と小説の文章は言うまでもなく異なります。一方の極に小説があり、その対極にお役所の文書やビジネス文書一般があるとしたら、新聞記事はその中間あたりに位置すると言ってよいでしょう。無味無臭で(胡散臭くはあるが)常套句に満ちたお役所文書でもなく、技巧的で個性的な小説の文章でもなく、平易簡潔で読みやすく、なおかつ少々の心情の吐露も可能な文章。それが新聞記事の文章だとしたら、素人が日記や手紙を書いたり、たまにサークル会誌などの原稿を執筆したりするには適当なお手本とは言えるでしょう。しかし、ベテラン記者に企業間で日常的に交わされているビジネス文書を書けと言っても、辞表くらいは書けるでしょうが、まずうまく行かないだろうと想像します。彼らが書く文章読本は、少なくともビジネス文やプレスリリースの書き方指南ではないのでしょうね。
今日は、こんなことを書こう思って書き出したのではありませんでした。でも長くなりすぎたので、ここでやめておきます。〈kimi〉

あらたにす

朝日、日経、読売の3紙が共同で運営していた「あらたにす」というサイトがもうすぐ閉鎖されます。スタートしたときから、あの程度のコンテンツでいつまで続くものやらと思っていましたので、意外感はまったくありませんが、私はこのサイトの隠れ愛読者でありました。
楽しみに読んでいたのは、「新聞案内人」というコラムです。評論家や学者やジャーナリストが毎日交代で、新聞に関わるテーマで執筆していました。執筆者の中で、とくに新聞記者OBの方々が書かれたコラムが圧倒的に面白かったのです。彼らは現在の新聞報道の問題点をいろいろと指摘し、後輩記者たちを叱咤激励する文章をここに書き続けていました。
お名前を挙げるならば、栗田亘さん(元朝日新聞)、松本仁一さん(元朝日新聞)、水木楊さん(本名:市岡揚一郎、元日経新聞)、池内正人さん(元日経新聞)、西島雄造さん(元読売新聞)、上村武志さん(元読売新聞)といった方々です(見事に各社2名ずつになっていることに、いま気がつきました)。
これらOB記者たちのコラムを読むことで、新聞の読み方や新聞記者のあり方、また、いまの新聞の問題点等々に関して、多くの示唆を得ることができました。また、さすがに文章がうまい。おいしい料理を食べているような気分で読むことができました。
OBだから書けること、というのがあるでしょう。一方で、日本の新聞をよりよくするために現役時代にどれだけ努力したのか、という疑問も当然浮かんできます。しかし、これだけの方々ですから、それなりに努力をし、それでも大きな流れには抗うことができなかったのだ、と好意的に解釈しておきたいと思います。
これが読めなくなることはとても残念です。このようなコラムを掲載するサイトがどこかに、あらたに、できないものでしょうか。〈kimi〉

把瑠都の広報戦略

大相撲初場所で、エストニア出身の把瑠都が優勝しました。把瑠都の相撲内容について、一部の新聞が強い批判記事を書いていましたが、何年間も日本人力士の優勝がないことへのいらだちが書かせてうるようにも思えました。
それはともかくとして、これから把瑠都の人気は急上昇するのではないか、と予測しています。 もちろん強くなれば力士の人気は上がるものですが、これまで圧倒的な強さで土俵を席巻してきたモンゴル人ではなく、ヨーロッパ人力士の優勝であることの新鮮さがもう一つ挙げられるでしょう。
彼の言動は寡黙をよしとする伝統的な相撲社会のそれではなく、開けっぴろげです。それに対して批判的な日本人も少なくないのでしょうが、彼の欧米的な価値観は抑えようにも抑えられないように見受けられます。観客の声援に手を挙げて応えていたのもその一例です。これなど、若い日本人には少しも違和感を与えないはずです。
もう一つ、私が注目したのは、千秋楽での奥さんのエレナさんの和服姿です。広報的に見ればこれはかなりのクリーンヒットです。あれだけでフアンを増やしたに違いありません。また、テレビで見る限り、彼女はかなり古き日本女性のたしなみを勉強しているように見えました。日本語もある程度はできるようです。これらはすべて把瑠都の人気を高め、日本人に評価される方向に寄与するものと思われます。
これらの広報戦略を裏で演出している人いるとすれば、大したスゴ腕です。把瑠都夫妻が自分たちで考えたとすれば、彼らはかなり賢いと言えるでしょう。〈kimi〉

CCをつけない人

電子メールが普及し始めてからすでに四半世紀は経っています。パソコンが苦手という中高年の方々でも、仕事をする以上はメールくらいは使えなければお話にならないというのが現在の状況です。
極めて日常的な通信手段となったメールですが、少々気になることがあります。それは、CCをつけない人がいる、それも少なからずおられるという事実です。
私が初めて「CC」の存在を知ったのは、外資系企業に就職したときでした。PCのない時代ですから、ビジネス文書は薄手の用紙に手書きかタイピングで作成されました。なぜ薄手かと言えば、Carbon Copyをとるためです。そして、社内連絡には必ず
CC : Mr. A. Yamamoto, Mr. T. Wright
などと、自分の直属上司と相手の直属上司へCCをつけることが求められました。コピーを回すのは、その人にも読んでもらいたい、あるいは読んでもらわなければならないからです。CCを受け取った人に意見があれば、その返信もまた同様にコピーが回されます。情報共有のためのすぐれた方法で、これが米国流です。メールのCCは、この米国流を踏襲しています。
当時の、いやいまでも多くの日本企業は稟議というシステムを使っています。これはコピーを配布するのではなく、電子化されていても基本は回覧です。あらかじめ会議で決定したり、根回しで了解されたことを記録として残すことが主目的で、稟議書の回覧は形式的なものになりがちです。稟議書に意見を付けられたり差し戻されたりすると、起案者にとっては減点対象の大事件になってしまいます。通常の事務連絡も原則は回覧で、ハンコがべたべた押されて戻って来ます。
そのような日本流ビジネス文書の伝統に親しんでいれば致し方ないとも言えるのですが、こちらからCCをつけてメールを送信したのに、その返信にCCをつけない人が少なくありません。「全員に返信」をクリックしていないのです。これは中高年に限りません。返信にCCを付けないということは、意図的にCCの対象者に返信を読ませないということです。そのような自覚もなく、単に「返信」ボタンを押しているだけ、というのはいささか困ったことです。〈kimi〉