更新という名の障害

朝、さて仕事を始めようとPCにスイッチを入れると、起動したにもかかわらず画面が真っ黒になったり、「お待ちください」と表示されたままになったりして、2時間近くも動かなくなってしまいます。その間は仕事になりません。こんな事態にこのところ何回か見舞われています。その原因はソフトの更新というヤツ。それが自動的に始まってしまうのですから、これはもう被害と言ってもいいんじゃないでしょうか。
もちろんソフトによっては、いますぐインストールするか、次の機会にするかを選べることもあります。次にしても構わないのでしょうが、ついつい「更新」ボタンを押してしまいます。なにしろ、いますぐ更新しないと脅威にさらされるという脅し文句がついているのですから。
数日前にはOSのかなり大きな更新に遭遇しました。今回は先に自宅のPCで経験したので、オフィスのPCでは用心して、時間の余裕のあるときに意識的に更新をかけることにしました。しかし、これで安心してはいけません。シャットダウンのボタンにさらに更新マークがついています。これを押して帰宅した翌朝、PCは再び大寝坊を始めて1時間近く目覚めようとはしないのです。
朝から取りかからなければならない仕事があるときは、途方に暮れます。いくら安全のためとは言え、ソフト会社は顧客を上から目線で見ているとしか考えられません。こんな不条理なことがいつまでも続くとは考えられないのですが・・・。〈kimi〉

行進の本質

ラーメン屋や鯛焼き屋の前ではたまに行列をすることがありますが、行列して歩く、つまり行進というものを私はここしばらくしたことがありません。そもそも大の行進嫌いなのです。
小学生のときはよく行進させられました。朝礼、運動会、遠足、いつでもどこでも行進でした。いまも事情は変わっていないようです。集団行動の精神を養うといった理屈があるのでしょうが、批判もあります。先生にとっては、子どもたちが並んで歩いてくれた方が面倒がありません。本音はそんなところかもしれません。
世界共通で最も行進好きな集団と言えば軍隊です。軍事パレードが大好きな国が近隣にいくつかありますが、日本の自衛隊もバッキンガム宮殿の衛兵も行進をします。警察、消防団などの組織に属している人たちは、事あるごとに行進しています。高校野球の選手たちも行進しながら入場して来ます。そう言えば、オリンピックでは開会式では入場行進をするのに、閉会式ではバラバラです。なぜなんでしょう。
おぼろげな歴史認識によれば、もともと日本には行列はあったものの、行進という概念はなく、幕末に西洋流の軍隊を組織するときに、初めて輸入されたようです。ということは、大名行列も行進していたわけではないということになります。
集団行動には縁遠いように見える弁護士さんも行進がお好きであるようです。テレビニュースには、行進しながら裁判所に入って行く弁護団の姿がしばしば登場します。不祥事のあった企業に家宅捜査に入る地検特捜部のみなさんも行進しています。秩序を重んずる法曹界は行進がお好きなのでしょうか。
一般には、大人になると行進する機会はめったにありません。パック旅行で添乗員さんの小旗について歩くときでも、バラバラくっついて歩いていますね。自我が確立している人間は行進を好まないはずです。行進という行為は自我の一部(まれには全部)を組織にゆだねることではないかと考えてみると、行進の本質が見えて来るようです。軍隊しかり、デモ行進しかり、塀の中もしかりです。私がしばらく行進をしていないのは、そんな組織に属していないからなんでしょうね〈kimi〉

なんとかリンクしているようです

このココノッツブログをFacebookの私の”ニュースフィード”という欄に自動的に転送する設定にしてしまった、と先に書きました。どうやらうまく連動したようです。「どうやら」というのは、「私の書いたノート」というところに連動すれば、「友達」が読めるようになっているらしいのですが、「友達」ではない私(つまり本人)には確認できないからです。できるのかもしれませんが、そこは先頭集団から5m遅れで走っている私のこと、よくわからないのです。
以前に書いたブログを「友達」のみなさんが読めているのかどうかも実は確信が持てません。念のためにココノッツブログのURLを記載しておきましょう。
http://www.cocoknots.co.jp/blog/index.php      〈kimi〉

ブログなんですが・・・

え~、なんてわざとらしく書き出したのは、なんとなく言いにくいというか書きにくいからです。そのわけは、このブログをFacebookの私の”ニュースフィード”という欄に自動的に転送する設定にしてしまったからです。うまく連動するかなあ、というおっかなびっくりな気分もあるし、「友達」ということになっている方々に読まれることに対する緊張もある。
なまけなまけ書いているココノッツブログは、どのくらいの方々から読まれているのかよくわかりません。もちろんログ解析レポートには数字が打ち出されているのですが、世間一般のブログに比べればかなり少ないのではないかと思います。
それなのになぜ書いているか。理由はいろいろあるんですが、自分自身の文章トレーニングの場、というのが実は大きな部分を占めています。たとえばブログの文章とプレスリリースの文章とは大きく異なりますが、それでも文章を書くという行為を続けていないと筆が(キータッチが)錆び付きます。ブログを書きながら、密かにレトリックの練習をしたりもしております。
そんな練習につき合っていられるか、と下心はすぐに見透かされ、それが読み手が少ない原因かもしれません。そんなエチュードをFacebookと連動させるなんて、恐れ多いことです。しばらくやってみて、続けるかどうか改めて考えることといたします。〈kimi〉

「間違いありません」

「担当者が不在でコメントできない」
都合の悪い取材を受けた企業の決まり文句です。実際にはどのように答えたのか知りませんが、新聞にはこのように書いてあります。担当者って、だれなんでしょうね。広報担当者かな。それだったら、「社長を出せ!」となるから、具体的な職名を出さないところがミソなんでしょう。
「訴状を見ていないのでコメントできません」
訴えられたときの逃げ口上。たしかに訴状が届くより先に取材を受けることが多いので、これはなかなかよく考えられたコメントであるとも言えます。「えっ、ウチが訴えられたの? で、向こうはなんて言ってるの? ああ、そりゃあ違うよ」なんて、記者から情報もらってペラペラ答えるわけには行きませんものね。
「判決を精査し、控訴の要否を検討する」
これは敗訴したときの紋切り型。検察もよく使います。判決直後では答えようがないのもたしかです。
「弁護士に一任している。答えることはありません」
というのもあります。
紋切り型のコメントというのは一般にはお薦めできませんが、時間稼ぎをしなければならないときや、実際にコメントのしようがないときなど、やむを得ないケースもあるでしょう。
新聞の社会面でよく見かけるコメントに
「仕事のストレスからむしゃくしゃしてやった」
というのがあります。万引き犯の定型的自供ですが、どうも真実とは思えません。
「オイキミ。なんで万引きなんかしたんだ?」
「このところ会社で面白くないことが続いたもんで・・・」
「仕事のストレスがあったということだな」
「まあ、そんなところで・・・」
「それじゃ『仕事のストレスからむしゃくしゃしてやった』と調書に書いとくけど、それで間違いないな?」
「間違いありません」
容疑者、取り調べ側ともども、真実なんて考えれば考えるほど、またいくら追求してもわからないから、適当なところで手を打ちましょう、ということじゃないか。しかし、それでいいんでしょうか。
近頃、新聞やTVニュースでしばしばお目にかかるのが、この「間違いない」というフレーズです。「容疑者は、『自分がやったのに間違いない』としている」と結ばれている記事が少なくありません。警察発表をそのまま記事にしているのでしょうが、報道もまた適当なところで手を打っているわけです。〈kimi〉

先頭集団から5m

少し前にTwitterが話題になったと思ったら、昨年末の中東ジャスミン革命あたりからは、俄にFacebookが注目されるようになりました。
こう書くと、ITに熱心な方々から、いやもっと前から盛んに使っているよとお叱りを受けそうですが、日本の社会一般ではこのあたりが妥当な認識だろうと思います。
さて先日、そのようなソーシャルメディアをどのように広報に応用するか、といったテーマのセミナーに参加して来ました。それなりに参考にはなりましたが、ふと会場を見回して気づいてしまいました。ひょっとしてこの会場内の最年長者は私じゃないの? 広報の世界の方々は一般に若作りが多いので正確には判断できかねますが、三番以内であることはほぼ間違いなさそうでした。
同年代のビジネスマンたちの中に、メールは読むけど返事は出せないという人がいまも存在します。TwitterやFacebookにはついて行けないと、あきらめている人たちがほとんどです。一方で、はるかに年長にもかかわらず元気にTwitterでつぶやき続け、Facebookのニュースフィードに毎日書き続けている方もおられます。
どんどん進化するIT技術にキャッチアップし続けるのは、マラソンに似ています。先頭集団に遅れそうになって、もうダメだと思った瞬間から、あっという間に100m、200mと引き離されてしまいます。なんとか先頭集団の後方5mに食らいついている、というのがいまの私のポジションでしょうか。実に危うい。次の給水ポイントはまだかしら・・・そんなこと考えているようでは、途中棄権もあり得るかな。〈kimi〉

ラーメンフリーク

最近は嗜好が変わってきて、ほとんど興味を失っておりますが、かつてはかなりのラーメン好きでありました。その残滓がときたま頭をもたげることがあって、ある日突然、山梨県某市の極めてわかりにくい場所に存在するというラーメン屋へ行ってみたくなってしまいました。
食い物をおいしくいただくには空腹であることが絶対の条件。ちょうどよい時間に現地に到着するようカーナビゲーションをセットして午前10時30分かっきりに自宅を出発しました。
「このあたりです~」とカーナビが任務終了を宣言したのは、地方のなんでもない住宅地のド真ん中。こんなところにラーメン屋が成り立つのかなあ、と心配しつつ前進したり曲がったりバックしたりしているうち、ようやくその店を見つけたのはちょうど12時でした。カウンターのみ10席ほどの店内は満席で、店の前には3人組とカップル計5名が行列していました。行列ができる店が大嫌いな私ですが、1時間半もかけてやってきた以上は列ばないわけには行きません。30分待ってようやく入店することができました。
さて、不思議な光景に出会ったのはそれからです。行列をしていたときは一切会話を交わすことがなかった3人組とカップルが黙礼を交わしました。しかも3人組は先に入店していた客とも黙礼を交わしたではありませんか。そればかりではありません。5分後に私の後から入店した3人の中年女性は先の3人組に「ああ、こんにちは」と挨拶をしました。どうなっているのでしょう。私以外の客がすべて知り合いだなんて・・・これはもうカフカか安部公房の世界です。
地方の町のことだから、みんな顔見知りということはあり得ます。初めはそう思いました。しかし、彼らの会話を聞いていると、どうも違うようです。そこで思い当たりました。
彼らは東京から来たラーメンフリークたちではないか。有名店、評判店を食べ歩き、あちこちの店で出会ううちに顔見知りになってしまった・・・そのような結論に達したのでした。これは驚くべきことではありませんか。
日本のラーメンブームもかれこれ30年以上は続いているようで、こうなるとブームとも言えず、かと言って文化というほど立派なものとも思えず、なんと表現してよいやらわかりませんが、とにかくいまの日本には相当数のラーメンフリークが存在しています。彼らが次々に開店するラーメン屋に試食に訪れ、このような地方の店の経営も支えている。ラーメン店の市場規模は4,000億円以上とも言われていますが、彼らラーメンフリークたちによる部分は一体どのくらいあるのでしょう。
そうそう、その店のラーメンの味について書くのを忘れていました。少なくとも私は一回行っただけで十分満足いたしました。二度と訪れることはないでしょう。〈kimi〉

何を持ち出すか

福島第1原発事故の警戒区域で、一時帰宅が昨日ようやく始まりました。2時間という短時間の中で、それも防護服やマスクをつけての作業では、必要なものをすべて持ち出すことはさぞ困難だったでしょう。自分だったら、何を持ち出すだろうと考えたのですが、通帳や印鑑といった公的手続きに必要なものはともかく、それ以外で優先順位をつけるのはかなり難しい。悩みに悩んだ末に、結局つまらないものを持ってきてしまいそうな気がします。
新聞やテレビの報道によると、アルバムと位牌を持ち帰った方が多いようです。
アルバムは、70年代のテレビドラマ「岸辺のアルバム」以来、家族にとって大切なものという認識が広く共有されるようになりました。とくに自宅に帰れず避難されておられる方々にとって、家族の絆の証であるアルバムはよりかけがいのないものとなったことでしょう。
位牌については、持ち帰った方と花を供えて帰った方がおられたようです。宗教心というよりも、これも家族との絆の象徴と考えられます。どちらにしても、お位牌が無視しがたいものであることは間違いありません。位牌なんて、戒名を書いた木札に過ぎないという考え方もあり得るでしょう。お骨はお墓に埋葬してあると考えれば、持ち出すべきより重要なものがほかにあるかもしれません。
自分ならどうする。自宅の仏壇には、お目にかかる機会のなかったご先祖様も含めていくつものお位牌が祀られています。戦死したご先祖のもある。戦死ったって、第二次大戦ではありません。幕末の戊辰戦争です。それらの位牌を自分ならどうするか。
停電もなくなった東京で、そんな想像をいくら巡らせていても結論は出ません。しかし、いつになったら戻れるか、先の見通せない状況では、お位牌はやはり持ち出さなくてはならない重要アイテムなのだろうなあ、などとも考えました。
ここには日本人の信仰、考え方、心の動き、文化のありよう、人間関係、価値観・・・そんなものが残らず凝縮されています。このような日本人を理解できること。これこそ日本で広報の仕事をしている人に求められている最も大切な能力であると、これだけは確信できるのですが。〈kimi〉

お箸が足りないんですって

いま東北の被災地がどのような状態であるのか、テレビや新聞で報道されてはいるものの、東京にいては本当のところがわかりません。避難所には十分物資が届いているのかどうか・・・。一方で、支援物資として送られてきた大量の古着の処理に困っているという報道もあります。
そんな折り、避難所ではお箸がなくて困っているという話が飛び込んできました。又聞きの又聞きなので間違っているかもしれませんが、こういうことらしい。
避難所には割り箸はある。しかし数が足りない。そこで割り箸を洗って使っている。本来割り箸はシングルユースなので、何回も使っていると汚れてくる。また、日本の家庭では箸は個人使用。一人一人決まったものを使うのが習慣です。そういうことで、避難所におられるみなさんは箸がなくて困っているというわけです。意外なものでご不自由されているんですね。
そこでココノッツでは、この連休に石巻に支援に向かうグループにお箸を託すことにしました。
お送りしたお箸
お箸の中味
100均で仕入れた箸で恐縮ですが、お役に立てばうれしいです。〈kimi〉

これでよいとは思いませんが

私は菅直人という人に一度も会ったことがありません。ましてや腹を割って話したこともない。メディアを通して、その行動の一端については70年代から伝え聞いてはおりますが、実際にどんな人物なのかはまるで判断がつきません。
その首相に対する批判がメディアで高まっています。とくにいくつかの新聞は、その一挙手一投足についてことごとく批判を展開しています。どんな思惑があるのか知りませんが(うすうすはわかっておりますよ、もちろん)、そこまで書かれるのですから、菅首相もお世辞にもうまくはやれてはいないのでしょう。
しかし、だからと言って他の誰かが政権を担えばうまくやれるのかと言えば、決してそうとも言えません。誰がやっても五十歩百歩。画期的に事態が改善するなんてことは望めません。日本が緊急事態に直面しているこんなときに政局を混乱させてはかえってマイナスでもあります。
それよりも気になるのは素朴な「強いリーダー待望論」が高まっていることです。強力なリーダーが一人であれこれ指示を出せば、物事の進行が多少は速くなるかもしれません。しかし、それに従って誤った指示を出す確率も高まります。さらに問題なのは、一つの価値観ですべてを決定してしまうことです。それによって不幸になる人たちが必ず出て来ます。多くの場合、幸福になる人たちより不幸になる人たちの方が多くなることは、過去の歴史からも明らかではありませんか。
現政権を支持しているわけではありませんが、妙な独裁者が登場するよりはよほどマシではないか、と考えつつ今後の成り行きを心配しております。〈kimi〉