誰と話しとるねん?

電車やバスの中で携帯電話の通話を禁止している理由は、いまや根拠が希薄になっていまったペースメーカーへの影響は別として、周囲の客への迷惑という一点に絞られます。それなら団体で乗り込んで来て大騒ぎをする中高生のスポーツチームや酔っぱらいの三人組四人組も断固として乗車を拒否してほしいものです。そちらの方は見て見ぬふりをしているのはいかがなものか、と思わないでもありません。
そもそも自動車が初めて走った頃は、車の前に旗を持った人を走らせたとか。自動車が普及するに従って、そんな風習は廃れてしまいました。これだけ携帯電話が普及して、乗客のほとんどが携帯電話を所持している現在となっては、通話を解禁しても文句は出ないだろうとも思うのですがね。その上いまや通話よりメールの時代になってしまったし。
と、そんなことを考えながら大阪の心斎橋近くの裏道(風俗店案内所の林立しているあたりではありません。念のため)を歩いていたら、
「そっちに行ってもいいんやけどな。今日は背広も着ておらんし・・・」
なんて大声で独り言を言いながら歩いている男に出会いました。にわかに状況がつかめませんでしたが、この男、運転中などに使用する携帯電話のハンズフリーセットを使って歩きながら誰かと話しているのでした。周囲の騒音に負けじと大声で話しているので、街中でも相当うるさい。はた迷惑もよいところでしたが、歩行中のハンズフリー使用禁止という条例はまだどこの市町村にもないようです。
会話の相手がその場にいないという違和感と、携帯電話での会話は必要以上に声が大きくなるという特性の両面から、車中での携帯電話の使用はこれからもしばらく禁止されつづけるのかもしれませんが、それがいつまで続くのか、これは推理しがいのある問題です。〈kimi〉

書かなくなると・・・

ブログも書かなくなると、ズルズルと日が経ってしまいます。書ける材料は次々に現れるにもかかわらず、です。
それというのも、あまりにも腹立たしいことは書きたくない。誰かを傷つけるようなことも書きたくない。商売に影響することも書きたくない(ズルイ!)。そうかと言って、ゴマを摺るようなことも書きたくない。いくつかの材料を前にして消去法を使ったら、何も残らなくなってしまいました。この状態を一般には「書く材料がない」と表現するようですが。
で、ようやく書く気になるテーマが見つかりました。メールの返信についてです。
自慢じゃありませんが、私はすぐに返信する人です。インターネットメールというシステムは、確実性において日本郵便のハガキや封書に及びません。すぐに返信することで送信者に安心していただこうという気持です。礼儀でもありますしね。
即座に内容のある返事ができないときなどは「とりあえず」の返信をしておくことにしています。もっとも、わざと返信を遅らせて相手をじらすこともありますが、これはめったにやりません。
さて、ある日の午前中に3通のメール出したのですが、1週間誰からも反応がありません。システム異常で届かなかったのではないかと心配になって、一人の会社に電話をしてみたら、「長期出張に出ています」とのこと。たぶん海外ということでしょう。それなら返信がないのも当然と安心しました。実際、その数日後に返信をいただきました。では、あとの2人は? 依然として音沙汰なしです。とくに腹立たしくもなくなったので、ブログの材料といたしました。〈kimi〉

テロップ邪魔だよ!

最近、アナログでテレビを見ていると、画面の下に、早くデジタルに切り替えろというテロップがひっきりなしに出てきます。目障りったらありゃしない。総務省の立場に立てば、来年7月24日のアナログ放送終了までにもれなく切り替えてほしい、という気持もわからぬではありませんが、だからと言って、これまで平和にアナログ放送を楽しんで来た人たちの邪魔をすることはないじゃありませんか。これはひどいよ。
さらに言えば、この邪魔なテロップはCMのときは入らないんです。画面サイズの問題もあるんだろうけど、これもひどい。
長く広告主(近頃はアドバタイザーと呼ぶことにしたらしいのですが)の側に身を置いて仕事をしてきましたので、広告界の事情はよ~く理解しておりますが、デジタル化はコンテンツもCMもひっくるめて実施されるわけですから、CM枠だけ例外扱いというのはどう考えても納得できません。理性と良識のある広告主さんなら、これは理解するはず。理解していないのはテレビ局と広告代理店だけではないかしら。そもそもコンテンツあってのCMであることを忘れているんですよ。それがテレビ広告費の減少の大きな要因の一つであることもね。〈kimi〉

褒めてもいいじゃない

幼い頃、総理大臣はみな悪人であると思い込んでいました。総理大臣の何が悪いのか、もちろんよくはわからなかったのですが、そう思い込んでいたのは間違いありません。
物心がつくころは「アンポ・ハンタイ」の岸信介氏が総理大臣でした。失礼ながらどう見ても善人顔とは言えない人物でしたので、余計にそのようなイメージになってしまったのかもしれません。
実はその後も長く総理大臣や閣僚にはロクな人物はいないという固定概念から離れられませんでした。その原因は・・・他人のせいにしてはいけませんが、やはりマスコミの影響だと思います。
総理大臣になるまでは、いくらか公平に評価されていた政治家でも、その地位についた瞬間からマスコミの猛烈な批判にさらされます。現在進行形の政策を好意的に評価するメディアは、日本にはまず存在しません。
権力の監視がジャーナリズムの重要な役割であることは理解していますが、日本のメディアはもう少しニュートラルな論評ができないものでしょうか。総理経験者が亡くなり、当時の関係者もほとんど鬼籍に入ってしまった何十年後かに、ようやくあの政策はよかったと評価される。それでは遅過ぎませんか。
イデオロギーによってすべて賛成すべて反対という時代ではありません。個別の政策ごとにそれなりの評価は可能です。
人を育てるには褒めなければならない、という意見が目につくようになったのは90年代からでしょうか。そんな甘っちょろいことで人は育たぬという反対論もありますが、私は褒めることに賛成です。政治家だって人間ですから、批判される一方でポジティブな評価もされるというバランスのとれた環境でこそより正しい方向が選べるのではないか。褒めることで総理大臣を育てる、という視点も必要ではないかと、書生論ではありますが、思うのですよ。〈kimi〉

新体験、その後

その後
お見苦しい画像で恐縮です。6月18日のブログに書いた「新体験」のその後のご報告です。
この猛暑が異常気象であるとはまだ誰も想像していなかった夏の初め、むき出しの頭皮に直射日光が照りつけた瞬間に、コリャたまらん、と私はすべてを悟ってしまい、銀座の帽子屋に駆けつけました。「一番涼しい帽子をください」と言ったら、「麦わら帽子の少し高級なものと思ってください」と店員さんが出してくれたのが手編みのパナマ帽。それでなんとか頭皮が赤むけすることなく夏を乗り切ることができました。涼しいかと思ったら、案外涼しくないんですね、こういう頭。
それで、お盆過ぎから伸び始めた髪がいまはこの状態。さわるとほわほわして実によい感触です。日本製最高級化粧筆、いわゆる熊野筆そのものです。貂やミンクの毛皮の手触りと言っても決して過言ではありません。「とっても気持いいよ」と誰彼かまわずお誘いしているにもかかわらず、肉親親族を含め誰一人、未だこの素晴らしい感触を味わった者はおりません。〈kimi〉

ケイタイ優先

不思議な光景を見てしまいました。
一昨日のことです。地下鉄有楽町駅のホームからエスカレーターに乗ろうとしたら、なんと上りが停止中。身の不運をかこちながら横の階段を上ろうとしたそのとき、それを目にしたのでした。
停止している長いエスカレーターの途中に男が一人、女が一人、乗ったまま動こうとしないのです。停止して間もないので動き出すのを待っているのでしょうか。それにしては、すでに他に誰もいません。ケガでもして動けなくなっているのかとも思いましたが、ひたすら静かに直立しているのです。実に不思議な光景です。カメラを持っていないことをちょっと悔やみました。階段を上っている人たちの何人かも、怪訝な顔でエスカレーターをのぞき込んでいます。
事情は間もなく理解できました。彼らはケイタイでメールを読むか打つかしていたところ、乗っていたエスカレーターが停まってしまったのです。そこで、歩いて上るよりもケイタイの操作の方を優先した、というわけだったのです。
これって、なにかヘンではないですか。ご本人たちはちっともヘンだとは思っておられないのでしょうが、エスカレーターをのぞき込んでヘンな顔をしていた人たちも、きっとヘンだと思ったに違いありません。
私もたまにはやってしまうので、大きなことは言えませんが、歩きながらのケイタイの操作はとってもハタ迷惑です。前方への注意がおろそかになるので危険ではありますし、歩く速度が遅くなって人の流れを妨げます。彼らもまた、ケイタイの操作を他の何事よりも優先させているのです。それって、やっぱりヘンじゃないですか。〈kimi〉

ジョブズのプレゼンテーション

アップルのCEOスティーブ・ジョブズのプレゼンテーションに最近関心が集まっています。その様子はYouTubeでも見ることができますが、あんなプレゼンができるCEOは、いまの日本には存在しないと断言しておきましょう。そもそも大企業のトップがあのようにフレンドリーに聴衆に話しかける場が日本にはありません。
一言で「国民性の違い」と片付けてしまうのは大いに危険なのですが、日本人の経営者にジョブズ氏のごとく語りかけられても、気味が悪いでしょう。何か下心があるんじゃないか、と疑いたくなるに決まっています。
日本語に訳されたいくつかのジョブズ氏の発言を読むと、その文体の違いによって、ジョブズ氏がずいぶん異なった人格であるかのように思えてしまいます。これは翻訳の上手下手ではなくて、フランクにかつフレンドリーにプレゼンテーションするときに使う日本語の文体(話し方)が未だ確立していない証拠です。
ジョブズ流のプレゼンテーションがいくら話題になっても、日本人のプレゼンはしばらくは現状維持ではないかと予測しております。〈kimi〉

これが敗因

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昨夜は、早稲田大学が主催するIRセミナーで1時間ばかり話をしてきたのですが、申し訳ないことに、どうにも調子が乗りませんでした。
考えられる原因は2つ。一つは久しぶりの教壇であったこと。もう一つは疲労困憊であったことです。
先週から仕事が重なり、土日も出張。その上、かんかん照りの中をあちこち歩き回ったすえに教室に入りました。これが敗因です。やはり講義は万全の体調でやらなければなりません。休みをとりたいのですが、今週は無理、と先ほどわかってがっかりです。
上の写真は、出張のついでに撮った北海道の風景。水平線が傾いているのかカメラが傾いているのか。たぶん後者でしょう。〈kimi〉

「暮らしの手帖」の現在価値

今週の「週刊東洋経済」(7/17)に、暮らしの手帖社社主大橋鎮子さんのインタビューが掲載されていました。「暮らしの手帖」、数十年前なら広報関係者が毎号、多少の緊張感とともにチェックしていた雑誌です。
以前勤めていた会社の当時の主力製品は、この「暮らしの手帖」の商品テストに取り上げられ、評価されたことで市民権を得て売上げを大きく伸ばしました。それは会社の「伝説」と化し、社史にも掲載されました。
それから何年か経ち、その製品に対して世の中にアゲインストの風が吹き始めました。そんな折り、暮らしの手帖社から、新型となっていたその製品を再び商品テストすると伝えられました。
広報担当者の私は、製品について正しい内容を知っていただこうと、暮らしの手帖社に何度も足を運びました。あのときも夏でした。当時の編集部は六本木駅から少々の距離にあって、汗をふきふき歩いたことを思い出します。
出版社とは思えぬ西洋仕舞た屋風の社屋、リビングのようなインテリアと家具。いかにも「暮らしの手帖」の精神を表現しているようにも思えました。
成熟した商品経済の世に、「暮らしの手帖」の商品テストは消費者の関心を呼ばなくなり、その役目を終えたようです。しかし一方、いまの消費者は、ネットのクチコミなどを参照して、事前に商品情報を得てから購入行動に移ると言われています。あの商品テストは、現在にこそ価値があるような気がするのですが、時代との皮肉なミスマッチとなってしまったのでしょうか。〈kimi〉

ヤヤ!毎日jpは読んでいたのか?

驚きました。実に驚きました。
29日のこのブログに、毎日新聞のサイト「毎日jp」に関して、「トップページのデザインに難ありです。タテ4段割りがチマチマした印象を与えています。」と書きました。すると、30日の夕方、突如毎日jpのトップページのレイアウトが変更になったのです。
新しいレイアウトは朝日や読売と同様のタテ3段組みで、ずっと見やすく改良されています。
どうして突然・・・。毎日jpはこのブログを読んでいるのでしょうか。まさかね。〈kimi〉