一年前のその日

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まったくの偶然ですが、ノートルダム大聖堂を見学に行ったのは、火災発生のちょうど一年前に当たる2018年4月15日、日曜日の朝でした。聖堂の中に入るとオルガンの深い音色とテノールの美しい歌声が聞こえてきました。ミサというものを見たのは、実はこれが初めてでした。その一年後に火事になるなどとは思いもせず、その賛美歌にしばし聞き惚れていました。写真を撮ってはいけないのかな、とは思ったものの異教徒の図々しさで何枚か静かにシャッターを切りました。これがその一枚。写真のタイムスタンプでは午前9時30分。
多くのフランス人が感じたであろう喪失感にはほど遠いのでしょうが、一ツアー観光客としても残念な思いは共有できます。

じいさん宣言

認めたくはないものの、一つの区切り(元号ではない)が来て、どこをどう見ても「じいさん」に間違いないという状況に立ち至りました。かくなる上はと開き直って、これから死ぬまでじいさんをやっていく覚悟です。
自分自身が若い頃から「長幼の序」など意に介さずにきたバチが当たって、いまさら若いモンに「じいさんを敬え」などとは言えません。その上、よそのじいさんたちを観察していると、じいさん特有の悪癖というか悪弊というか、若い人たちに嫌われる要素が多々あることに気づきます。自分のことを棚に上げて言うのもナンですが。
朝の連続テレビ小説で草刈正雄演じるじいさんが「一番悪いのは他人が何とかしてくれると思って生きることじゃ。人は他人をアテにする者を助けたりはせん。逆に自分の力を信じて働いていれば、きっと誰かが助けてくれるのだ」なんて名ゼリフを吐くのは、あれはドラマだからであって、実際にそんないいことを言うじいさんは近頃お目にかかったことがありません。
先日亡くなった橋本治さんが30代初めに書いた文章に「ジイサンというのは、ひょっとしたら時代とは関係なく生きていられる自由な存在なのかもしらん」*というのがあります。これもまたじいさんの一面かもしれません。上司だの部下だのお客さんだの先生だの、もうなんにも関係ない。ようやく手に入れた自由、勝手気ままができる反面、誰も助けてはくれません。それ故に抑制が利かなくなってしまい、若いやつらばかりでなく、社会全体から疎まれ、置いてけぼりを食うということになってしまうようです。

*「よくない文章ドク本」所収「『現代青春小説』のガイドブックの無削除版」

カメラ好きは写真がうまくない?

写真の愛好家やカメラマンにはよく知られている事実ですが、世には機械としてのカメラ自体が好きな人と、写真を撮ることが好きな人と、どちらでもない人の3種類の人たちが存在します。圧倒的に多いのが3番目であるのは言うまでもありません。観光地へ行って記念撮影する人たちや子どもの成長を記録する人たちも、3番目に入れてよいでしょう。
最近はスマホでランチの写真を撮ったり自撮りしたりしてSNSに投稿する人が増えています。このような人たちは写真を撮ることが好きな人たちと分類してよさそうです。
実は先日、あるグループの写真展で自作を3点ばかり展示してもらいました。参加を申し込んだときは意識していなかったのですが、このグループはカメラ好き、いやカメラ蒐集マニアの集まりでした。ある参加者に「何台くらいお持ちなんですか?」と尋ねたら、「500台くらいですかね」と素っ気なく答えてくれました。さらに「最近は写真を撮るのが面倒になっちゃって、ほとんど撮らないんです。撮るときはスマホです」と続きました。
一般論ですが・・・と断っておきますが、カメラ好きは写真がうまくありません。写真を撮るのが好きな人のすべてが写真がうまいとも言えません。写真がうまい人は写真を撮るのが好きな人です。また、写真がうまい人はカメラ好きでもあります。
長年の観察から得た結論ですが、さて論理的に整合性がとれているのかどうか・・・。

してやられた上に期待はずれ

ある朝、目覚めてすぐに枕元に置いているスマホを見ました。たまたまです。するとamazonがいまセールをやっているという記事が目に飛び込んできました。起床する時間まで少々間があったので、どれどれとamazonを覗いたのがいけませんでした。電子書籍リーダーのKindleも安くなっている。しかもセールの終了時間が迫っている。こりゃあ急いで買わなくては・・・。
というわけで、まだ十分に脳が覚せいしていないところでポチったのでありました。送られて来たのは一番安いモデルです。実は照明つきホワイトペーパーの上位モデルがほしかったのですが、あとで調べたらそちらは倍近いお値段でした。いくらセールでもそんなに安くなるはずない。まあ、安かったからいいか、と納得というか諦めというか、いずれにしてもまんまとamazonにしてやられたことに変りはありません。
Kindleを買う気になっていたのは、今期の直木賞を受賞した「宝島」を読みたかったからです。書店で見た単行本はものすごく厚くて重たい。私の読書は主に電車の中ですから、これを持ち歩くのはしんどいなあ。そこで電子書籍のファイルをダウンロードしたのですが、スマホではやはり読みにくい・・・と、amazonの手中に落ちた背景にはそんなことがありました。
そこまでして読んだ「宝島」なんですが、どうして評判がよいのかさっぱりわかりませんでした。たとえば人物描写がお粗末で、主人公である二人の男性の人物像が重なってしまって違いがわからない。 ヤマトンチュー(本土の人)が戦後の沖縄の歴史を調べまくり、「いかにも沖縄」風の描写やエピソードや方言を総動員したみたいな小説と言ったらいいかな。文芸評論家ではないからただの感想ですが、私には期待はずれ。
さて、次はKindleで何を読もうかな。青空文庫から著作権の切れた作家の作品でもダウンロードしましょうかね。なにしろタダですから。

インターネットでは難しいかなあ

Facebookに猫を探していますという投稿がありました。いずれも東京の郊外のお宅から失踪したようです。飼い主の必死の思いが伝わってきますね。見つかるとよいのですが、一般論として、猫探しにネットは効果が薄いのではないかと危惧します。猫の行動範囲はせいぜい数キロでしょう。となると、骨の折れる作業だとは思いますが、近所を回って電柱などにポスターを貼って行く方が効果的かもしれません。ネットの利用は手間なしではありますが、地域内での情報密度はかえって薄いと考えられます。
一般論としては広報も、地域が限定されればされるほどやりにくくなります。たとえば地域の中小病院の場合は、いわゆる広報活動よりも広告宣伝あるいは販促の手法の方が効果的だと思います。患者を集めたいという目的なら、医療圏の問題もあってなおさらです。
広報エージェントをやっていると、なんでも広報の手法で解決したくなりますが、広報には広報の得意な分野があり、得意でない部分は手を引いて、他の手法を考えるのが効率的であると自戒を込めて考えます。

小賢しいことするんじゃね~や!

昼食に入った店のテーブルに、見慣れぬ金属製のプレートを発見しました。禁煙マークがあり、その横に見慣れぬマークがあります。「禁煙、Ploom TECHだけ」。たばこを吸わない筆者には、何のことかにわかに理解できませんでした。やがて、はは~んと推測できました。Ploom TECHって、電子タバコとか加熱タバコっていうやつの商標かな? ということは、加熱タバコだけは吸っていいよ、それもPloom TECHというブランドのものだけよ、ってこと?
店の熟年おねえさんに、「これって、たばこ屋が置いて行ったの?」とたずねたら、「そうです」という返事。これですべてが推測通りとはっきりしました。
マーケティングの手法としては見事ですね。よく考えたなあと思います。しかし、だんだん腹が立って来ました。小賢しいことするんじゃね~や!

nって何?

自宅の机のひきだしを引っかき回していたら、古い電卓を見つけました。おお、まだそこにいたのか? これはただの電卓ではありません。統計計算専用の電卓です。
学校時代に統計を習った記憶はありません。数列から先はさっぱり理解できなかった数学オンチですから、模擬試験の結果と志望校の偏差値以外に統計とか確率なんかに関心を持つはずもありません。偏差値だって、その本当の意味するところは知りませんでした。ところが、マ-ケティングの仕事などをカジるようになると、統計の基礎を知らないと何を言っているのかさっぱりわからんなあ、ということになってしまいました。nもσもチンプンカンプンではねえ。
本を読んでもよくわからず、ついにセミナーに参加しました。最初に受けたセミナーでは、どのように計算したのか覚えていませんが、その後に参加したセミナーではこの統計電卓の使用が前提となっていました。
セミナーで教わった計算方法などはすべて忘れました。しかし、統計がどのようなものであるかはおおよそわかりました。サンプル数やサンプルサイズの重要性もおぼろげながら理解しました。それはその後の仕事に大いに役立ったと言えます。
統計電卓の電池はすでに消耗しきっていました。そう言えば何年か前に電池を交換した記憶があります。それ以来一度も使わないまま、再び電池が切れたのです。なんかさびしい気がして、またまた新しい電池に入れ替えました。でも、また使わないうちに電池切れになるのかも。そんなことなら、いっそのこと厚生労働省に寄付しようかな。

初恋の味は・・・

どっちだろう?

断捨離はくたびれます。体力を消耗します。精神的な疲労も思いのほか蓄積します。だからどんどん進めるわけには行きません。2週間にダンボール1箱ペースがやっとです。
先日、押入から1箱引っ張り出したら、古い写真がいっぱい入っていました。高校時代のスナップ写真、若いときカメラに凝って撮ったネガとプリント、子どもの写真、亡母が大事にしまっていた写真などなどです。一枚一枚丹念に見ていたら、それだけで1ヶ月はかかりそうで、考えるだけで疲労を感じます。
そこでパラパラとめくっていたら、思わぬ写真を発見しました。初めて好きになった同級生の写真です。と言っても写っているのはただの女子中学生。懐旧の情をもって眺めたのは事実ですが、少しもときめきません。「どうしてこの人を」というのが実感です。想い染めし相手を貶める形容詞は控えさせていただきますが、落胆してしまったことは白状します。20歳のときにこの写真を見たら違った気持になったかな。40歳だったらどうだったでしょう。そこのところはわかりませんが、この年になると極めて冷ややかに見てしまうのです。枯れちゃったのでしょうか。そう思うと少々残念ではあります。
カルピスが今年、発売から100周年を迎えるそうです。カルピスと言えば「初恋の味」なんてコピーがすぐに浮かんでくるのはある年代以上の人でしょうが、少しも甘酸っぱくはありません。この味は一体なんだろうとあれこれ考えて、やっと思いつきました。
初恋の味はホッピーの味
ホッピーだけをいくら飲んでも、苦いばかりで少しも酔うことはありません。

月刊住職は面白そう

今日の朝日新聞の出版広告をぼんやり見ていたら、「月刊住職」の広告が目にとまりました。以前にも書いたことがありますが、いつもいつもこの雑誌の見出しは面白い。
「都道府県寺院密度と寺院消滅予測度と住民幸福度はつながっている」というのは、どんな記事なんでしょう。お寺の密度が高いと幸福なんでしょうか。お寺がなくなると不幸になるのかなあ。そう言えば過疎化が進むとお寺も維持できなくなると聞きました。どんな相関関係なんでしょうね。
「学生減 宗門大学11校の現状とサバイバル」 お寺さんが経営している大学を宗門大学と呼ぶんですね。京都のさる宗門大学の職員さんによるFacebookの書き込みを読むと、関西から北陸、四国の高校や予備校を軽自動車で行脚して説明会を開いておられるようです。
「終活世代にせまる親の葬儀と自分の葬儀」 お葬式の専門家であるお坊さんも困っているんですね。ちょっと意外。
「なぜ寺に奥の院があるか」 なるほど。本堂のさらに奥、山の上に奥の院があったりしますね。なぜなんでしょう。
「お寺のライトアップを必ず成功させる秘訣」 現世的なテーマで、思わず笑っちゃいました。桜の季節に京都などに行くと、ライトアップする夜間だけ高い別料金をとるお寺が少なくありません。あれはどうも気に入りませんが、おいしいビジネスなのでしょう。
「佐渡にウサギ観音が現れた訳」 これはなんだかわかりません。在家の人間にはどうでもいいいいようなことだけど。
「人工知能は何を変えるか」 お寺にもAIを活用する余地があるのでしょうか。お布施の額と葬儀の参列者の数を読み取って、自動的にお経の長さを変えるとか・・・?
この雑誌を宣伝するつもりはありませんが、なんとなくユーモアを感じます。小難しい仏教哲学や説教などは全くなくて現世利益に徹しているところが潔い。買ってみたい気もするし、1,740円は高いような気もするし。

自画自賛否両論

この「Guessのかんぐり」をほめてくれる人がいました。学生時代からの友人ですが、その人も編集・ライター稼業のプロなので、わかる人にはわかるんだなあ、とこちらはいい気分になりました。
と、これは本当の話ですが、「友人がほめた」というのは他人からの評価で、それを「ここに書いた」というのは自画自賛というものでしょう。
少し前にこんな経験をしました。あるイベントが大変よい成果を得たので、終了後に担当者をほめようとしたまさにそのとき、その担当者自身が言い放ちました。「私ががんばったらうまく行ったんです」 その瞬間、ほめ言葉が引っ込んでしまいました。ムムムムム。 ほめたいと思ったのに、ほめられなくなってしまいました。自画自賛以上にこちらがほめて上げればよいようなものですが、そんな気力も吹っ飛んでしまいました。お互いに、こんな不幸なことはありません。
長い会社勤めの間には、一生懸命仕事をしてそれなりの実績を上げたにもかかわらず、ちっともほめられない、という経験をずいぶんしてきました。実にくやしい。誰かに自慢したい。その気持が抑えられなかったこともしばしばですが、自分から口に出して逆効果になってしまったことが多かったかな。かと言って、評価されるまで何年も待つというのもねえ。「黙っていれば必ず誰かが見てくれているもんだよ」などというおためごかしの常套句ほど怪しいものはありませんが、ときたまその実例に遭遇するから話がややこしくなってしまいます。
自分の手柄でもないことをすべて自分の実績だと本社にレポートする外国人マネージャーもいました。そんなインチキレポートをそのまま信じる上司の目も節穴だと思いますが、それが見事に成功したと思われる実例もありましたから、このあたりがまた実に難しい。
企業人ではなくて、企業そのものの場合は黙っているばかりではいつまで経っても評価されません。評価されるまでの時間をコストと考えるべきだと思います。いいことをしたら、それをアナウンスするのは説明責任の一部と言えるでしょう。人事評価と広報活動とは分けて考えないといけませんね。