毎朝、各紙をパラパラめくるのは、広報を生業としている人間の基本とも言えますが、白状してしまうと、私はしばしばそれを怠けております。企業の広報責任者をしていたときからの悪いクセなのですが、片付けなくてはならない仕事が目の前にぶら下がっていると、どうしてもそれを優先させてしまうのです。そうこうしているうちに時間はどんどん過ぎて行き、夕刊が来てから朝刊を開いたり、ということになりがちです。
最低限読んでおかなくてはならない記事はシステム的にクリッピングされますから、問題ないと言えばないのですが、ときどきは重要な記事を見逃してしまいます。やはり新聞のパラパラは、広報の人間には重要な所作なのです。
その代りと言ってはナンですが、ネット上の各紙のサイトには1時間おきにアクセスしてチェックすることにしています。意識的にやっているというよりも、仕事にちょっと疲れたとき、世の中どうなっておるかな、とアクセスして一息入れるのが習慣となってしまったのです。
まず見るのが、朝読日経の「くらべる一面 新sあらたにす」という訳の分からないタイトルのサイトです。これはほとんど読むべきところがありませんが、お薦めは右下の「新聞案内人」というコラム。各紙OBによるちょっと辛口の評論がなかなか読ませます。
次にasahi.com。オーソドックスなページデザインで、読みやすいのが利点。近頃、MSN産経ニュースの真似をして(失礼!)、総理インタビューの完全収録など、長い原稿も掲載しています。
ついでながら、ここから朝日の読者会員サービスである「アスパラクラブ」にリンクしています。そこに弊社の医療ジャーナリスト田辺功が『医療よもやま話』を執筆しています。
YOMIURI ONLINEも読みやすくて気に入っております。速報性はasahi.comとほぼ同等でしょうか。情報量が多い印象です。
毎日jpは、トップページのデザインに難ありです。タテ4段割りがチマチマした印象を与えています。速報性は朝読に完全に及びません。情報量も少ない。ネット上の一時の混乱は過ぎ去ったものの、すっかりネット上でのやる気を失ってしまったのでしょうか。
MSN産経ニュースは私が楽しみにしているサイトです。ときに政治的な熱の籠もり過ぎた記事があってシラケますが、事件物は週刊誌的になかなか読ませます。
最後に有料化したNIKKEI NET。これが問題です。アクセスすると、一瞬「日経新聞電子版誕生」というインデックスページが表示され、その間に購読者か無料読者かがふるい分けられます。ほんの一瞬ではあるものの、これがなんともうざったい。私はレッキとした電子版の自腹購読者です。にもかかわらず、その一瞬があるために、ここにアクセスするのがおっくうです。気が重い。また、電子版の購読者は、紙と同じ記事が読めることになっていますが、ネット上では一覧性が著しく劣ります。新聞パラパラの方が、全紙面をすばやく把握でき、読みたい記事がはるかに見つけやすいのです。これは紙の絶対的に優れた点です。新聞の発行部数は長期低落傾向を示していますが、この優れた一覧性によって、いつか、あるところで歯止めがかかるような気がします。そのとき、新聞社の収支がバランスするかどうかは、また別の問題ですが。〈kimi〉
広報は複雑系
つくづく思うのですが、広報の仕事って本当に複雑系ですね。広報の担当者が直面する問題は、いつでも、どんな場合でも、いろいろな要素が複雑に絡み合っていて、簡単にエイヤッと結論に導くことができません。
あちらの顔を立て、こちらの顔を立て、なだめたりすかしたりしながら、落としどころを探して行く。「よし、やったあ」といったすっきりした成果が得られず、「まあ、仕方がないか」と自らを納得させるようなことも少なくありません。しかし、それに耐えて行かなければ広報の仕事はできません。
複雑系ですから、目の前に突きつけられた多くの要素の中から、どれがより重要で、どれを無視してもよいのか、一瞬にして見分けることも求められます。広報の能力の一つは、どれだけ多くの要素を判断の根拠に取り込めるか、ということかもしれません。複雑に絡み合った多くの要素の中から、3つしか判断材料にしない人と、10の要素をもとに判断する人では、後者の方がたぶんよりよい結論を導き出せるでしょう。
しかし、こうすれば最適解が得られるといった法則や原則は、広報にはありません。そこで経験がものを言うわけですが、経験だけで解決できるというものでも、またありません。何年か前に得た経験を目の前の課題に当てはめようとすると、高い確率で失敗します。
数多くの経験の積み重ねから、一種の能力や勘のようなものが醸成できてはじめて成功確率が上がってくるようです。
もう一つやっかいな問題が存在します。感情です。人間ですから、どうしても感情から逃れられません。好き嫌いや、個人的な野心などが判断を曇らせます。それらの有害な要素をいかに排除するか。客観的になれるかなれないかには個人差もあるし、どうしても自分のプライドが許さずに身動きがとれなくこともあります。
広報の仕事はまったく複雑系ですが、一方で、記事になった、番組に取り上げられた、問い合わせが急増したといった単純明快な成果で大喜びすることができる仕事でもあります。それでなくちゃやってられないですよ。あれっ、こんなこと書いちゃってよかったかな?〈kimi〉
けじめ
とくに秘密でもプライバシーに関わることでもないのに、こちらの何気ない質問に答えを言いよどんだり、いかにも話したくないそぶりを見せる方がいます。こういう方とやりとりしていると、さっぱり状況がつかめなかったり、どこか合点が行かない部分が残ったりするものです。慎重派。ガードが堅い。秘密主義。いろいろな表現ができると思いますが、それはそれで個性の一つですから、あえて目くじらを立てるべきものではありません。
しかし、企業で広報の仕事をしておられる方においては、これはちょっと困った性向ではないでしょうか。
取材する側からすれば、それが広報担当者自身の性格なのか会社の企業姿勢なのか、にわかには判断がつきかねます。しかし、最初に受けた秘密主義的な印象は長く心の底に残るはずです。これは会社にとって大きなマイナスでしょう。
一般論ではありますが、守りの姿勢が強い企業は、広報の担当者にもそのような性格の社員を配しているようです。さらに言えば、経営者が守りに入っているときは、その傾向が強まり、攻めに回っているときは売り込み型の外向的な方を任命するようです。
広報は会社の顔と言われます。生まれつきのご性格は変えようがありませんが、せめて話せることはちゃんと話す、話せないことは絶対に口を割らない、そのけじめだけはつけておいた方がよろしいと思います。〈kimi〉
「ビジネスマンの狭い世界」その後
昨日、一本の電話がかかってきました。
2009年11月7日にこのブログに書いた「ビジネスマンの狭い世界」に関することでした。どういうご趣旨か、にわかには呑み込めなかったのですが、電話の主がブログで取り上げた「優良放送番組推進会議」なる組織の事務局をされている(事実上の設立者らしい)とうかがって合点が行きました。ブログで批判されたとお考えになっての、反論のお電話だったのです。
いろいろとお話をしましたが、納得されたかどうか曖昧なまま電話を切ることになりましたので、ここに私の本意を改めて書いておきたいと思います。
長年のテレビ界における視聴率第一主義には、私は大いに疑問を持っています。とくにF1と呼ばれる20~34歳の女性層にターゲットを絞った番組づくりがテレビの質を低下させたのではないかと疑っています。そういう意味で、他の指標や価値観によってテレビ番組を評価しようとする試みには大賛成です。大企業のサラリーマンたちが番組を評価するのも結構だ思います。決して否定するものではありません。
しかし、大企業に勤めている人たちは社会的な強者です。かつては私自身もそうでしたが、一個の人間としては誠に弱い存在であるにもかかわらず、大企業の社員であるという身分において、強者としての発想から抜け出ることはできません。
NHKが放送している演芸やバラエティ番組の多くは実に面白くありません。こんな番組を誰が喜んで見ているのか、と私自身は思うのですが、もしかしたら、そのような番組を楽しんでいる人たちが大勢いるのかもしれません。大都市のビジネスマン層とは異なる感性を持った人たちもきっと存在しているのでしょう。
大企業のサラリーマンによる評価に価値があるように、他のさまざまな人たちによる番組評価もまた大切だろうと、私は考えます。何をもって「優良」とするのか、さまざまな価値観によって評価されてこそ定まるものではないでしょうか。
「優良放送番組推進会議」に参集されておられる一流のインテリジェンスをお持ちの方々がまさか間違われるとは思いませんが、一流企業のサラリーマンの価値観もまた、一部の人たちのそれに過ぎない、ということを先のブログでは申し上げたかったのです。〈kimi〉
ビジネスマンの狭い世界
今日の産経新聞に、「広告主によ
その記事によると、報道番組で最
「広告の費用対効果について新た
ぜひ
忙しいビジネスマンはどうしても
ビジネス視点からの番組評価にも
仕事をしないで数ヶ月家でブラブ
ビジネスマンは、自分たちが身を
日米リリース事情
外資系企業では、海外の本社で原
医薬品や医療機器の分野に関して
だからといって、海外からの情報
ところが、ちょっと困ったことが
一例を挙げれば、英文のリリース
「術直後の嫌気性菌性腹膜炎患者
こんなコメントをリリースに書き
日本で記事にしたいなら、徹底的
さて、どうしたものか。翻訳リリ
社内の理解
私が広報の仕事をメインにし始めた頃、広報の世界の先輩たちが「会社が広報をちっとも理解していない」、「社内で広報活動を理解してもらえない」と悲憤慷慨されている声を何度となく耳にしました。それから20年、それらは改善しているのでしょうか。
その後、日本の多くの大企業に広報セクションが設けられ、強化されてきたのは間違いのない事実です。その意味では改善されていると言えるでしょう。しかし、それらの企業においても、社員の一人ひとりにまでパブリックリレーションズの理解が及んでいるとはとても言えない状況です。
実際現在においても、広報を仕事をしている人たちの間では、同じような嘆きを聞くことが度々ありますし、あきらめにも似た気分さえ漂っているように思います。
「わかっちゃいねえなあ」などと、広報に無理解な幹部や社員をののしっていても仕方がありません。このような広報やIRに対する無理解には構造的な問題があると、私は考えています。
サラリーマンという存在は、本質的に企業(全体)としての利害より、自己ないし所属部門(部分)の利害を優先するものです。現業部門は、自部門や自分に与えられた売上げと利益目標だけに責任を持たされています。スタッフ部門でも、評価は「自分の仕事の成果」に対して与えられます。だから、自分の業務外の仕事に時間やエネルギーをとられたくない、というのが本音なのです。当然、広報に協力して自分たちにどんな得があるの?という疑問も生じます。
ところが、広報やIRは本質的に全体に奉仕する仕事です。だから、広報と社内各セクションの間で、全体対部分という図式の対立が生じやすいのです。広報と他のセクションが協力してやって行こうというプロジェクトでも、自部門の予算がそれに使われることには拒否反応が出たりもします。自分のものは自分のものなんです。国益よりも省益などと言われるのも、根は同じことでしょう。
また、広報やIRの仕事に協力することは、自分の仕事を公の場にさらけ出すという一面があります。すると、思わぬミスや隠し事が表に出るかもしれません。そのようなリスクをサラリーマンたちは本能的に感じとるので、できればそれを避けたいという思いが強くなります。触らぬ神に祟りなしです。できるだけ情報公開はやめておきましょう、という結論にもなりがちです。
これらの本質的な解決は、経営者の強いリーダーシップなくしてはあり得ませんが、そのようなリーダーには滅多に出会えません。
幾多の障害要因を突き抜けくぐり抜け、うまく回避しつつ目標を達成する。それが広報やIRに携わる人たちのやり甲斐です。どんな仕事にも困難はつきものだし、問題解決することこそ「仕事」というものですからね。〈kimi〉
「新聞記者ってダメだな~」
産経新聞のサイト「msn産経ニュース」が、首相のぶらさがり取材をそのまま掲載するようになって、これが好評だったのでしょう、他の新聞サイトも同じようなことを始めました。インタビューの受け答えを考えるのに、これは大変参考になります。
今日は朝日新聞のサイト「asahi.com」で”ぶらさがり”のやりとりを読みましたが、本当にがっかりですね、いまの首相には。
イチロー選手の新記録に関する質問に対して、あぶさんの年を知っているかと逆質問していました。記者が答えられないと、「新聞記者ってダメだな~」だって。
日経だったでしょうか、何日か前に、今期限りで「あぶさんが引退する」という記事を書いていたように記憶しますが、あぶさんの年齢なんて政治部記者が知らなくても「ダメだなあ~」と言われる筋合いはありません。しかし、取材している政治部記者たちは怒らない。クライシスのときに集まってくる社会部記者はあんなに怒るのにねえ。ま、そのことは置いておいて・・・
企業のトップや重役の中にも、首相と同じように、親しい記者に逆質問をして、「新聞記者ってダメだな~」などと発言する人がときどきいます。これは絶対にやめた方がよい。広報担当者として立ち会っていて、これをやられると、本当に参ってしまいます。突然の発言なので止められません。
新聞記者の質問は原則として、社長なら社長の立場としての回答や意見を求めるものです。それには何らかの回答をする必要があります。事情があって、「お答えできません」と言うのも、印象の善し悪しは別にして、仕方のない場合もあります。しかし、その企業の経営者として、常識的に知っているべき事柄について知らなければ、記者は「社長ってダメだなあ~」とも言わずに、単に軽蔑するだけです。そして新聞社に帰ってからデスクに言います。「あの社長って、ダメかも~」
インタビューを受けている社長は、それを本能的に感知しているので、いつ自分の知らないことを聞かれるのではないかとビクビクしながら質問を受けています。だから、少し余裕ができると、つい首相と同じことをしてしまうのでしょう。
記者は、知らないから取材をしているのですから、知らなくても一向に構わないのです。「知らないから教えてください」と逆再質問をすればよいだけです。
もう一つの問題は、社長が記者を見下していることです。企業経営者に比べれば、一般に取材記者ははるかに若い。人生経験も未熟です。つい自分の会社の若手社員と話しているような気分になってしまうのでしょう。これも大きな間違い。記者は他社の人、社会の人です。バカにしたらよい記事を書いてくれるか、と言えばまったく正反対です。
いまの首相の大間違いは、記者との質疑応答が、首相と国民との質疑応答であるという意識をまったく持っていないところにあります。近頃、敵失で支持率が上がっているそうですが、このような点だけをとっても、この人で本当にいいんだろうか、と思ってしまいます。〈kimi〉
来年の課題
大晦日になりました。
早起きというほどでもありませんが、今朝は7時半に起きて昼過ぎまでずっとテレビを見ておりました。
いや、つまらないですねえ。再放送と企画を無理矢理ひねり出したとしか思えない安手の特番ばっかり。
テレビプロを見ても、夕方までそのような番組がずらりと並んでいます。NHKだって紅白の番宣ばかりです。これではとても数字は稼げません。テレビの媒体価値はどんどん下がるばかりです。
魅力的なコンテンツをつくるにはお金がかかる。タレントの出演料や装置、ロケ代などにもお金はかかるでしょうが、一番お金がかかるのは「クリエイティブな才能を集めること」でしょう。ところがその裏腹で、才能には数に限りがある。
80年代から90年代にかけて、日本の小説がつまらなくなったのは、コミックに才能が奪われたからだ、と言われました。そのコミックに陰りが見えて、才能は再び小説に向かいつつあるようです。
2月にはまた日本の広告費の統計が発表されると思いますが、昨年の統計でも、ここ数年、広告費がネットに流れているのは明らかです。金の流れに対応して、才能もまたそちらに流れているのでしょう。それでもテレビは番組を流さなければなりません。やっつけ番組で埋めるしか方法がない。それが視聴率を低下させ、視聴の質を落とす。スポンサーはテレビに広告費を回さず、さらに番組の質が落ち、媒体価値を下げるという悪循環です。
テレビとは異なる要因もありますが、新聞もまた悪戦苦闘しています。
これらの媒体価値の変動に敏感なのは当然のことながら広告界です。鈍感なのは広報界(こんな単語はあまり聞きませんが)です。
私たち広報を仕事にしている人間は、新聞、雑誌、テレビなどの媒体がアプリオリに存在しているという前提で仕事をしています。それがいまや根底からくつがえろうとしています。ところが、それに目を向ける広報人(という単語もあまり聞きません)はほとんどいないようです。
いまの経済状況は、媒体(報道機関)のパラダイムシフトをさらに加速させるでしょう。広報の手法そのものを再検討しなければならない時が来たようです。それをCocoKnotsの来年の課題にしたいと思います。
それでは、皆様また来年。〈kimi〉
文章読本
広報の仕事をしていると、文章を書く機会が多くなります。
若いときにコピーライターという名刺を持たされていた私は、とくに「書くこと」への関心を持ち続けてきました。
そこで一時期、「文章読本」の類を片っ端から買い集めて通読したことがあります。谷崎潤一郎から三島由紀夫、丸谷才一、多田道太郎、本多勝一等々、ついには斉藤美奈子の「文章読本さん江」まで。我ながらよく読んだものです。
それで文章がうまくなったのかとの問いには、「少しはうまくなったと思う」という答えを用意しております。実際、なにかと役には立つものですよ。たとえば多くの著者が口を揃えておっしゃるように「ワンセンテンスを短くすること」を意識するようになりましたし、本多勝一さんの『日本語の作文技術』 を読んだら句読点の打ち方に神経質になりました。私は比較的句読点が多い方です。こういう諸点が頭に入っているといないとでは、文章の出来に差が生じるだろうと信じています。
が、しかしですよ、ときどき私はわざと長い長いセンテンスを書いたりします。必ずしも諸大家のおっしゃるようにしていればよいというものでもないだろうと、このあたりはだいぶヘソが曲がっております。
最近この手の本は読んでいなかったのですが、2、3日前、昨年買って忘れていた本が書棚にあるのに気づきました。辰濃和男著「文章のみがき方」岩波新書。エッセンスだけをまとめてあって、よい文章読本になっています。他は読まなくてもいいんじゃないかと思うくらいです。おすすめです。
で、これを読みながら気がつきました。朝日新聞の記者(またはOB)って、文章読本を書く人が多いなあ。本多さんも辰濃さんも森本哲郎さんもそう。ほかにも栗田亘さんとか大勢います。大学やカルチャーセンターなどで文章指導をしている元記者も多いようです。昔の週刊朝日の編集長扇谷正造さんは、エッセイストとしても評価の高い女優高峰秀子さんに書き方を指南したと言われています。
世に名文家として知られる記者も、古くは笠信太郎から荒垣秀雄、入江徳郎、疋田桂一郎、深代惇郎、轡田隆史・・・と朝日が多い。つまり「天声人語」や「素粒子」を書いていた人が評価される傾向があるんでしょうね。
では、どうして文章指導家が朝日に多くて他紙に少ないのか。わが社の元朝日新聞編集委員の見解は、朝日は専門性の高い記者よりジェネラリストを育てる傾向があるためではないか、というものです。ある分野を専門的に追い続けて来た記者は、退職してもその分野のジャーナリストや評論家として一家をなすことになる。ジェネラリストは筆一本ということでしょう。
真否はともかくとして伝統的に「名文家なら朝日」というブランドが確立してしまっていることも要因と言えそうです。そう言えば、かの夏目漱石も朝日新聞記者でした。