どこの政党を支持するかを決めていない、いわゆる無党派層というのに自分もカウントされているんだなあ、と思いながら新聞や週刊誌の当落予想を眺めております。
真に政党と呼べるのかどうか、いささか怪しい党派が乱立していて、個々の政策を項目ごとにチェックしたところで、自分の意見にぴったり適合するところはなさそうです。もっと大きな立場や考え方(あえて思想とは申しません)の違いがあってこその政党ではないか、という思いを強くしておりますが、それはともかくとして、国民・市民・有権者を見下したような言辞を吐き続ける党首だか代表だかには眉をひそめたくなります。
広報セミナーなどで強調しているのは、企業は強者であることを常に意識すべきであるということです。ついつい無自覚に強者の言葉でコミュニケーションしてはいないかと自戒すべきです。自らを強者の位置に置くことは、相手を弱者の位置に置いていることであり、見下していることにほかなりません。
このようなコミュニケーションに強く反応するのがネットの世界です。「上から目線」とか「ドヤ顔」とか、そんな表現もたぶんネットから生まれたのでしょう。
相手と対等の立場に立たなくては、本当のコミュニケーションなど成立するはずがないのです・・・と、こんな書き方も少々「上から目線」的ではありますが。〈kimi〉
イレコマナイ
facebookの旗色がにわかに悪くなってきました。株価もさることながら、広報関係者からも期待したほどでもないといった声が聞こえてくるようになりました。
エジプトの政変がfacebookで起こったなどと聞いて、あわててアカウントをとったことをいまさら白状しても始まりませんが、当時の世評ほどのご利益が感じられなかった者としては、「やっぱりねえ」などと一人鏡に向かってドヤ顔をしております。
参加者数が日本で1000万人を越えたと報じられたのは昨年ですから、いまはもっと増えているのでしょう。すごい数字ですが、私の周囲でfacebookを仕事に使っている人はほとんどいません。
「友達」であるジャーナリストやら某県知事やら昔の部下やら数十人の書き込みを毎日拝見していますが、今日は出張なのか、あの人は被災地の出身だったのか、転んでケガをしたんだ、毎日ジョギングをしているんだ、東京マラソンに当たったのか、いまフランスに行っているんだ等々、面白くは読みますが、何かの役に立つという情報はほとんどありません。
ほぼ1年前でしたか、ソーシャルメディアをテーマにしたシンポジウムを聞いていたら、mailなんかもう必要ない、すべてのコミュニケーションがfacebookで可能になると断言するパネリストがいました。お仲間内ではそうなのかもしれませんが、その方の視界の外ではそのようにはなりそうにありません。
新しいIT技術が生まれると、これを使わないヤツはアホだというばかりなことを言い立てる人が出て来ます。いまは昔、バブル時代には金を借りないヤツはバカだと言う人が実際にいました。広報を仕事をしている人にとって、時の流行に乗り遅れるわけには行きませんが、何事もイレコミ過ぎないようにしなくちゃね。〈kimi〉
謝れない
突然堅いものが落ちてきて、私の手に当たって床に転がりました。今朝の電車の中の出来事です。
強い痛みを感じて見上げると、前に立っている30代の男性が軽く会釈をしました。網棚に乗せたトートバッグから携帯電話が転がり出たようです。「痛いよ」と訴えると、再びかすかに頭を下げて「すいません」。口の中でモゴモゴと言いました。あまり腹も立たなかったのですが、当たったところに小さな内出血を起こって紫色に変色し始めました。「ほら、色が変わって来た」と静かに指摘したにもかかわらず、男は何の反応も示しません。
やがて次の駅に電車が到着しました。男は棚のトートバッグをつかんで下車して行きました。行方を目で追ったら、階段へは向かわず待ち合い室へ入って行きました。
「被害者」の前に立っているのはどうにも居心地が悪く、一電車遅らせることにしたのだと見ました。
「あっ、大丈夫ですか。ゴメンナサイ。おケガはありませんか。申し訳ありません。駅員さんを呼びましょうか」と、少々大げさなほどに心配してくれる人もいます。それもときにはしつこく感じられたりするのですが、きちっと謝ってさえくれれば、「ああ、いいですよ。大したことありません」と私も応じたでしょう。それなら一電車遅らせる必要もなかったはずです。
謝り慣れていない人にとって、謝るという行為はとても難しいことであるようです。
これは企業も同じことです。謝り慣れていない企業は、電力会社を例に挙げるまでもなく、謝るのがヘタクソです。ある医療機器会社の人は、たびたび製品の不具合が発生するので、すっかり謝罪に慣れてしまったと言っていました。どちらがよいとも言えませんが、しっかり謝れば社会の怒りがいくらかは和らぐ可能性があります。少なくとも、その企業に対する見方は大きく変わり、その被害者や社会の対応にも変化が生ずるだろうとは思うのですが。〈kimi〉
これが翌日の状態。痛みはありません。
言い訳から主張へ
大津市の中学校で生徒が自殺した事件。亡くなった生徒の気持ちを思いやると、いたたまれないような気持にさせられます。真相はまだ十分明らかになっていませんが、教育委員会に対するメディアの批判は日を追うごとに高まっています。
教育委員会の会見は下手の見本のようなものですが、上手いか下手かといった次元以前に、この組織がどのような理念のもとに、どのように運営されているのか、つまりガバナンスがどうなっているのか、首をかしげざるを得ません。
毎日のようにメディア側から記者会見を要求されて、教育委員会の人たちも当惑していることは想像できます。それが場当たり的な対応になって現れているように見えます。うそとは言いませんが、言い訳に言い訳を重ねると必ずボロが出る。そのボロを隠すためにまた言い訳をせざるを得ない羽目になって悪循環に陥ります。これは広報の専門家でなくてもわかることです。危機に直面したとき、あってはならないことながら、言い訳をせざるを得ないケースも、現実にはあり得ます。そのようなときにも、基本となるスタンスをしっかり固めておけば、「言い訳」を「主張」に変えることも不可能ではありません。そこはまさに広報の専門家の出番です。〈kimi〉
把瑠都の広報戦略
大相撲初場所で、エストニア出身の把瑠都が優勝しました。把瑠都の相撲内容について、一部の新聞が強い批判記事を書いていましたが、何年間も日本人力士の優勝がないことへのいらだちが書かせてうるようにも思えました。
それはともかくとして、これから把瑠都の人気は急上昇するのではないか、と予測しています。 もちろん強くなれば力士の人気は上がるものですが、これまで圧倒的な強さで土俵を席巻してきたモンゴル人ではなく、ヨーロッパ人力士の優勝であることの新鮮さがもう一つ挙げられるでしょう。
彼の言動は寡黙をよしとする伝統的な相撲社会のそれではなく、開けっぴろげです。それに対して批判的な日本人も少なくないのでしょうが、彼の欧米的な価値観は抑えようにも抑えられないように見受けられます。観客の声援に手を挙げて応えていたのもその一例です。これなど、若い日本人には少しも違和感を与えないはずです。
もう一つ、私が注目したのは、千秋楽での奥さんのエレナさんの和服姿です。広報的に見ればこれはかなりのクリーンヒットです。あれだけでフアンを増やしたに違いありません。また、テレビで見る限り、彼女はかなり古き日本女性のたしなみを勉強しているように見えました。日本語もある程度はできるようです。これらはすべて把瑠都の人気を高め、日本人に評価される方向に寄与するものと思われます。
これらの広報戦略を裏で演出している人いるとすれば、大したスゴ腕です。把瑠都夫妻が自分たちで考えたとすれば、彼らはかなり賢いと言えるでしょう。〈kimi〉
広報セクションの人材
先週の金曜日は、広報セミナーでかつて教えた受講者のみなさんが10名ほど集まって、楽しい懇親会を催しました。
広報のセミナーを受講する方の多くは企業の現役広報パーソンです。ところがその後3~4年の間に他の部署に転出してしまう人が少なくありません。当日集まった人たちにも、いまは他の仕事に就いている人の方が多くなってきました。
広報の組織や人材の問題を考えるとき、以下の3つの要素に留意すべきでないかと考えています。
1)広報活動には継続性が必要であること
2)広報は専門性が高い業務であること
3)社員に広報業務を経験させることは人材教育として有意義であること
その企業の広報に関するポリシーが一貫していることで継続性は保たれますが、実際には広報セクションのリーダー(責任者)の考え方に大きく左右されます。担当役員などが短期間で交代しても、内部にポリシーが保持されていれば問題はありません。しかし、なかなかそうは行きません。広報のポリシーがコロコロ変わるようでは、長期的な目標に向かって広報活動を展開することは困難です。
また広報活動には人脈が大切です。人脈というのは極めて属人的で、後任に引き継ぐことは非常に難しい。紹介を受けたとしても、そこから新しく人間関係を作りあげなければ機能しません。これすなわちコストでもあります。
「広報の専門性」を認識しない経営者も少なくありませんが、それは暗黙知が多いからではないかと思います。マニュアル化し難い種々のスキルを必要とするのが広報活動というものです。そのように考えて行くと、一定期間広報セクションに在籍している専門人材が必要だということが理解されるでしょう。
一方、経営人材養成のキャリアパスの中で、一度でも広報セクションを経験することは非常に有用であると考えられます。企業を取り巻く社会の考え方や動きを学ぶには、広報はうってつけの仕事です。その意味では、人材ローテーションの中に広報セクションを組み込むことが日本の企業にはもっとあってしかるべきです。
比較的長期に在籍する専門的な社員と短期間にローテートする社員の組み合わせ、これがが広報セクションには必要なのではないかと考えられます。〈kimi〉
自爆
申し訳ないことながら(謝る必要もありませんが)私は軽度の阪神ファンです。「軽度」という意味は、めったに球場へ足を運ばないということであり、甲子園にも行ったことがありません。ただ、試合翌日のスポーツ欄ではタイガースの試合経過を真っ先にチェックしますし、シーズン中は全試合をテレビで見られるようにスカパーと契約しております。
さて、シーズンオフにプロ野球の話を持ち出したのは、例の讀賣ジャイアンツ騒動が起こったからです。
日曜日にテレビの報道バラエティを見ていたら、卵焼き屋の息子タレントが口を極めてクビになった元GMを批判していました。そうなのかな、とも思いましたが、新聞やテレビの情報しか知らない私には判断する手がかりがありません。またどちらが正しいとか間違っているとかいうような問題でもなさそうです。
しかしながら、世の多くのサラリーマンは元GMの方にある種のシンパシーを感じているのではないか、と推測します。
何年か会社勤めをすると、ほぼ100%の確率で自分の利益しか考えない経営者や“しょうもない”上司と巡り合います。自分の考えを通したい、でも通らない。自分の意見を言いたい、でも言えない。このような葛藤と戦いながら、気がつけば定年となっている。そのような勤め人たちには、元GMが自分の姿の写し絵のように見えるだろうと想像しております。
企業は民主的な組織ではありません。ではどんな組織なのか。その明確な定義は聞いたことがありませんが、社内では何事も多数決で決まることはなく、たいてい職階上位の人に決定権があります。そんな組織なのに、法律上取締役会は多数決が原則となっていて、なんとなく民主主義風な仕組みがあるために、勤め人たちはついつい企業の意思決定に対して幻想を抱いてしまいます。
社会の視点と企業の視点の交点で仕事をしている広報担当者のみなさんは、とくに強い葛藤を抱えているはずです。トップに直言したい、という思いを何年も心の底に抑えつけていて、ついに爆発させてしまった人も少なくありません。その多くは単なる自爆で終わったはずです。私には、そのような一途な広報担当者の姿と元GMの姿もまた重なって見えて仕方がないのです。〈kimi〉
「間違いありません」
「担当者が不在でコメントできない」
都合の悪い取材を受けた企業の決まり文句です。実際にはどのように答えたのか知りませんが、新聞にはこのように書いてあります。担当者って、だれなんでしょうね。広報担当者かな。それだったら、「社長を出せ!」となるから、具体的な職名を出さないところがミソなんでしょう。
「訴状を見ていないのでコメントできません」
訴えられたときの逃げ口上。たしかに訴状が届くより先に取材を受けることが多いので、これはなかなかよく考えられたコメントであるとも言えます。「えっ、ウチが訴えられたの? で、向こうはなんて言ってるの? ああ、そりゃあ違うよ」なんて、記者から情報もらってペラペラ答えるわけには行きませんものね。
「判決を精査し、控訴の要否を検討する」
これは敗訴したときの紋切り型。検察もよく使います。判決直後では答えようがないのもたしかです。
「弁護士に一任している。答えることはありません」
というのもあります。
紋切り型のコメントというのは一般にはお薦めできませんが、時間稼ぎをしなければならないときや、実際にコメントのしようがないときなど、やむを得ないケースもあるでしょう。
新聞の社会面でよく見かけるコメントに
「仕事のストレスからむしゃくしゃしてやった」
というのがあります。万引き犯の定型的自供ですが、どうも真実とは思えません。
「オイキミ。なんで万引きなんかしたんだ?」
「このところ会社で面白くないことが続いたもんで・・・」
「仕事のストレスがあったということだな」
「まあ、そんなところで・・・」
「それじゃ『仕事のストレスからむしゃくしゃしてやった』と調書に書いとくけど、それで間違いないな?」
「間違いありません」
容疑者、取り調べ側ともども、真実なんて考えれば考えるほど、またいくら追求してもわからないから、適当なところで手を打ちましょう、ということじゃないか。しかし、それでいいんでしょうか。
近頃、新聞やTVニュースでしばしばお目にかかるのが、この「間違いない」というフレーズです。「容疑者は、『自分がやったのに間違いない』としている」と結ばれている記事が少なくありません。警察発表をそのまま記事にしているのでしょうが、報道もまた適当なところで手を打っているわけです。〈kimi〉
何を持ち出すか
福島第1原発事故の警戒区域で、一時帰宅が昨日ようやく始まりました。2時間という短時間の中で、それも防護服やマスクをつけての作業では、必要なものをすべて持ち出すことはさぞ困難だったでしょう。自分だったら、何を持ち出すだろうと考えたのですが、通帳や印鑑といった公的手続きに必要なものはともかく、それ以外で優先順位をつけるのはかなり難しい。悩みに悩んだ末に、結局つまらないものを持ってきてしまいそうな気がします。
新聞やテレビの報道によると、アルバムと位牌を持ち帰った方が多いようです。
アルバムは、70年代のテレビドラマ「岸辺のアルバム」以来、家族にとって大切なものという認識が広く共有されるようになりました。とくに自宅に帰れず避難されておられる方々にとって、家族の絆の証であるアルバムはよりかけがいのないものとなったことでしょう。
位牌については、持ち帰った方と花を供えて帰った方がおられたようです。宗教心というよりも、これも家族との絆の象徴と考えられます。どちらにしても、お位牌が無視しがたいものであることは間違いありません。位牌なんて、戒名を書いた木札に過ぎないという考え方もあり得るでしょう。お骨はお墓に埋葬してあると考えれば、持ち出すべきより重要なものがほかにあるかもしれません。
自分ならどうする。自宅の仏壇には、お目にかかる機会のなかったご先祖様も含めていくつものお位牌が祀られています。戦死したご先祖のもある。戦死ったって、第二次大戦ではありません。幕末の戊辰戦争です。それらの位牌を自分ならどうするか。
停電もなくなった東京で、そんな想像をいくら巡らせていても結論は出ません。しかし、いつになったら戻れるか、先の見通せない状況では、お位牌はやはり持ち出さなくてはならない重要アイテムなのだろうなあ、などとも考えました。
ここには日本人の信仰、考え方、心の動き、文化のありよう、人間関係、価値観・・・そんなものが残らず凝縮されています。このような日本人を理解できること。これこそ日本で広報の仕事をしている人に求められている最も大切な能力であると、これだけは確信できるのですが。〈kimi〉
広報パーソンに何ができるか
東日本大震災の被災地には多くのボランティアが訪れているようです。がれきの撤去を手伝う人、避難所でカレーをつくる人、被災者の心のケアをする臨床心理士、歌手、タレント、スポーツ選手、被災者のの話を聞くボランティアもいるそうです。体力のある人はそれだけで役に立つでしょうし、医師やコメディカルなどの資格を持っている人は歓迎されるでしょう。人気者はその人が現れるだけで喜んでもらえます。
それでは広報を仕事にしている人には何ができるのでしょう。たとえば私に何ができるかと考えたら、途方に暮れてしまいました。体力にはまったく自信がありません。現地のご迷惑になるばかりです。役立ちそうな資格や特技もありません。壁新聞つくりのお手伝いくらいはできそうですが、壁新聞は被災した地方紙の記者さんがすでにやっておられると聞きました。そんなわけで、何か手を貸したいと思いつつも歯がゆい思いをしております。
企業の広報担当者だったら何ができるでしょう。その専門性を活かそうと思うなら、やはりコミュニケーションで役に立ちたいものです。
企業がしなければならないことは、言うまでもなく本業をできるだけ早く軌道に乗せることです。復旧状況を取引先ばかりでなく、株主、投資家、顧客など社会全体に知らせ、情報を共有する。これは、現下の社会・経済状況においては非常に重要な企業活動と言えるでしょう。東証の適時開示情報閲覧サービス(TDnet)には、多くの上場企業から震災による影響や被害の復旧状況が開示されています。上場企業でなくても、これは必要なことと考えられます。広報やIRの担当者でなければできない震災対応業務の一つかもしれません。〈kimi〉