実写の伝達力

何気なくテレビ見ていたら、可愛い女の子が「もしもしかめよ」の替え歌を歌いながらケン玉をやっている。ドコモのCMです。思わず「うまい」と言ってしまいました。同時に「これCG合成かな」とも疑ってしまいました。それがいまの世の中というものです。
ネットの情報によれば、中条あやみさんが41回挑戦して成功したのだとか。そのメイキングビデオも見ました。
やはり実写って力がありますね。CGだったら、たぶん伝わるものが半減していたでしょう。そのことだけで、なかなか秀逸なCMになったと言えます。
スマホをドコモに変えようかなあ(^O^)。

主張する方がおもしろい

ある業界団体によるメディアセミナーのお手伝いをしました。
一企業の場合、主張を前面に出しすぎるのは躊躇するところがありますが、業界団体だとそのあたりの自由度が高いようです。タケシの「赤信号みんなで渡ればこわくない」という言葉が思い浮かびます。
それで、メディアの方の反応はどうかと言えば、「おもしろかった」という意見が多かったのです。そうだろうなあ、と納得します。反論や圧力のリクスはあっても、主張すべきは主張するのがよいのでしょう。それが自由社会というものですものね。

彼はとまどえる群れの代表なのか?

トランプ氏当選のニュースを聞いて、米国の有名な言語学者ノーム・チョムスキーの「メディア・コントロール」という本を思い出しました。
彼は民主主義には2つの機能があると言います。
「責任を持つ特別階級は、実行者としての機能を果たす。(中略)その一方に、とまどえる群れがいるわけだが、彼らも民主主義社会の一機能を担っている。民主主義社会における彼らの役割は(中略)「観客」になることであって、行動に参加することではない。しかし、彼らの役割をそれだけにかぎるわけにもいかない。何しろ、ここは民主社会なのだ。そこで、ときどき、彼らは特別階級の誰かに支持を表明することを許される。(中略)これを選挙という」(鈴木主税訳 集英社新書より)
彼の考えによるならば、クリントン氏はまさに特別階級の一員であって、観客であることを強いられてきた「とまどえる群れ」の人たちが、今回の選挙では特別階級を支持しなかった、ということになりそうです。不幸なのは、それでトランプ氏が当選してしまったことで、彼が本当に「とまどえる群れ」の代表なのかどうか、いまのところまったくわからないということです。

絶対休んで!

昨日、具合が悪そうにしていた社員に「早く帰って寝たら?」とアドバイスしたのですが、「大丈夫です」と言って定時までがんばりました。そのがんばりは会社としてはありがたいことなのですが、夜中に熱発したとかで今日はお休みです。早退しても同じだったかもしれませんが、かぜは早めに休んで寝てしまうのが一番よいようです。
ところが、地下鉄のドアに貼ってあった広告を見て驚きました。
「かぜでも、絶対に休めないあなたへ。」
かぜグスリの広告ですが、これはまずいでしょう。症状を悪化させるばかりでなく、他の人に感染させてしまいます。この会社の広報責任者だったら、このコピーは絶対やめさせますが・・・。

広告主の責任

電通の長時間労働の一件、厚労省による強制捜査、立件などまだまだ拡大しそうです。
報道やブログなどを読んでいると、クライアントにも責任があるなどと言っている人がいますね。クライアントが遅くまで仕事をしているから、“究極のサービス業である広告代理店も、それにつき合わなければならないのだというのですが、その論理なら、広告主である大企業も長時間労働が慣習化しているということになります。これは責任転嫁のように聞こえます。
しかし、クライアントにまったく責任がないか、と言えばそうとも言えません。「この資料、明日の午前中までにまとめて持って来てくれないかなあ」などと前日の午後8時過ぎに電話をする。電話の相手が作業する時間をまったく考慮することのない指示です。これに“究極のサービス業”である広告代理店は従わなければなりません。それがビジネスというものでしょう。
殿様か独裁者にでもなったかのように錯覚している大スポンサーの宣伝部員も、この際、反省すべきだと思いますね。もっとも宣伝部員をそのように思い上がらせたのもまた広告代理店なのですから、そのことも重々反省すべきだと思います。
かつて企業の宣伝責任者であったときを振り返っての自己反省でもありますが。

ブランドリフトだって

「宣伝会議」誌の最近号を読んでいたら、「『ブランドリフト』ってどんな意味」というタイトルが目につきました。なにやら細かいことがいろいろ書いてありましたが、要するに認知率、想起率、購買意向、好意度などのスコアを上げましょうということらしい。これって、「ブランド力を上げましょう」ということじゃないの? 新しいカタカナ用語をつくると、もっともらしく聞こえます。それは一つの戦略ですから、否定するつもりはありません。こちらも何か考えてビジネスにしたいなあとも思いますが、中身があまりにも当たり前だと肩透かしを食ったような気にもなりますね。

京都に

広報担当者養成講座の10回(週)に及ぶ長い講義のトップバッターを10年以上つとめています。ときどきは大阪や名古屋や福岡での講座にも呼ばれることがあります。
一昨日は、大阪での講座を受講された方々に呼ばれて、京都でおいしいものを食べてきました。受講生同士が親しくなって、ときどき集まる例はいくつかあるようです。東京でもかなり以前の講座に参加された方々がFacebookなどを通じて連絡を取り合っておられる例を知っています。
広報の担当者は他の会社の担当者と横のつながりを持つ機会が限られているようです。セミナーなどの機会をとらえて、人脈をつくるのはとてもよいことだと思います。

大人の文章

昨日の続きなんですが、日本の学校教育で実務的な文章力を養う教育が不足しているのは間違ありません。その結果として、真っ当な文章、いわば大人の文章が書ける人が少なくなっているように思います。プレスリリースなどはその代表的なものですが、社会向けて公開する報告書とか取引先へ提出する依頼書などには、大人としての文章が求められます。ある面では定型的、紋切り型の表現も必要になります。それをご存じない、使えない人が多くなりました。それでは舌足らずで稚拙な文章しか書けません。ベンチャー企業や外資系企業など、若い企業でしばしば見られる現象です。教えてくれる年配の社員が少ないためではないでしょうか。
個人的には紋切り型の文章は大嫌いです。役所の文書のような極端な紋切り型をお薦めするつもりは毛頭ありませんが、知らなくて書けないのと知ってて書かないのとは大違いです。
国語教育の問題、本を読まなくなった最近の風潮、働き方の変化、いろいろな問題が影響しているのでしょうね。

ハズしたあ

毎月のようにセミナーの講師を依頼されます。ほぼすべてが広報活動がテーマですが、オーディエンスは必ずしも広報を仕事にしている方ばかりではありません。会社の経営者や幹部の方、クレーム処理を担当している方、学生などさまざまです。その日のオーディエンスがどのようなことに興味を持っておられるのか、どのような問題意識を持っておられるのかなど、あれこれ推測し思案した上で内容を決めてはいるのですが、ときどきハズしてしまいます。不思議なもので、話しながらなんとなく気がつきます。芸人さんがウケているかどうかを舞台の上から敏感に察知するのと同じことです。
飽きているなあとかハズしたなあとか思ったときは、がっかりするよりも傷つきます。もちろん自分の失敗ですから言い訳はできませんが。

対岸の火事でしたが

昨日知り合いから、ここ数年苦労してきた企業間の提携がようやくまとまったという話が伝わって来ました。明日の新聞が楽しみだ、とも。どんな案件かとネットを探してみたら、たしかにありました。しかし、昨日はもっと規模の大きなM&Aの発表があったことも見つけてしまいました。残念ながら、そちらの方がより大きく取り上げられるはずです。偶然ではありますが、それは知り合いの出身企業のニュースなのでした。
自分が関わっていない案件だと、対岸の火事として新聞を読むことができますが・・・当事者のお気持もまた十分にお察しします。