やめてくれ

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「トップへの取材が終わっているのに、それを記事にしないでくれと広報から言われたんですよ」と、ある記者がぼやいていました。
広報の本質を知っている人なら、このような申し入れがいかに間抜けなものであるか理解できるはずです。
取材の申し込みを受けた時点で後戻りはほとんど不可能。あえてそんなことをすれば、メディアからどんな穿鑿をうけるかわかりません。ましてやインタビューを受けてしまったのですから、その内容はすでにメディアに渡ってしまったわけです。記者が聞いたことを書くか書かないかはメディアの判断による。そんなことは広報の基本の「き」です。それを「やめてくれ」と言うのは、言論の自由に関わる問題でもあります。そこまでその広報の責任者は考えたかどうか。まことにお粗末な話です。
インタビューで答えた後になんらかの変化が起こったのなら、訂正を申し入れればすむことです。記者は喜んで修正に応じてくれたでしょう。そうしなかったのはなぜでしょう?
気になるのは、「やめてくれ」が広報の判断なのかという点です。どうやらトップからの指示らしいとその記者は推測していました。すっかり見抜かれているのです。トップからの理不尽な指示に対して広報責任者は異論を唱えなかったのでしょうか。たとえ最後にはトップに押し切られたとしても、唯々諾々と指示に従ったのと、自分の意見を具申した上での結論とは、記者へ申し入れるときのニュアンスが微妙に異なるものです。それを有能な記者なら鋭く感じとります。
「やめてくれ」という申し入れにもかかわらず、その話を聞いた数日後、インタビュー記事はめでたく掲載されていました。それについて広報が再び記者にクレームを入れたかどうかはまだ聞いておりません。〈kimi〉

出版社はおわびをしないのか?

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今年になって電車のトラブルに続けて巻き込まれました。人身事故による「運行見合わせ」や「大幅な遅れ」に遭遇することすでに5回。さらにこのところの雪で、いつもなら1時間で着くところが2時間もかかったりしました。ただのダイヤ遅れなら、いずれは着くだろうと、急ぎの用事さえなければのんびり構えることもできますが、途中の駅まで進みながら止まってしまい、いつになったら動くのかさっぱりわからないとなると途方にくれます。このまま運行再開を待つか他社線に迂回すべきか、的確なアナウンスがなければ判断のしようがありません。
ビクトル・ユゴー作「レ・ミゼラブル」。19世紀のフランス文学を代表する長編小説ですが、フランスの歴史について多少の知識と興味を持っていないと実に読みにくい小説でもあります。筋立てが進行する部分は半分ほどで、あとの半分には当時の政治情勢に関する作者の認識やら義憤やらが書き連ねてあります。そこが難所で読み通すのがつらい。つらいけれども、そこを読まないとこの小説の真髄はたしかにわかりません。
その「レ・ミゼラブル」の新訳全5巻が2012年の秋から出版され始めたので、決意を固めて読み始めました。
第1巻を読み終わる頃に第2巻が出る。実によいテンポで出版されて、順調に読み進むことができました。つらい難所もかつての大先生訳よりは読みやすく、なんとか乗り越えました。ところが、第4巻が2013年2月に出て以来、パタッと出版が止まってしまいました。出版社からは何のインフォメーションもありません。最終巻が出版されるのをこのまま待つか、別の訳本で読了してしまうか・・・。途中駅で止まった電車の乗客そっくりの状態に陥りました。せっかく座れた電車ですから、そのまま居眠りでもしていようか思っているうちに、すっかり熟睡してしまい、目覚めたら2014年2月、突然に最終第5巻が発刊されました。
ところがです。ようやく出た第5巻のカバーにも帯にも、発刊が遅れたお詫びは書かれていません。訳者のあとがきには夫人への“おのろけ”が書いてあるばかりで、翻訳が遅れた理由も弁解もありません。
第一巻が出たのは、この小説を原作とした評判のミュージカル映画が公開されたタイミングでした。いま出せば売れるに違いないと、翻訳がすべて終わっていないのに見切り発車して、見事に「大幅な遅れ」に直面したのだろうと想像します。せっかく原作を読了してから映画を見ようと計画していたのに、上映期間には間に合いませんでした。仕方がないので長い停車中にwowowで見てしまいました。
良心的な書籍を出し続けている出版社として、これは残念な企業姿勢と言えるでしょう。顧客に対する情報公開について、どのように考えているのでしょう。〈kimi〉

古新聞

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毎朝の通勤電車でしばしば隣り合わせる初老の男性はいつも熱心に新聞を読んでいます。日常的な光景ですから、特段に気にとめることもありませんでした。
ある日、何気なくその男性が読んでいる紙面に目を移しました。その瞬間、クラッと眩暈のようなものを感じました。軽い見当識障害のようでもあり、既視感にとらわれたようでもある。自分がどこにいるのかわからないような気分、と言ったらよいでしょうか。
10秒か20秒ほどかかってようやくわかりました。彼が読んでいるのは今日の新聞ではない、ということが。
それは2日前の夕刊でした。発行当日に読んだ記事の記憶と、その朝の最新の新聞を読んだ記憶との間で整合をとるのに、私の脳が少々手間取ったのでしょう。初めから古い新聞であると認識していれば、そのような不思議な感覚を体験をすることもなかったはずです。
そのむかし、「今日の出来事」というTVニュースがありました。新聞記事やニュースはまさに今日の出来事を伝えていますが、その多くは報道の時点で終結してしまったのではなく、その後も刻々と事態が変化しています。翌日の新聞にはその続報が掲載されています。私たちは現在進行形で報道された出来事の動きや変化をとらえているのでしょう。数日前の新聞の見出しをそれと知らずに認識した私の脳は、進んでいるはずの事態が逆戻りしていることで混乱してしまった、というのが私の推測です。
過去の記事を読むことにも意義がありますが、新聞の本質はやはり「新しい」ということなんでしょうね。〈kimi〉
 

ヘタの直接話法

話し上手というのは、広報を仕事にする人にとってはかなり必要度の高い能力です。単にペラペラしゃべればよいというものではありません。おしゃべりは広報の仕事ではむしろマイナスです。話し上手とは、正しい内容を筋道を立てて相手に理解できるように話す。それだけのことではないでしょうか。
これは心がけ次第でできるものです。しかし、心がけなければ、いつまでたってもできない。そういうものでもあると思います。
話しベタの方はいろいろなタイプがあります。訥弁は、必ずしも話しベタではありません。とつとつと説得力のある話し方をする人もたしかに存在しますから。
ある事柄を伝えるのに、多くの言葉を使う人と少ない言葉で伝えることができる人がいます。多くの言葉を使うということは、話が長いということ。話したいと思う内容をシンプルなストーリーのまとめられない、脇道にそれる、言ったり来たりするといったことがあると、話は自然に長くなります。聞いている方も、いつになったら結論に到達するのだろうとジリジリしてきます。
このような話しベタの中に、「直接話法で話す人」がいます。たとえば、こんなふうに・・・。
「記者クラブに入ったら、長髪の人がいたんで『世紀火災広報の木戸と申します』と言ったんですよ。そしたら『世紀火災って、なんかあるの?』なんて言われちゃって。それであわてて『いいえ、ごあいさつにあがっただけです』って言ったんですけどね。『忙しいから後にしてよ』って言われちゃいました」(題材は高杉良著「広報室沈黙す」から借用しました)
直接話法も一種の修辞法です。うまく使えば実に効果的です。しかし、多用すると話は確実に長くなります。長くなるばかりでなく、これは無責任な話し方でもあります。
直接話法を多用するのは、他の人が話した内容を要領よくまとめて間接話法で話す能力が不足していることを示しています。そのような人が、自分が伝えるべき内容をシンプルなストーリーにまとめられるはずがありません。話しベタの一つの典型です。〈kimi〉

笑顔のよさ

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広報セミナーで、「広報担当者に求められる資質は何か」と質問されることがあります。知識やスキルなら、努力すれば解決することなので列挙することも容易なのですが、資質となると言いにくい。その人の持って生まれたものもあるし、その後の成育環境に影響されている部分もあるからです。言い方によっては差別にもつながりかねません。
厳密には資質ではないかもしれませんが、まず強調するのは「口のかたさ」です。「広報は口がかたい」と社内からの信頼が得られれば情報が集まってくる。トップシークレットでも事前に伝えてもらえます。
社会常識や庶民感覚も重要な資質です。そのような「感覚」は、理解するというよりも、身つけるように心がける必要があります。
倫理観。これは養えるものかどうか。企業倫理についていくら勉強しても、いざというときは個人の倫理観が問われます。生まれつきの正義漢といった人もたまにはいますが、幼児体験が影響していたり、広い教養を身につける中で育って行く部分もありそうです。
広報担当者に求められる資質の中で、なによりも大切だと考えているのは「感じのよさ」です。好感の持てる人が広報にいると、記者はもちろん外部の人たちから好感を持たれます。それは企業の好感度に必ず結びつきます。逆に、へんな会社には感じの悪い広報担当者がいます。これは経験上間違いありません。
「感じのよさ」はどのようにつくられるのか。全くわかりません。その人の内面のさまざまな要素が関係しているのだろうと想像しますが、外面における重要な要素の一つは「笑顔」ではないでしょうか。笑顔がよい人は感じがよい、と思いませんか。一例を挙げれば、オリンピックの東京招致で最終スピーチをした佐藤真海さんでしょう。
では、笑顔がよくない人ってどんな人でしょう。とてもよい例がありました。写真(変形してます)からご想像ください。この人もオリンピックがらみではありますが。〈kimi〉

広報は点描である、ということについて

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点描という絵画技法があります。スーラの絵で有名です。一つひとつの点を見ても、黒だったり赤だったり青だったりその中間色だったり。意味はほとんど見出せませんが、それらを集合としてみたとき、初めて目指す姿が浮かび上がってきます。それが広報活動のあり方とよく似ていると思えるのです。
昨日のプレスリリースも今日の記者発表も明日の取材も、それなりの意味はあっても、大きな広報目標から見ればカンバス上の一点に過ぎません。そのような点を日々着実にテンテンと打って行く作業を繰り返す。そして、ある時点で振り返えって見ると、目標とする一つの画が描かれている、それが一つの理想ではないか、というふうに…。
IRの分野にはうまい用語が存在します。「モザイク情報」がそれです。企業の業績や将来価値に大きな変動を与えるとは思えないような情報、適時開示規則上の軽微基準に該当するするような情報をそう呼ぶのです。ところが、そのような何気ない一片の情報を集めて分析すると、企業の実像やその方向性がモザイク絵のように浮かび上がってくるというわけです。
IRでは、企業側が意識的に画を描くというよりも、個別の事象や案件が発生するたびに発信されたランダムな情報から、アナリスト側が一つの画を見出すというニュアンスですが、広報活動としては、それを意識的にやってみてはどうか、と思うのです。それには、あらかじめ描くべき大きな目標をしっかりと立てておく必要があります。
たとえば研究開発に優れた企業であると認知してもらうことを広報の目標とする会社なら、研究開発に関する情報をどんどん発信し、取材を受けるようは活動を続ければ、数年後には目標の姿にかなり近づくことができるでしょう。
そんな簡単なこと…と思われるでしょうが、それがなかなか難しいのです。研究ネタが見つからないということもあるでしょうが、やっと見つけたネタでも、そんなつまらない情報をなぜ発表するのだ、という開発サイドからの反対に会うことも少なくないからです。
そんなときスーラを思い出してほしいのです。一つの情報はそれほどインパクトの強いものでなくても、それらの点が集まれば画が描けるのだということを。。〈kimi〉

また気になる専門誌

書籍広告
全国紙の1面記事下の書籍広告が気になると、半年ほど前(2013年4月18日「気になる専門誌」)に書きました。そこでご紹介した「寺門興隆」が12月号からまた改題して、元の「月刊住職」に戻すという広告が、11月3日付の朝日新聞に出ていました。「寺門興隆」では難し過ぎるという意見でも出たのしょうか。それにしても「月刊住職」という誌名はシンプルかつストレートで面白い。この伝で行けば「月刊スナックママ」なんていう雑誌もいけそうです。「月刊宮司」、「月刊教主」、「月刊社長」、「月刊経理部長」、「月刊平社員」、「月刊床屋のオヤジ」、「月刊専務理事」、「月刊現場監督」等々、いくらでもできます。
さて、再びここ数日の書籍広告に目を移すと、「月刊養豚界」というのがありました。ルポとして「がんばる農家養豚 宮崎県 『感謝、反省、努力の経営』」という記事が掲載されているようです。養豚界もどこか宗教界と通じるところがあるのでしょうか。宮崎県の畜産は口蹄疫とか鳥インフルエンザとかいろいろなことがありましたからね。
「養殖ビジネス」というのは水産業の雑誌で「失敗から学ぶトラフグの売り方」を特集しています。どんな失敗があったのか、フグだけにちょっと気になります。
「目の眼」という雑誌もあります。骨董・古美術の専門誌で、編集長白州信哉とありますから白州正子さんのお孫さんですね。その隣の広告は「Privateeyes」。目は眼でもこちらは「ユーザーと業界を結ぶ眼鏡専門誌だそうです。
「温泉批評」という「日本の温泉を考える初の論評誌」が発刊されたようです。温泉まで論評の対象になるとは・・・おちおち温泉にも浸かっていられない気分ですが、その総力特集が「混浴温泉は絶滅するのか?」。それほど心配する必要もなさそうです。〈kimi〉

諜報活動としての広報セミナー

いまさら言うまでもなく、日本人は横並びが大好きです。企業で何か新しい提案をしたことのある人なら、「他社はどうなっているんだ?」という質問を受けた経験が必ずあるはず。
他社と異なることをやろうという意識は、開発部門やマーケティング部門などの一部に存在する(例外もたくさんあり)くらいのもので、広報部門は、どちらかと言えば横並びの傾向が強い部門ではないかと、睨んでおります。
広報セミナーなどの受講者も、そこで学んだことをもとに新しいアイデアを生み出そうとか、チャレンジしようとかするよりは、他社の成功事例を学んで自社に取り入れようという志向が強いように、長年講師を務めてきた経験からは感じられます。
あるセミナーに、大手電機部品メーカーの担当者が出席していました。広報セミナーにはほとんど顔を出すことのない企業ですし、かなりの年配とお見受けしたので、多少の違和感を覚えました。違和感のわけはすぐにわかりました。そのセミナーには、競合企業の広報担当者氏による講義が組み込まれていたのです。競合企業による講義が終わるやいなや、彼は次の講義を聞くことなく会場を退出して行きました。
広報の勉強をするためではなく、諜報活動のためにセミナーを受講した、ということなのでしょうか。その後間もなく、その企業は自社製品の瑕疵に起因する大きな出来事に直面することになりました。そこで諜報活動が役に立ったかどうかは、もちろん知るところではありません。〈kimi〉

なってみなければわからない

そうなってみなければわからない、ということは、そうなってみなければわからないものなのでしょう。
最近、JRや東京メトロの駅でトイレに入ろうとすると、「右側が男性トイレです。左側に5メートル進むと女性トイレです」といったアナウンスが流れています。これが視覚障害者のためのものであることは容易に気がつきますが、それが、対象とする人たちにとって、どれほど必要なものなのか、健常人にはなかなか理解できません。
友人に、ある企業で広報部長をなさっていた方がおられます。退職されてから、眼の難病にかかり、最近は白杖を持って外出されるようになりました。
その方によれば、女性トイレに入ってしまうことはしばしばあることなのだそうです。とくに白杖を持っていないときは、ヘンなオジサンと間違えられるので、このアナウンスはとてもありがたいとおっしゃいます。なってみなければわからないものです。
先日、この方と横浜の町を歩いていました。突然の大雨は通り過ぎたものの、まだポツポツと雨粒が落ちていました。夜道はとくに見えにくいそうなので、「ここに段差がありますよ」とか「左へ曲がりましょう」などと横から声をかけていたのですが、突然背中から怒鳴られました。
「狭い歩道を横に広がって歩いているんじゃねえよ!」
みると短パンにモジャモジャ頭のオトコが乳母車を押しています。子どもが雨に濡れないように先を急いでいるのでしょう。道を譲ったものの少々腹が立ったので、「目の見えない人が歩いているんだ。白い杖が見えないのか」と言い返しました。オトコは振り返りましたが、状況がよく呑み込めないふうでした。数メートル遅れて歩いていた奥さんが追いついて、「目が見えないんだってさあ」とオトコに伝えましたが、それっきり。乳母車を押して去って行きました。
「こういうことはよくあること。そういうときは、心の中で『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と唱えているんです」
友人は、静かにつぶやきました。  〈kimi〉

易連絡社会

メールを出して、その日のうちに返信がないと少々イライラする、という人も少なくないはず。私もその一人です。
今日は出張なんだろう、お休みかな、などと推測しながら返信を待っていたのはもう過去のこと。近頃はタブレットやスマホがあれば、どこででもメールが読めるし返信もできます。
それなのに返信が来ないとなれば、気にさわるようなことを書いてしまったかな、返信を遅らせてこちらの出方をみているのかな等々、少々ひねくれた方向に気を回してしまうことさえあります。と思ったら、「ごめんごめん。昨日はスマホを忘れて外出しちゃってさ」と回線電話で詫びが入ったり・・・。
いまだって、何度電話しても不在だったり、つながらなかったりすることはあります。FAXを送っても目的の人の手もとに届かないことはあります。ハガキが明日配達されるという保証もありません。そんなことは15年ほど前なら「常識」として許容していたはずなのに、いまは“とてもがまんがならない”ということになってしまいました。
15年前と同程度の連絡の取りやすさで仕事をしているにもかかわらず、いまの「常識」ではすっかり連絡がとりにくい人になってしまった、という人たちがおられます。その多くは、年を重ねても現役で働いておられる方々です。連絡がとりにくいとなると、仕事を頼む方も不便を感じるわけで、彼らはいまや大きなハンデキャップを負っていることになります。これは社会的に、もう少し問題にされてもよさそうな気がします。〈kimi〉