広報では常識ですが

橋下大阪市長の発言の「歴史認識」についてはコメントできるほどの知識を持ち合わせていませんが、危機(彼にとっての)への対応には首をかしげざるを得ません。
問題点はいくつかあると思うのですが、「誤報だ」とメディアに責任を押しつけたのはいただけません。囲み会見での発言はすべて各新聞社がICレコーダーで録音しているし、TV局はビデオで撮影しています。発言の全文を掲載した新聞もいくつかあります。これでは誤報もなにも起こりようがないことは誰の目にも明らかです。そこをいくら責任転嫁しても事態を悪化させるばかりです。
見出しに文句をつけるのは苦し紛れでしょう。新聞の編集権は言論の自由に関わる問題です。そう堂々と反論すればいいのに、「間違ったことは決して書いておりません」といった主旨の言い訳をしている新聞があったのには驚きました。企業が記事にクレームをつけたときの対応とはずいぶん違いますね。
危機広報では、饒舌に弁解すればするほど泥沼に陥るリスクが高まるのは、広報を経験した人ならみな知っていることです。企業でも、内向きの論理で強気に出たがる経営者が少なくありません。それでは社会の納得が得られません。
彼が弁護士であることも象徴的です。企業が危機に直面したとき、広報の専門家のアドバイスを軽んじて弁護士の意見にだけ従うのは大きなリスクです。相手を証拠と論理で論破しても、得られる利益はそれほど大きなものではなく、反対に失うものの方がはるかに大きい。しかも、回復が困難なダメージを受けてしまう可能性が高いということは、広報の常識となっているのですが。 〈kimi〉

「騒ぎが収まる」ことと評判リスクを解消することとは別であると認識する必要がある。危機収束を速さよりはるかに重要なのは、顧客が他のステークホルダーなどが会社および経営陣を好ましいものとして心に留めるか、好ましくないものとして心に留めるかである。

-- ダニエル・ディアマイアー著 斉藤裕一訳「『評判』はマネジメントせよ」(阪急コミュニケーションズ刊)より

気になる専門誌

産経を除く全国紙朝刊1面の下は書籍広告と決まっています。新聞の「品格」を保つためだとはるか昔に教わった覚えがありますが、朝日新聞広告局のサイトに詳しく解説されていました。もっと詳しいというか、愚痴やら苦労話が読めるのは白水社のサイトです。
それはともかく、見る気はなくても目に入ってしまうのがあの書籍広告です。自分の仕事や興味とはまるで関係のない分野の本や雑誌の広告が妙に気になったりします。
たとえば柴田書店の広告。シェフや板前さん、飲食店経営者など玄人向けの専門誌をいくつも出している出版社です。その書籍広告によれば、いま販売中のMOOK「居酒屋」の特集は「つよい看板商品をつくろう」だそうです。そう言われれば、麹町の居酒屋でも金目鯛のしゃぶしゃぶとかきんきの一夜干しとか、看板商品を持っているお店にはまた行きたいなあと思わせる魅力があります。同じ出版社の「専門料理」や「月刊食堂」も、一般向けのグルメ雑誌よりは内容が濃いのではないか、と期待を持たせます。
前々から気になっている雑誌に「寺門興隆」があります。以前は「月刊住職」という誌名だったそうです。お坊さん向けの専門誌ですね。寺門外漢には理解不能と思われる難解な特集が並んでいますが、「葬送儀礼の秩序が急激に崩壊しはじめているその本当の理由」とか「節分の豆まきは危険だという声にお寺はどうすればいいのか?」なんて・・・ちょっと興味をそそられませんか。
同じく仏教系の雑誌に「大法輪」というのもあって、先月号の特集は「神社と神さま」。仏教雑誌がなぜ神様を特集するんだろうと、興味を惹かれてとうとう買ってしまいました。日本の神道の初歩知識がコンパクトにまとめてあって、とても勉強になりました。〈kimi〉

残念なこと

この春先から、就職ポータルサイトを使って人材募集を行いました。弊社としては初めてのことです。ありがたいことに何十名というご応募をいただきましたが、勉強になりましたね、これは。現代社会のありようが応募してくださった皆さまから透けて見えるような気がしました。
その一つは、正社員になった経験がない方々の応募が多かったこと。社会に出て以来契約社員やアルバイトで生計を立てておられる若い方がなんと多いことか、ずしりと実感いたしました。
もう一つは、50代半ばの方のご応募が少なくなかったこと。就業規則で定められた定年より前に、「もうそろそろ」という雰囲気になるのか、させられるのか、どちらにしても第二の人生を探さなくてはならなくなるのでしょう。
採用側としては、全員の方にお目にかかることは物理的に不可能なので、経歴などの書類を見てふるい落とさなければなりません。これが大変なストレスです。確実に言えることは、お断りした方の中に採用すべき方がいたに違いないということです。書類じゃわからないのに書類で判断しなくてはならないという矛盾がストレスの原因です。
何名かの方とは面接をさせていただいたのですが、結局ポータルサイトからは一人も採用せず、別のルートでベテランを1名採用しました。
この人材募集でちょっと残念な出来事がありました。ある応募者と面接をして、もう一度お会いしたいと日時の調整をしました。ところが当日、いくら待っても姿を現しません。携帯電話も留守電になっています。30分待ってあきらめました。こういうことは社会経験の少ない新卒の採用ではままあることのようです。しかし、一流企業で長い広報経験を持つ人においてまさか…。同じ広報に携わる人間としてまことに残念なことでした。〈kimi〉

『部分』

部分=(1)着目する全体の中を分けて考えた一つ。全体の中の一カ所。「この―を直せばよくなる」(2)〔数〕全体の中に含まれているもの。全体それ自身も部分の一つと見る。特に全体それ自身を含まない場合には真部分という。(広辞苑第6版より)
難しい説明ですね。読んでもすんなり頭に入ってきません。数学的と言うべきか論理学的というべきか・・・。しかし「部分」というのは、日常的に極めて頻繁に使う単語です。よく使うどころか、「部分」という単語を使わないと、話ができない人たちさえ存在します。
「それは私どもといたしましては、お話できない部分と申しますか、やっぱりその、申し上げては差し障りがある部分もあるだろうと言うような部分がございまして、経営の方からも控えるようにという指示を受けている部分というのがあるわけなんです」
なんて、わけのわからない言い訳を記者にしている広報部長さんが、ほら、いるでしょう。
一番目の「部分」は、「ところ」と言い換えることができますが、ピントがぼけていることに変りはありません。ずばり「情報」と言ってしまえば明確になるはずなんですが、それではあまりにもストレート過ぎるということで「部分」を使ったのでしょう。
二番目の「部分」は文脈から考えると「可能性」という単語が浮かびます。「差し障りがある」と言いきってしまう勇気はない。「差し障りがある可能性がある」でも「どのような可能性ですか」と突っ込まれそうだ。「部分」を使って、その上にさらに「あるだろう」と二重のソフトフォーカスをかけたというわけです。
三番目は「すべてが差し障りがあるというわけではないんですけど、一部分でも差し障りがあるとまずいので」ということを示唆しているようです。
四番目はとても変な表現です。どんな指示を受けたのかよくわかりません。わからないように「部分」という言葉を意図的に使っている。もしかするすると、上からの指示なんてなかったのかもしれません。
「部分」という表現が実に使い勝手がよく、実にあいまいで、実にうさんくさいことがこれでご理解いただけたでしょうか。少なくとも広報担当者が頻用すべき言葉ではありません。〈kimi〉

甘やかしてはいけません

品質問題は危機管理広報で出番の多いマターの一つです。賞味期限を過ぎた製品を出荷してしまった、異物が混入してしまった、使用中に事故が起こった、医薬品で副作用が発生した、やせるはずなの効果がなかった・・・このような事態が発生したら、直ちに記者発表して謝罪するとともに対応策や再発防止策を表明する必要があります。とくに健康被害の可能性があるときには、社会に対するリスクを最小化するために絶対に講じなければならない措置ですが、健康被害が予想されないケースでも、顧客が求める、あるいは期待する価値が提供できないときは、同様の措置が求められます。それが現代社会における常識というものです。
ところが、お客様の期待する価値が提供できなくても、あるいはあらかじめ表示している品質を提供できなくなっても、社長が謝罪することもなく、具体的な再発防止策を示すでもなく、社員の簡単なお詫びだけですませている業種があります。それは鉄道です。
近頃しばしば遭遇する飛び込みなどによるダイヤの乱れは鉄道会社だけに責任を問うことはできないとしても、雪が降った、雨が降った、混雑した、故障した、すべった転んだと言い訳をしながら、毎日のように遅れを出しているのは一体どういうわけなんでしょう。毎日遅れるなら、そのようなダイヤに問題があるはずです。日本は雨が多く、冬になれば太平洋側でも雪が降ることがある。当たり前のことです。それらを理由に、品質低下(ダイヤ通りに運行できない)を容認する企業など、こと日本においては鉄道会社以外には存在しないのではないでしょうか。
ドアが故障した、信号が故障した、ポイントが切り替わらない・・・品質管理に問題があるんでしょう。どんな改善策をとったのかを鉄道会社が発表することはめったにありません。車内放送で車掌さんが謝罪メッセージを読み上げるだけですましています。
乗客の方も、電車が遅れるのはしかたがない、当たり前と考えているフシがある。甘やかしてはいけません。ここは一つ厳しくやってもらいたい、と昨日のダイヤ乱れで冷や汗をかいた私はそう思うのですが。〈kimi〉

IRとPRの距離

自民党が総選挙に勝ったことで株価が上がっています。これまでにない金融緩和が行われるだろうという期待感からだそうですが、簡単に言ってしまえば、お金が金融市場にあふれることを期待しているわけで、そのことと生活者が豊かに、幸福になることとは直接リンクしてはいません。
インベスター・リレーションズ(IR)はコーポレート・コミュニケーションズ(広報)の一部分というのが長年の持論です。ですが、金融市場と一般社会が同じ原理で動いているなどと考えているわけではありません。むしろ乖離がより激しくなっていることが気がかりです。
IRは金融市場をその対話の相手とし、パブリック・リレーションズ(PR)は生活者をもって構成される実社会を対話の相手とします。両者が連動して変化するなら、そもそもIRもPRも区別する必要はないわけですが、どんどん距離が離れて行くとなると、この二つは一体どのようになってしまうのか・・・来年の課題としたいと思います。
よいお年をお迎えください。   〈kimi〉

上から目線では・・・

どこの政党を支持するかを決めていない、いわゆる無党派層というのに自分もカウントされているんだなあ、と思いながら新聞や週刊誌の当落予想を眺めております。
真に政党と呼べるのかどうか、いささか怪しい党派が乱立していて、個々の政策を項目ごとにチェックしたところで、自分の意見にぴったり適合するところはなさそうです。もっと大きな立場や考え方(あえて思想とは申しません)の違いがあってこその政党ではないか、という思いを強くしておりますが、それはともかくとして、国民・市民・有権者を見下したような言辞を吐き続ける党首だか代表だかには眉をひそめたくなります。
広報セミナーなどで強調しているのは、企業は強者であることを常に意識すべきであるということです。ついつい無自覚に強者の言葉でコミュニケーションしてはいないかと自戒すべきです。自らを強者の位置に置くことは、相手を弱者の位置に置いていることであり、見下していることにほかなりません。
このようなコミュニケーションに強く反応するのがネットの世界です。「上から目線」とか「ドヤ顔」とか、そんな表現もたぶんネットから生まれたのでしょう。
相手と対等の立場に立たなくては、本当のコミュニケーションなど成立するはずがないのです・・・と、こんな書き方も少々「上から目線」的ではありますが。〈kimi〉

駅と線路が見つからない

アップルのiPhone5が発売されたものの、それに使われている新しい地図(正確にはiOS6の地図)が不正確だと批判され、CEOが謝罪する騒ぎになっています。弊社のオフィスの周辺も極めて大雑把にしか表示されず、そこにどういう基準で選ばれたのか不明な立ち食いそば屋などの飲食店がプロットされているなど、「こりゃあ使えないわ」としか言いようがない代物です。
アップルともあろうものがどうしてこんな地図をノーチェックで使ってしまったのか、不思議ではありますが、私が興味を持ったのは別の点です。
この地図は鉄道を軽視しているのです。東京で仕事をしている私たちは、地下鉄の路線と駅とその出口の位置を理解していないと甚だ不便なのですが、アップルの地図ではそれが極めてわかりにくい。徒歩や車で移動しているときは山手線や中央線、私鉄の路線やガードなどをランドマークにしていますが、それも明確に表示されません。
技術的な問題はわからないものの、日本人がつくった地図ではないのだろうと疑っております。日本人なら鉄道と駅をもっと大切にするのではないでしょうか。Googleの日本地図は日本の会社が協力して作成していると日経のWEBに書かれていました。
現地の人のビヘービアや感性に十分な配慮をしないとこういうことになる、というこれは一つの戒めではないかと思うのです。〈kimi〉

イレコマナイ

facebookの旗色がにわかに悪くなってきました。株価もさることながら、広報関係者からも期待したほどでもないといった声が聞こえてくるようになりました。
エジプトの政変がfacebookで起こったなどと聞いて、あわててアカウントをとったことをいまさら白状しても始まりませんが、当時の世評ほどのご利益が感じられなかった者としては、「やっぱりねえ」などと一人鏡に向かってドヤ顔をしております。
参加者数が日本で1000万人を越えたと報じられたのは昨年ですから、いまはもっと増えているのでしょう。すごい数字ですが、私の周囲でfacebookを仕事に使っている人はほとんどいません。
「友達」であるジャーナリストやら某県知事やら昔の部下やら数十人の書き込みを毎日拝見していますが、今日は出張なのか、あの人は被災地の出身だったのか、転んでケガをしたんだ、毎日ジョギングをしているんだ、東京マラソンに当たったのか、いまフランスに行っているんだ等々、面白くは読みますが、何かの役に立つという情報はほとんどありません。
ほぼ1年前でしたか、ソーシャルメディアをテーマにしたシンポジウムを聞いていたら、mailなんかもう必要ない、すべてのコミュニケーションがfacebookで可能になると断言するパネリストがいました。お仲間内ではそうなのかもしれませんが、その方の視界の外ではそのようにはなりそうにありません。
新しいIT技術が生まれると、これを使わないヤツはアホだというばかりなことを言い立てる人が出て来ます。いまは昔、バブル時代には金を借りないヤツはバカだと言う人が実際にいました。広報を仕事をしている人にとって、時の流行に乗り遅れるわけには行きませんが、何事もイレコミ過ぎないようにしなくちゃね。〈kimi〉

謝れない

突然堅いものが落ちてきて、私の手に当たって床に転がりました。今朝の電車の中の出来事です。
強い痛みを感じて見上げると、前に立っている30代の男性が軽く会釈をしました。網棚に乗せたトートバッグから携帯電話が転がり出たようです。「痛いよ」と訴えると、再びかすかに頭を下げて「すいません」。口の中でモゴモゴと言いました。あまり腹も立たなかったのですが、当たったところに小さな内出血を起こって紫色に変色し始めました。「ほら、色が変わって来た」と静かに指摘したにもかかわらず、男は何の反応も示しません。
やがて次の駅に電車が到着しました。男は棚のトートバッグをつかんで下車して行きました。行方を目で追ったら、階段へは向かわず待ち合い室へ入って行きました。
「被害者」の前に立っているのはどうにも居心地が悪く、一電車遅らせることにしたのだと見ました。
「あっ、大丈夫ですか。ゴメンナサイ。おケガはありませんか。申し訳ありません。駅員さんを呼びましょうか」と、少々大げさなほどに心配してくれる人もいます。それもときにはしつこく感じられたりするのですが、きちっと謝ってさえくれれば、「ああ、いいですよ。大したことありません」と私も応じたでしょう。それなら一電車遅らせる必要もなかったはずです。
謝り慣れていない人にとって、謝るという行為はとても難しいことであるようです。
これは企業も同じことです。謝り慣れていない企業は、電力会社を例に挙げるまでもなく、謝るのがヘタクソです。ある医療機器会社の人は、たびたび製品の不具合が発生するので、すっかり謝罪に慣れてしまったと言っていました。どちらがよいとも言えませんが、しっかり謝れば社会の怒りがいくらかは和らぐ可能性があります。少なくとも、その企業に対する見方は大きく変わり、その被害者や社会の対応にも変化が生ずるだろうとは思うのですが。〈kimi〉
翌日の内出血
これが翌日の状態。痛みはありません。