言い訳から主張へ

大津市の中学校で生徒が自殺した事件。亡くなった生徒の気持ちを思いやると、いたたまれないような気持にさせられます。真相はまだ十分明らかになっていませんが、教育委員会に対するメディアの批判は日を追うごとに高まっています。
教育委員会の会見は下手の見本のようなものですが、上手いか下手かといった次元以前に、この組織がどのような理念のもとに、どのように運営されているのか、つまりガバナンスがどうなっているのか、首をかしげざるを得ません。
毎日のようにメディア側から記者会見を要求されて、教育委員会の人たちも当惑していることは想像できます。それが場当たり的な対応になって現れているように見えます。うそとは言いませんが、言い訳に言い訳を重ねると必ずボロが出る。そのボロを隠すためにまた言い訳をせざるを得ない羽目になって悪循環に陥ります。これは広報の専門家でなくてもわかることです。危機に直面したとき、あってはならないことながら、言い訳をせざるを得ないケースも、現実にはあり得ます。そのようなときにも、基本となるスタンスをしっかり固めておけば、「言い訳」を「主張」に変えることも不可能ではありません。そこはまさに広報の専門家の出番です。〈kimi〉

空にもタメ口

スカイマークの「サービスコンセプト」が話題になっています。責任を押しつけるなと消費生活センターがクレームを申し入れたということですが、そんなことは些末な問題。顧客重視経営をかなぐり捨てた、なんとも奇妙な宣言文です。
その文中に「より安全に、より安く」とありますが、これまでのビジネスの常識では、顧客を大切にすることの延長線上に「安全」があると考えてきたはずで、客を荷物のように考える会社が本当に安全を守れるのか、はなはだ疑問です。「安全はほどほどに、より安く」と言う方がむしろ論理的だし、誠実ささえ感られるかもしれません。お客は減るでしょうけど。
それはそれとして、この文書にこんなセンテンスがあります。
「お客様に対しては従来の航空会社の客室乗務員のような丁寧な言葉使いを当社客室乗務員に義務付けておりません。客室乗務員の裁量に任せております」
丁寧でない言葉遣いってどんなんでしょう。
「オイ、そこのオバチャン。早く席に座れよ。後の客が入れねえじゃねえか」
なんて、言うんでしょうか。乗務員の裁量に任されているんですから、これでも問題ないわけです。
80年代のことだったでしょうか。渋谷のパルコを見学していたら、店員のオネエさんが、
「いいよ、これ。すっごく似合ってるう」
とお客さんに言っているのを聞いて、すっ魂消たことがあります。それまでの小売店の慣習なら、
「これはとてもお似合いですわ」
です。店員が客にタメ口をたたく時代に、そのときからなりました。
これは顧客軽視ということではなさそうです。若い女性である顧客と同じ目線で、同じマインドで接客しよう。つまり顧客により近づこうということだろうとも解釈できます。そう考えれば、客室乗務員のタメ口もあながち否定できないのかもしれませんね。
「飛行機がさっきから揺れてるけど、大丈夫よ。落っこちないからさあ」
こんなアナウンスが当たり前になるんでしょうね、きっと。〈kimi〉

記者の専売特許

なぜ新聞記者は文章読本を書きたがるのだろうと、先週書きました。答えは簡単です。「自分は文章がうまい」と自負しているからです。
その正否はともかくとして、新聞記事が、素人の作文のお手本に好適であることは認めざるを得ません。それだから、記事の書き手による文章読本にはそれなりの需要が見込めるということになるのでしょう。本を書かないまでも、退職後に大学教員に転身して、作文指導をしているOBも少なくありません。
しかし、実は新聞記者たち自身が気づいていない専売特許はほかにあるのです。それは取材力というものです。
新聞、雑誌、テレビ、ラジオの4大マスメディアの中で、最も分厚い取材組織と取材ノウハウを有しているのが新聞社です。新聞の退潮が誰の目にも明らかになってしまった現在においても、これは変わりません。
フリーのライターさんからは、新聞の取材力に批判的な意見も聞かれます。それもある面で正しいとは思いますし、独自の取材力を持つフリーライターが少なくないことは承知していますが、新聞社で先輩から後輩へと受け継がれる取材ノウハウや取材力はいまだ侮れない水準にあるのは確かです。
優れた文章は、テニオハの使い方だけで書けるものではなく、そこに盛り込まれる視点や情報の質に負うところが大きいわけで、それは取材力から生まれます。取材力は情報収集力と言い換えてもよいでしょう。
ビジネスの世界でも、学問の世界でも、広報の世界でも、取材力のある人とそうでない人では、企画やアプローチの仕方に大きな違いが生じるはずです。これこそ新聞記者OBのみなさんから伝授していただきたいノウハウだと思うのです。〈kimi〉
 

記者にビジネス文書が書けるか

新聞一面下にある書籍広告を見ていたら、文章の書き方みたいな本の広告が目につきました。著者は元朝日新聞記者。デジャビュというべきでしょうか。このテの本の著者に、なぜか朝日新聞のOBが多い。「天声人語」の歴代執筆者をはじめとして、名文家として名高い朝日OBは何人か存在していますが、だからと言って、朝日だけに文章が上手な記者が多いとは思えません。夏目漱石は朝日に在籍していました。記者ではなく作家としてですが、その影響が今日にまで及んでいるのでしょうか。
日野啓三や真山仁は讀賣、井上靖と山崎豊子は毎日、司馬遼太郎は産経、高井有一と辺見庸は共同、横山秀夫は上毛新聞といった具合に記者経験を持つ作家は少なくありませんが、朝日出身となるとにわかには思い浮かびません。これもまた不思議な現象です。石川啄木や松本清張も短期間在籍していたものの、啄木は校正係だし、清張は広告部嘱託の図案係だったそうです(どちらもWikipediaによる)。朝日のOBは小説を書かずに文章読本を書く、のでしょうか。
なぜ新聞記者が文章読本を書きたがるのか、ということが前々から疑問でした。上記のように記者上がりの作家は少なくありませんが、新聞記事と小説の文章は言うまでもなく異なります。一方の極に小説があり、その対極にお役所の文書やビジネス文書一般があるとしたら、新聞記事はその中間あたりに位置すると言ってよいでしょう。無味無臭で(胡散臭くはあるが)常套句に満ちたお役所文書でもなく、技巧的で個性的な小説の文章でもなく、平易簡潔で読みやすく、なおかつ少々の心情の吐露も可能な文章。それが新聞記事の文章だとしたら、素人が日記や手紙を書いたり、たまにサークル会誌などの原稿を執筆したりするには適当なお手本とは言えるでしょう。しかし、ベテラン記者に企業間で日常的に交わされているビジネス文書を書けと言っても、辞表くらいは書けるでしょうが、まずうまく行かないだろうと想像します。彼らが書く文章読本は、少なくともビジネス文やプレスリリースの書き方指南ではないのでしょうね。
今日は、こんなことを書こう思って書き出したのではありませんでした。でも長くなりすぎたので、ここでやめておきます。〈kimi〉

あらたにす

朝日、日経、読売の3紙が共同で運営していた「あらたにす」というサイトがもうすぐ閉鎖されます。スタートしたときから、あの程度のコンテンツでいつまで続くものやらと思っていましたので、意外感はまったくありませんが、私はこのサイトの隠れ愛読者でありました。
楽しみに読んでいたのは、「新聞案内人」というコラムです。評論家や学者やジャーナリストが毎日交代で、新聞に関わるテーマで執筆していました。執筆者の中で、とくに新聞記者OBの方々が書かれたコラムが圧倒的に面白かったのです。彼らは現在の新聞報道の問題点をいろいろと指摘し、後輩記者たちを叱咤激励する文章をここに書き続けていました。
お名前を挙げるならば、栗田亘さん(元朝日新聞)、松本仁一さん(元朝日新聞)、水木楊さん(本名:市岡揚一郎、元日経新聞)、池内正人さん(元日経新聞)、西島雄造さん(元読売新聞)、上村武志さん(元読売新聞)といった方々です(見事に各社2名ずつになっていることに、いま気がつきました)。
これらOB記者たちのコラムを読むことで、新聞の読み方や新聞記者のあり方、また、いまの新聞の問題点等々に関して、多くの示唆を得ることができました。また、さすがに文章がうまい。おいしい料理を食べているような気分で読むことができました。
OBだから書けること、というのがあるでしょう。一方で、日本の新聞をよりよくするために現役時代にどれだけ努力したのか、という疑問も当然浮かんできます。しかし、これだけの方々ですから、それなりに努力をし、それでも大きな流れには抗うことができなかったのだ、と好意的に解釈しておきたいと思います。
これが読めなくなることはとても残念です。このようなコラムを掲載するサイトがどこかに、あらたに、できないものでしょうか。〈kimi〉

把瑠都の広報戦略

大相撲初場所で、エストニア出身の把瑠都が優勝しました。把瑠都の相撲内容について、一部の新聞が強い批判記事を書いていましたが、何年間も日本人力士の優勝がないことへのいらだちが書かせてうるようにも思えました。
それはともかくとして、これから把瑠都の人気は急上昇するのではないか、と予測しています。 もちろん強くなれば力士の人気は上がるものですが、これまで圧倒的な強さで土俵を席巻してきたモンゴル人ではなく、ヨーロッパ人力士の優勝であることの新鮮さがもう一つ挙げられるでしょう。
彼の言動は寡黙をよしとする伝統的な相撲社会のそれではなく、開けっぴろげです。それに対して批判的な日本人も少なくないのでしょうが、彼の欧米的な価値観は抑えようにも抑えられないように見受けられます。観客の声援に手を挙げて応えていたのもその一例です。これなど、若い日本人には少しも違和感を与えないはずです。
もう一つ、私が注目したのは、千秋楽での奥さんのエレナさんの和服姿です。広報的に見ればこれはかなりのクリーンヒットです。あれだけでフアンを増やしたに違いありません。また、テレビで見る限り、彼女はかなり古き日本女性のたしなみを勉強しているように見えました。日本語もある程度はできるようです。これらはすべて把瑠都の人気を高め、日本人に評価される方向に寄与するものと思われます。
これらの広報戦略を裏で演出している人いるとすれば、大したスゴ腕です。把瑠都夫妻が自分たちで考えたとすれば、彼らはかなり賢いと言えるでしょう。〈kimi〉

広報セクションの人材

先週の金曜日は、広報セミナーでかつて教えた受講者のみなさんが10名ほど集まって、楽しい懇親会を催しました。
広報のセミナーを受講する方の多くは企業の現役広報パーソンです。ところがその後3~4年の間に他の部署に転出してしまう人が少なくありません。当日集まった人たちにも、いまは他の仕事に就いている人の方が多くなってきました。
広報の組織や人材の問題を考えるとき、以下の3つの要素に留意すべきでないかと考えています。
1)広報活動には継続性が必要であること
2)広報は専門性が高い業務であること
3)社員に広報業務を経験させることは人材教育として有意義であること
その企業の広報に関するポリシーが一貫していることで継続性は保たれますが、実際には広報セクションのリーダー(責任者)の考え方に大きく左右されます。担当役員などが短期間で交代しても、内部にポリシーが保持されていれば問題はありません。しかし、なかなかそうは行きません。広報のポリシーがコロコロ変わるようでは、長期的な目標に向かって広報活動を展開することは困難です。
また広報活動には人脈が大切です。人脈というのは極めて属人的で、後任に引き継ぐことは非常に難しい。紹介を受けたとしても、そこから新しく人間関係を作りあげなければ機能しません。これすなわちコストでもあります。
「広報の専門性」を認識しない経営者も少なくありませんが、それは暗黙知が多いからではないかと思います。マニュアル化し難い種々のスキルを必要とするのが広報活動というものです。そのように考えて行くと、一定期間広報セクションに在籍している専門人材が必要だということが理解されるでしょう。
一方、経営人材養成のキャリアパスの中で、一度でも広報セクションを経験することは非常に有用であると考えられます。企業を取り巻く社会の考え方や動きを学ぶには、広報はうってつけの仕事です。その意味では、人材ローテーションの中に広報セクションを組み込むことが日本の企業にはもっとあってしかるべきです。
比較的長期に在籍する専門的な社員と短期間にローテートする社員の組み合わせ、これがが広報セクションには必要なのではないかと考えられます。〈kimi〉

自爆

申し訳ないことながら(謝る必要もありませんが)私は軽度の阪神ファンです。「軽度」という意味は、めったに球場へ足を運ばないということであり、甲子園にも行ったことがありません。ただ、試合翌日のスポーツ欄ではタイガースの試合経過を真っ先にチェックしますし、シーズン中は全試合をテレビで見られるようにスカパーと契約しております。
さて、シーズンオフにプロ野球の話を持ち出したのは、例の讀賣ジャイアンツ騒動が起こったからです。
日曜日にテレビの報道バラエティを見ていたら、卵焼き屋の息子タレントが口を極めてクビになった元GMを批判していました。そうなのかな、とも思いましたが、新聞やテレビの情報しか知らない私には判断する手がかりがありません。またどちらが正しいとか間違っているとかいうような問題でもなさそうです。
しかしながら、世の多くのサラリーマンは元GMの方にある種のシンパシーを感じているのではないか、と推測します。
何年か会社勤めをすると、ほぼ100%の確率で自分の利益しか考えない経営者や“しょうもない”上司と巡り合います。自分の考えを通したい、でも通らない。自分の意見を言いたい、でも言えない。このような葛藤と戦いながら、気がつけば定年となっている。そのような勤め人たちには、元GMが自分の姿の写し絵のように見えるだろうと想像しております。
企業は民主的な組織ではありません。ではどんな組織なのか。その明確な定義は聞いたことがありませんが、社内では何事も多数決で決まることはなく、たいてい職階上位の人に決定権があります。そんな組織なのに、法律上取締役会は多数決が原則となっていて、なんとなく民主主義風な仕組みがあるために、勤め人たちはついつい企業の意思決定に対して幻想を抱いてしまいます。
社会の視点と企業の視点の交点で仕事をしている広報担当者のみなさんは、とくに強い葛藤を抱えているはずです。トップに直言したい、という思いを何年も心の底に抑えつけていて、ついに爆発させてしまった人も少なくありません。その多くは単なる自爆で終わったはずです。私には、そのような一途な広報担当者の姿と元GMの姿もまた重なって見えて仕方がないのです。〈kimi〉

非連動

昨年の6月から、このココノッツブログをFacebookに連動させてきました。そうしておけば、あえてFacebookの方に書き込みをしなくても、このブログを自動的に転送してくれます。便利だと考えました。
Facebookって、気楽にどんどん書き込んでおられる方も大勢いらっしゃいますが、私には結構難く思えるのです。
ブログは不特定多数に読まれることが前提です。それはそれで書きようがある。しかしFacebookは一応「お友達」とだけつながっていることになっている。ブログとは異なります。異なっていなければかえっておかしい。ところが「お友達」にもいろいろな方がおられます。仕事上でお知り合いになった方もいれば、クラスメートもいる。昔の部下もいます。これらの異なった属性を持つ方々を読み手と想定するとこれは書きづらい、と私は感じます。
そんなわけで便宜的にブログとFacebook連動させてきたのですが、先日来、
「11月22日をもって、外部サイトやブログからFacebookノートにコンテンツを自動的にインポートする機能の提供を停止します」
という告知がFacebook上に表示されています。もうブログとの連動はおしまいです。となるとFacebookにもたまには何か書き込まなければなりません。さてさてどうしたものか・・・少々困惑しております。〈kimi〉

リッチについて

俳優、タレント、作家、スポーツ選手、ギョーカイ人、ニューリッチ…最近はセレブリティなんて呼ぶのでしょうか、そういう人たちがテレビや雑誌などで紹介している飲食店は、一定の地域に偏っていると思いませんか。統計をとったわけではありませんが、東京の麻布、六本木、広尾、恵比寿、代官山、青山などが圧倒的に多いでしょう。
私、東京生まれにもかかわらず、これまでそれらの地域にほとんど縁がありませんでした。代官山など、たまに行くと迷子になってしまいます。そんなわけで、グルメ雑誌においしそうな店が掲載されていても、所在地を確めては、縁がないなあとため息をついております。もちろんお値段の面からもご縁がないことが多いのですが。
そのような街々には、たぶんセレブたちのお住まいや所属事務所があるのでしょう。飲食店を開店しようとする人たちも、どうせなら北千住より(北千住にとくに恨みはありません)、パブリシティ効果のあるセレブ街の方が、と考えるのでしょう。その結果、特定の地域に集中してしまうという理屈なのだろうと推測します。
弊社は創業以来、麹町・半蔵門界隈に居座っています。近所にご同業も何社かあるものの、とくに集積しているというほどではありませんし、お客様のオフィスに近いわけでもありませんが、交通の便がほどほどよくて、おいしいランチのとれる店もほどほどある。しかも停電もない、液状化もない、マクドナルドもない。住み慣れるとそれなりに居心地のよい地域なのです。そんなわけで、ココノッツ創業4年目にして2度目の移転先も半蔵門といたしました。11月14日より新しいオフィスで業務を開始する予定です。〈kimi〉