ひきだしの中と発想の自由の関係

最近、ノベルティのボールペンをいただくとうれしい半分、「困ったな」とも思ってしまいます。
私のデスクの薄いひきだしは、ボールペン、油性サインペン、水性サインペン、マーカー、マジック、シャープ、万年筆、筆ペン、鉛筆、赤青色鉛筆等々の筆記具に加えて、ハサミ、カッターナイフ、ペーパーナイフ、定規、三文判、テープのり、ホッチキス、ルーペ、ゼムクリップ、ダブルクリップなどの文房具ですでにいっぱい。ときどき開かなくなって、ガタガタやっています。ボールペンにしても普通の黒、ジェルインクの黒、消せる赤、シャープつきの4色等々が何本もあります。原稿などはパソコンで書いていますから、筆記具はこんなに必要ありません。デスク上にはお気に入りの「ジェットストリーム 4&1」が一本転がっていて、もっぱらこれを使っています。それならひきだしの中の大量の筆記具は一体なんなのだ、ということになります。
生産現場で生まれた5S運動というものがあります。ご存じのように、整理・整頓・清潔・清掃・躾の5つを徹底させて効率を上げようというカイゼン活動の一種です。これを事務部門にも応用しようとしている企業が少なくありません。そんな会社だったら、私のデスクのひきだしは即刻摘発され、厳しく躾けられてしまうことでしょう(おおコワ!)。
私、会社勤めをしている頃から、この5Sを企画部門に適応することには大反対で、その考えはいまも変わりません。定型的な事務処理を行っている職場では効率優先で構わないと思いますが、新しいアイデアを考えたり、他社がやっていない方法を試みたりするような創造的な仕事において、優先すべきは効率ではありません。
いつものボールペンにいつものCampus noteではなくて、万年筆にグラフ用紙で企画を練ってみたらイイコト思いついた…なんて、そんな単純なことではありませんが、そのような「遊び」が企画という仕事には欠かせません。環境の自由度は発想の自由度に影響するはずです。刑務所の中で創造的な仕事をするのは一部の特殊な才能に恵まれた人に限られます。筆記具は黒と赤のボールペンのみ、しかもひきだしの中にボールペンの絵が描いてあって、必ずその位置にしまうこと。そんなことをやっている企画部門では、会社の将来は危ういのではないか、と心配になってしまいます。
とは申しましても、私のひきだしの中は少々問題です。より深刻なのは、こんなに自由度が高いのに、このところちっとも自由度の高いアイデアを思いつかないことなのですが。〈kimi〉

宗谷を見て来ました

宗谷
今月末で休館すると聞いて、船の科学館というところに行ってきました。とくに船が好きというわけでもなく、海が好きというわけでもないのですが、宗谷という古い南極観測船だけは見学しておきたいと思ったのです。
これまでの半生で、〈ちょっとこの飲み屋街を探検してみようや〉といったケースを除くと、探検と名のつく行動をしたことは一度もありません。チャンスもありませんでしたし、積極的に探検に出発するための努力もしてきませんでした。しかし、子どもの頃から憧れてはいました。一度はやってみたいと思い続けて来たのは、古いフォルクスワーゲンのステーションワゴンを駆って草原を旅することなんですが、これは梅棹忠夫さんの影響かな。
さて、宗谷は想像していた通りの小さな船でした。2000トン少々。これで氷山の浮かぶ南極へ行こう、あるいは行かせようと考えたこと自体が、今日の常識では信じられません。しかも6回も。だからこそ当時は探検であったとも言えるのですが。
休館まで1ヶ月を切った船の科学館の入場料は700円から200円へと大幅にディスカウントされていました。良心的とも言えますが、私のような駆け込み見学者でぎわう館内を見ると、経営感覚としてはいかがなものかとも思いました。いかにも社会科見学風の、真面目ではあるけども古典的な展示ともども、これでは休館もやむを得ないかな、と納得しながら帰って来たのでありました。〈kimi〉

ところでございます

「前向きに検討いたします」というのは「いまは行動を起こす気はありません」ということで、「適切に対処します」と言えば「いままで通りにやります」という意味だったり・・・。このような役人言葉に、物事を几帳面に考える人(まともな人のことですが)が腹を立てるのは至極当然のことです。
さて、ここに新たにご紹介したい役人言葉は、「・・・ところでございます」という表現です。
「それに関しましては、すでに局長通知等によって周知を図ったところでございます」というふうに使われます。よく耳にするでしょう。これを聞くたびに身体の内側がモゾモゾしてしまいます。
これは極めて特異な、役所特有の語法です。たとえば酒屋のオジサンが使うでしょうか? 芸術家が使いますか? タクシーの運転手さんが使いますか?
「運転手さん、次の信号を右に曲がってください」
「はい、その件につきましては、すでに右にウインカーを出したところでございます」
なんて言いっこないでしょう。
どうしてこんなおかしな表現が官僚に広まってしまったのか。まず思いつくのは「官僚の無謬性」という言葉です。官僚は間違うはずがない。少々問題があろうとも、それは失政ではない。したがって過ちを公に認めることもあり得ないという論理ですね。
たとえばジャーナリストに、「これはおかしいんじゃないですか?」と質問されると、「おかしいですねえ」と答えてしまったら過ちを認めることになる。そこで、その件についてはすでに把握していて、(決して有効とは考えてはいないけど)こういう手をすでに打っておりますと言わなければなりません。そのようなときに、「その件につきましては・・・ところでございます」という表現が出てくる。これが出て来たら、言い逃れ、責任逃れだと判断してほぼ間違いなさそうです。
これ、官僚だけに独占させておくことはありませんね。私たちも大いに利用しましょう。言い逃れにはとても便利だと思いますよ。もちろん、まともな人たちからは顰蹙を買いますが。〈kimi〉

メディアの基準値

これまでに聞いた「ただちに人体に影響するレベルではない」をすべて足し算すると、一体どういうことになるんでしょう。初めは高をくくっていたのですが、これほど「ただちにレベル」が累積すると、怪しい雲行きになって来ました。30年後には、日本人のがん発生率が顕著に上昇するのではないかと心配です。
そもそも次々発表される基準値というものを私は信頼しておりません。何を根拠に決められているのか、その点を疑っているからです。国際的な基準を参考にしていると言われても、前例はチェルノブイリくらいしかないのですから、どれほどの信頼性が担保されているのやら。
そのような「なんだかわからん基準値」を次々に発表する政府はもちろんですが、それをそのまま大本営発表のごとく報道しているマスメディアへの批判の声もこのところ高くなって来ました。
しかし、政府の公表基準値に代わるより適切な数値を読者に示すだけの取材力、検証力、知識、見識を新聞社や放送局が持っているとも思えません。メディアにできることと言えば、せいぜい批判的な学者のコメントをとってくるくらいことです。メディアには公的機関の発表以外の数値を報道することなどできっこないのです。それをすれば、その責任をメディアが負うことになるからです。メディア批判をしているのではありません。それがメディア、いやジャーナリズムというものだと申し上げたいのです。〈kimi〉

ブログなんですが・・・

え~、なんてわざとらしく書き出したのは、なんとなく言いにくいというか書きにくいからです。そのわけは、このブログをFacebookの私の”ニュースフィード”という欄に自動的に転送する設定にしてしまったからです。うまく連動するかなあ、というおっかなびっくりな気分もあるし、「友達」ということになっている方々に読まれることに対する緊張もある。
なまけなまけ書いているココノッツブログは、どのくらいの方々から読まれているのかよくわかりません。もちろんログ解析レポートには数字が打ち出されているのですが、世間一般のブログに比べればかなり少ないのではないかと思います。
それなのになぜ書いているか。理由はいろいろあるんですが、自分自身の文章トレーニングの場、というのが実は大きな部分を占めています。たとえばブログの文章とプレスリリースの文章とは大きく異なりますが、それでも文章を書くという行為を続けていないと筆が(キータッチが)錆び付きます。ブログを書きながら、密かにレトリックの練習をしたりもしております。
そんな練習につき合っていられるか、と下心はすぐに見透かされ、それが読み手が少ない原因かもしれません。そんなエチュードをFacebookと連動させるなんて、恐れ多いことです。しばらくやってみて、続けるかどうか改めて考えることといたします。〈kimi〉

「間違いありません」

「担当者が不在でコメントできない」
都合の悪い取材を受けた企業の決まり文句です。実際にはどのように答えたのか知りませんが、新聞にはこのように書いてあります。担当者って、だれなんでしょうね。広報担当者かな。それだったら、「社長を出せ!」となるから、具体的な職名を出さないところがミソなんでしょう。
「訴状を見ていないのでコメントできません」
訴えられたときの逃げ口上。たしかに訴状が届くより先に取材を受けることが多いので、これはなかなかよく考えられたコメントであるとも言えます。「えっ、ウチが訴えられたの? で、向こうはなんて言ってるの? ああ、そりゃあ違うよ」なんて、記者から情報もらってペラペラ答えるわけには行きませんものね。
「判決を精査し、控訴の要否を検討する」
これは敗訴したときの紋切り型。検察もよく使います。判決直後では答えようがないのもたしかです。
「弁護士に一任している。答えることはありません」
というのもあります。
紋切り型のコメントというのは一般にはお薦めできませんが、時間稼ぎをしなければならないときや、実際にコメントのしようがないときなど、やむを得ないケースもあるでしょう。
新聞の社会面でよく見かけるコメントに
「仕事のストレスからむしゃくしゃしてやった」
というのがあります。万引き犯の定型的自供ですが、どうも真実とは思えません。
「オイキミ。なんで万引きなんかしたんだ?」
「このところ会社で面白くないことが続いたもんで・・・」
「仕事のストレスがあったということだな」
「まあ、そんなところで・・・」
「それじゃ『仕事のストレスからむしゃくしゃしてやった』と調書に書いとくけど、それで間違いないな?」
「間違いありません」
容疑者、取り調べ側ともども、真実なんて考えれば考えるほど、またいくら追求してもわからないから、適当なところで手を打ちましょう、ということじゃないか。しかし、それでいいんでしょうか。
近頃、新聞やTVニュースでしばしばお目にかかるのが、この「間違いない」というフレーズです。「容疑者は、『自分がやったのに間違いない』としている」と結ばれている記事が少なくありません。警察発表をそのまま記事にしているのでしょうが、報道もまた適当なところで手を打っているわけです。〈kimi〉

先頭集団から5m

少し前にTwitterが話題になったと思ったら、昨年末の中東ジャスミン革命あたりからは、俄にFacebookが注目されるようになりました。
こう書くと、ITに熱心な方々から、いやもっと前から盛んに使っているよとお叱りを受けそうですが、日本の社会一般ではこのあたりが妥当な認識だろうと思います。
さて先日、そのようなソーシャルメディアをどのように広報に応用するか、といったテーマのセミナーに参加して来ました。それなりに参考にはなりましたが、ふと会場を見回して気づいてしまいました。ひょっとしてこの会場内の最年長者は私じゃないの? 広報の世界の方々は一般に若作りが多いので正確には判断できかねますが、三番以内であることはほぼ間違いなさそうでした。
同年代のビジネスマンたちの中に、メールは読むけど返事は出せないという人がいまも存在します。TwitterやFacebookにはついて行けないと、あきらめている人たちがほとんどです。一方で、はるかに年長にもかかわらず元気にTwitterでつぶやき続け、Facebookのニュースフィードに毎日書き続けている方もおられます。
どんどん進化するIT技術にキャッチアップし続けるのは、マラソンに似ています。先頭集団に遅れそうになって、もうダメだと思った瞬間から、あっという間に100m、200mと引き離されてしまいます。なんとか先頭集団の後方5mに食らいついている、というのがいまの私のポジションでしょうか。実に危うい。次の給水ポイントはまだかしら・・・そんなこと考えているようでは、途中棄権もあり得るかな。〈kimi〉

何を持ち出すか

福島第1原発事故の警戒区域で、一時帰宅が昨日ようやく始まりました。2時間という短時間の中で、それも防護服やマスクをつけての作業では、必要なものをすべて持ち出すことはさぞ困難だったでしょう。自分だったら、何を持ち出すだろうと考えたのですが、通帳や印鑑といった公的手続きに必要なものはともかく、それ以外で優先順位をつけるのはかなり難しい。悩みに悩んだ末に、結局つまらないものを持ってきてしまいそうな気がします。
新聞やテレビの報道によると、アルバムと位牌を持ち帰った方が多いようです。
アルバムは、70年代のテレビドラマ「岸辺のアルバム」以来、家族にとって大切なものという認識が広く共有されるようになりました。とくに自宅に帰れず避難されておられる方々にとって、家族の絆の証であるアルバムはよりかけがいのないものとなったことでしょう。
位牌については、持ち帰った方と花を供えて帰った方がおられたようです。宗教心というよりも、これも家族との絆の象徴と考えられます。どちらにしても、お位牌が無視しがたいものであることは間違いありません。位牌なんて、戒名を書いた木札に過ぎないという考え方もあり得るでしょう。お骨はお墓に埋葬してあると考えれば、持ち出すべきより重要なものがほかにあるかもしれません。
自分ならどうする。自宅の仏壇には、お目にかかる機会のなかったご先祖様も含めていくつものお位牌が祀られています。戦死したご先祖のもある。戦死ったって、第二次大戦ではありません。幕末の戊辰戦争です。それらの位牌を自分ならどうするか。
停電もなくなった東京で、そんな想像をいくら巡らせていても結論は出ません。しかし、いつになったら戻れるか、先の見通せない状況では、お位牌はやはり持ち出さなくてはならない重要アイテムなのだろうなあ、などとも考えました。
ここには日本人の信仰、考え方、心の動き、文化のありよう、人間関係、価値観・・・そんなものが残らず凝縮されています。このような日本人を理解できること。これこそ日本で広報の仕事をしている人に求められている最も大切な能力であると、これだけは確信できるのですが。〈kimi〉

広報パーソンに何ができるか

東日本大震災の被災地には多くのボランティアが訪れているようです。がれきの撤去を手伝う人、避難所でカレーをつくる人、被災者の心のケアをする臨床心理士、歌手、タレント、スポーツ選手、被災者のの話を聞くボランティアもいるそうです。体力のある人はそれだけで役に立つでしょうし、医師やコメディカルなどの資格を持っている人は歓迎されるでしょう。人気者はその人が現れるだけで喜んでもらえます。
それでは広報を仕事にしている人には何ができるのでしょう。たとえば私に何ができるかと考えたら、途方に暮れてしまいました。体力にはまったく自信がありません。現地のご迷惑になるばかりです。役立ちそうな資格や特技もありません。壁新聞つくりのお手伝いくらいはできそうですが、壁新聞は被災した地方紙の記者さんがすでにやっておられると聞きました。そんなわけで、何か手を貸したいと思いつつも歯がゆい思いをしております。
企業の広報担当者だったら何ができるでしょう。その専門性を活かそうと思うなら、やはりコミュニケーションで役に立ちたいものです。
企業がしなければならないことは、言うまでもなく本業をできるだけ早く軌道に乗せることです。復旧状況を取引先ばかりでなく、株主、投資家、顧客など社会全体に知らせ、情報を共有する。これは、現下の社会・経済状況においては非常に重要な企業活動と言えるでしょう。東証の適時開示情報閲覧サービス(TDnet)には、多くの上場企業から震災による影響や被害の復旧状況が開示されています。上場企業でなくても、これは必要なことと考えられます。広報やIRの担当者でなければできない震災対応業務の一つかもしれません。〈kimi〉

これでよいとは思いませんが

私は菅直人という人に一度も会ったことがありません。ましてや腹を割って話したこともない。メディアを通して、その行動の一端については70年代から伝え聞いてはおりますが、実際にどんな人物なのかはまるで判断がつきません。
その首相に対する批判がメディアで高まっています。とくにいくつかの新聞は、その一挙手一投足についてことごとく批判を展開しています。どんな思惑があるのか知りませんが(うすうすはわかっておりますよ、もちろん)、そこまで書かれるのですから、菅首相もお世辞にもうまくはやれてはいないのでしょう。
しかし、だからと言って他の誰かが政権を担えばうまくやれるのかと言えば、決してそうとも言えません。誰がやっても五十歩百歩。画期的に事態が改善するなんてことは望めません。日本が緊急事態に直面しているこんなときに政局を混乱させてはかえってマイナスでもあります。
それよりも気になるのは素朴な「強いリーダー待望論」が高まっていることです。強力なリーダーが一人であれこれ指示を出せば、物事の進行が多少は速くなるかもしれません。しかし、それに従って誤った指示を出す確率も高まります。さらに問題なのは、一つの価値観ですべてを決定してしまうことです。それによって不幸になる人たちが必ず出て来ます。多くの場合、幸福になる人たちより不幸になる人たちの方が多くなることは、過去の歴史からも明らかではありませんか。
現政権を支持しているわけではありませんが、妙な独裁者が登場するよりはよほどマシではないか、と考えつつ今後の成り行きを心配しております。〈kimi〉