1分のおまけ

ココノッツのオフィスは、半蔵門線の半蔵門駅の3番出口から出るとすぐなのですが、初めての方が、他の出口から出てしまって迷子になる事故が多発しております。
半蔵門駅には4つの出口があります。永田町寄りの1番・2番出口は新宿通りの南側にあって、地上に出ると顔が東向きになります。3番出口は新宿通りの北側に位置して、西向きです。4番は閉鎖中で、九下寄りの5番は東向きです。それぞれ地上に出たときの方角が異なり、そこから他の出口を確認することができません。地図を頭に入れておいても、自分の位置を認識するのがとても難しい。
また、弊社にいらっしゃるお客様には、「常識」の裏を読むことを信条としておられるへそ曲がりや、他人の話を容易に信用しない修練を積んでおられる方が多く(いえ、これを読んでおられるあなた様では決してございません)、口を酸っぱくして「3番、3番」とお教えしているにもかかわらず、悠然と忠告を無視なさることが多いのです。
かくして迷子が続出することになる、ということが1年余にわたる研究の結果、判明したのであります。
その3番出口から弊社まで徒歩1分と地図に表示しております。ここだけの話ですが、これは「不動産の表示に関する公正競争規約」に実は反しております。3番出口から弊社まで地図上で計測すると91m。規約によれば「80メートルにつき1分を要するものとし、1分未満の端数が生じたときは、1分として算出する」とされています。これに準拠すると本当は2分が正しい。誠に申し訳ない次第ではありますが、弊社は不動産屋ではありませんので、11mの余分をお許しいただきたい。因みに、有楽町線麹町駅から3分と書いてあるのも、4分が正しい。それぞれ1分ずつ誤魔化して、いやオマケをいただいております。〈kimi〉

広報における生きがいについて

昨夜は、株式会社宣伝会議主催の「広報担当者養成講座」。これで何回目になるかわかりませんが、いつも第一回目の講師をつとめています。そして、第一回は、なぜか雨の日が多いんです。昨日もお約束通りの雨でした。
約2時間の講義のあと、受講者から「広報の仕事における生きがいってなんでしょう」という質問がありました。
私は、広報は面白い仕事だと考えています。結果がすぐ出るからです。リリースを出したり、記者とコンタクトをとったりして情報を流すと、その翌日には記事となって、その成果を手にすることができます。こんな仕事って、会社の中でほかにあまりありません。
そのうち、「この間、こんな記事が出てましたね」などという声が、取引先からも友人からも家族からも聞こえて来ます。
それが重なると、会社の中が少し変わってきたような気がして来ます。社員が社外からの目を意識するようになります。「見られている」、「関心を持たれている」という意識を持つと、人間は活き活きとしてくるようです。いつも他人から注目されている女優さんはますます美人になる、という話を聞いたことがありますが、それと同じことです。
こんな仕事って、ほかにあるでしょうか。
これが広報という仕事における生きがいなのではないか・・・と、そんなことをお答えしました。〈kimi〉

校長先生のマスク

とうとう新型インフルエンザの国内感染が明らかになりました。入ってしまった以上、これからは一人ひとりが感染しないように注意するしか有効な手立てはないようです。
しかし、どうして高校生ばかり(その家族や先生もいますが)感染するのでしょうか。海外へ行ってもいない生徒が突然罹ったのですから、学校側が慌てるのはよくわかります
そこで、ちょっと気になるのは、記者会見する校長先生のマスクです。
患者を出した学校ですから、校長先生も発症はしていないものの、すでに感染している可能性は捨てきれません。記者にうつしてはいけないからマスクをしているのでしょうか。それとも、記者から感染したくないからでしょうか。私が見たニュース映像では、マイクを突きつけている記者でマスクをしていたのは少数派でした。
医学的にはどうあれ、感染者を出した学校の責任者がマスクをしていないとは何事かと、誰かに叱られるのを恐れているのかもしれません。この際、マスクをする習慣を広めたいからお願いします、と所管の保健所から要請された、とも勘ぐってみましたが、これは考え過ぎかな。しかし、危機意識を煽るには一定の効果はあるでしょう。
広報的な観点からはどうでしょう。「生徒の感染対策に校長先生も大汗かいてます」という演出効果はあると思いますが、少々わざとらしさも感じますね。病院の記者会見でドクターが着る白衣と同様、意味があるようで実はあんまりない。
今日の状況では、校長先生のマスクはない方がよいように思うのですが、いかがなものでしょうか。〈kimi

インフルエンザ一色

連休のド真ん中だというのに、今日はオフィスへ出てきました。
ココノッツでは、ほとんどの全国紙や主要産業紙を購読していますので、休日が続くと、配達された新聞が「ココノッツ特製巨大新聞受け」からあふれ出してしまうからです。また、お客様のご希望や私たちの問題意識に基づいて、複数のデータベースで掲載記事をモニターしておりますので、それのチェックも欠かせません。
というわけで、オフィスにやってきたのですが、データベースの方は空振りでした。連休前から新聞は豚インフルエンザ(インフルエンザA、H1N1)一色です。それもニュースソースが限定されているためか、各紙の記事はどれもこれも中味はほとんど同じです。各社の医療担当記者はインフルエンザにかかりっきりで、事前に入稿してあったと思われる記事以外には、注目すべき医療記事は見あたりません。
新型インフルエンザの情報は現在のところ最もプライオリティが高く、国民に正しい情報を十分伝達するのが報道機関の役割ではありますが、医療広報を仕事にしている私たちにはちょっぴりつまらない最近の新聞です。〈kimi〉

川の流れのように

いつの頃からか、私は「世慣れた人間」と見られることが多くなりました。「世慣れた」という言葉には「清濁併せ呑む」ような、いやどちらかと言えば「濁をたくさん呑む」ようなイメージがあります。私に関してそれはまったくの誤解であると、ここで申し上げておきたい。
実は、仕事の上で初対面の方と名刺交換やご挨拶をしたりしているとき、「どうしてこんな大人っぽい挨拶ができるんだろうなあ」と自分を客観的に眺めているもう一人の自分の目に気づくことがあります。「いつからこんな世慣れたことができるようになったんだだろう」とも。おかしいかもしれませんが、私の内部には、いまだにオロオロしながら世の中を渡っているという感じがあるのです。
広報の仕事を長くしながら今日に至っているのですから、世の中に慣れていないということはありません。世の常識というものを知らなければ、この仕事はできません。それはそうなんですが、広報の仕事をしていると、同時に「世の正義」といったものを肌身に感じることも少なくありません。世慣れてはおりますが、青っぽいところもあるんですよ、こう見えても。
さて、神奈川県横浜市に生麦というところがあります。幕末、薩摩藩の島津久光の行列を馬上のイギリス人が妨げたとして、藩士が斬り殺した生麦事件の現場ですが、そのあたりから東京湾に注ぐ鶴見川という比較的大きな河川があります。以前は汚れきった濁流の川で、私などはいまだにそのイメージを持っています。最近はそれほどでもなくなったようですが、清流というにはほど遠い川です。その源流が、自宅からそれほど遠くない町田市にあることを今日偶然に知りました。幸い天気もよいので、思い立ってぶらりと(と言っても近くまでは車で行かなくてはなりません)そこまでに出かけて来ました。

鶴見川源流


この写真がその源流の池。地下から清水が湧き出ていました。その清らかな流れが、川崎市の北部を流れ、東名高速の市が尾ICの近くを通り、やがてJR横浜線に沿って流れて、鶴見総持寺から花月園競輪の脇を過ぎ、流れ流れて生麦に達して濁った川になる。いや、まったく人の一生に似ています。「川の流れのように」なんて美空ひばりの歌を思い出します。
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上の写真は、その源流付近の里山の風景です。このあたりは、朝日新聞「にほんの里100選」に、東京で唯一選ばれた「小野路」のすぐ近くでもあります。〈kimi〉

医療政策を勉強する

先週から毎週金曜日、「安心と信頼の医療・福祉のデザインー医療・福祉ジャーナリズムの視点からの考察ー」という長い長いタイトルの講座に出席することにしました。国際医療福祉大学大学院が讀賣新聞とタイアップして開いている特別講座です。医療広報を専門としている以上、こういうところにも積極的に出席して勉強しておかなくっちゃ仕事になりません。
というわけで出席してみると、会場には大手製薬会社の広報部長さんの顔がいくつも見えます。みんな勉強家だなあ、とも思いますけど、讀賣新聞の医療情報部や社会保障部の現役・OB記者がずらりと講師陣に名を連ねているのですから、その下心は知れています。私自身も、そうではないとは言いませんが、広報・IRコンサルタントとして仕事をしていると、日本の医療の本質的な問題をもっと理解しておきたいという気持が、企業の広報室長としていたときよりはるかに強くなってきました。
第1回のゲストスピーカーは元厚労省医政局長で副学長の岩尾総一郎氏でした。医療行政に関わってこられた実体験談など、有益なお話がたくさんありましたが、会場からの「政策をつくっているキーマンは誰か」という質問に、「役所は合議制なので、課長代理あたりから提案が上がって来る」と答えられたのには、なるほどと思い当たりました。
このところ仕事上の必要から、厚労省や経産省の方々とお話する機会が増えましたが、民間からの具体的な提案に対して、課長代理クラスの行政官のみなさんが予想以上に関心を持ってくれます。
吉村仁元厚生省事務次官が1983年に唱えた「医療費亡国論」が日本の医療行政に大きな影響を与え、四半世紀近くもこの発想に縛られ医療費抑制政策が続いてきました。ところが現在の経済危機を乗り切るための補正予算が連発されるようになって、いま状況は大きく変わってきました。岩尾氏によれば、すでに「医療費亡国論」の影響はなくなっているのではないか、とのことでした。
民間の提案への許容度が高くなったのも、そのためなのかもしれませんが、その場しのぎの予算執行のアイデアだけではなく、将来につながる制度改革の提案を業界もしなければならないし、政策立案者の側もそれをしっかりと受け止めてほしいものです。〈kimi〉

トップの椅子


この季節、連日新聞にトップの交代が報じられています。企業にとって、トップ交代は最大のイベント。広報も発表準備に神経を使い、発表後はトップインタビューが続いて気が抜けません。そんな経験を思い出すだけで、その頃の疲労感が甦ってきます。
さて、そのトップになった人たち。なり立てはいたって殊勝なものです。いくら威厳を取り繕おうとしても、「どうぞよろしくお引き立てを願います」といったところがチラチラ見えます。それが2年たち4年たち、もう1期やろうかという頃になると、そこはかとなくカリスマ性を備えてきます。周囲は腫れ物にも触るように、トップに接するようになります。
その象徴は椅子に表れる、ということに最近気がつきました。執務室の立派な革張りチェアのことではありません。会議室や応接室の席のことです。役員会などでは、出席者は会議机の長辺に並んで座り、チェアマンは短辺に席を占めることが多いようです。そのうち、その短辺の席はトップ本人以外は座らなくなります。トップの加わらない打ち合わせでも、その席だけは空席で残されます。畏れ多い、といった気持でしょうか、そこに座ると叱られるとでも思うのでしょうか。応接室も同様です。たいていトップの座る椅子は決まっています。その席には副社長も座らなくなります。
そうなったときにワンマン化が始まり、やがて独裁経営となり、ついには老害経営となります。
このようなことは外資系の企業ではほとんど見られません。つい先ほどまで社長が座っていた椅子に平社員が平気で座っています。日本人と欧米人との考え方の違いと言ってしまえばそれまでですが、このような企業文化の違いは、企業経営のいろいろな面に表れてくるようです。どんなところに表れるか・・・たくさんあって、今日はとても書く気になれません。いずれまた。
写真は自宅近所の桜です。このところの寒さでまだ一分咲き。〈kimi〉

欺されました

新聞の書評を参考にして本を買うようになったのは、40歳を過ぎた頃からでしょうか。
学生時代は、大学近くの古本屋街で、毎日のように棚を眺めながら帰りました。自分が関心を持っている領域なら、どの店のどこの棚にどんな本があって、それがいつ売れたかまで、だいたい頭に入っていたものです。一冊読めば、次に読みたい本や読むべき本の見当がおおよそつきます。そうやってチェーンのように読み続けました。チェーンスモーカーならぬチェーンリーダーです。
ところがだんだん毎日の帰りが遅くなってきて、たまに書店に立ち寄ってもじっくり棚を眺める体力と気力と時間がなくなってきました。読みたい本はいろいろあっても、どこから手をつけたらいいのかわからなくなりました。そこで、それまで半分バカにしていた新聞の書評に頼ることになったのです。
近頃の新聞には、毎週掲載される権威がましい書評欄のほかに、気軽に読める本を紹介するメージが設けられています。これから述べることは批判というか悪口なので新聞名は伏せますが、何週間か前のある新聞のそのようなページに、ある時代小説が紹介されていたのです。書名まで伏せてしまったら、何のことやらさっぱりわからないでしょうが、お許しください。広報を仕事をしている以上、新聞社にはイイ顔をしておかなくてはなりません。
で、そのページの評者である文芸評論家によりますと、「これまで推薦文を書いた本の書評は控えることにしていたが、はじめてその禁を破る。それほどにこの一巻は素晴らしい」ということです。これ以上の絶賛はありません。数日後にAmazonに発注しようとしたら、なんと品切れです。売れているようです。これなら書評は本物だと思って、ますます読みたくなりました。数週間後にもまだ品切れ。そこで都心の大書店までわざわざ出向いて増刷版を入手しました。
読んでがっかり。プロットの流れに無理があって、半ばあたりではストーリー展開に汲々としているのがミエミエです。登場人物の描き方も平板で、人物像が浮かび上がって来ません。帯に「愛する藤沢周平に捧げた渾身の一巻」とありましたが、天国の藤沢さんもさぞかし迷惑されておられることでしょう。信用できませんな、この文芸評論家。
これまで書評を参考にして失敗したことはあまりなかったのです。書評を読めば、私が関心を持って読める本か、どの程度のレベルの本かなど、おおよそ見当がつくものです。しかし今度ばかりは失敗でした。手放しの絶賛ほど胡散臭いものはないと気づくべきでした。広報の仕事を長くやっているのですから、そのくらいのことはわきまえていなければなりません。欺される私が悪い。しかし、いまいましいなあ、本当に。〈kimi〉

みごと合格!

「今年の漢字」を毎年発表している日本漢字能力検定協会が、公益法人のくせに儲けすぎだと叱られています。私の漢字能力も怪しいものですが、検定試験を受けてみようなどとは考えたこともありません。試験に落っこちたら面目ないし。というわけで、京都検定だとか常識検定だとか、その類には一切目もくれずにこれまで来ました。
ところが、なんの拍子か「茶道文化検定」なるものを受けてしまったのです。カミさんがお茶の先生から聞き込んで来たのですが、今回が初めての試験で、1級2級は来年から。初年度は3級4級の試験のみで、薄いテキストの中からしか出題しないというのです。
最初はやさしい、というのが検定界(というものがあるのかどうか知りませんが)の常識です。テキストを見てすぐにあきらめた日本アナリスト協会の検定も最初はやさしかったというウワサです。受けるなら今がチャンス。
私、恥ずかしながら、茶席というものに連なったことが一度もありません。いつか茶道を習ってみたいとは思いながらも、はい、そこでは手をこうやって、はい、そこで床の間の花を愛でましょう、つぎに茶碗を鑑賞します・・・等々、箸の上げ下ろしからお尻の拭き方まで指示されるのはかなわんなあと、どうにも気持が前に進みません。その上、なんだかんだと先生にお礼を包まなければならないのもちょっとコワイ。
そういう次第ではありますが、そのテキストについていた練習問題を試しにやってみたら、大学入試で日本史を選択しただけあって、かなりできる。がぜん挑戦意欲が湧いてしまったのでした。
テキストを3回さらりと読んで11月末の試験に臨みました。お茶は何科の植物か。てっきりバラ科と思いましたが、ツバキ科が正解らしい。これって、テキストに書いてないんですよ。ズルイ!
昨日、ついに結果の通知がまいりました。見事3級に合格です。91点で9問間違えました。カミさんは98点。ちょっと悔しいが、合格は合格です。さあ、お茶の文化ならなんでも聞いてくださいの心境です。
茶文化検定
ちなみに受験者数6,377名、合格者数6,303名。合格率98.8%だって。な~んだ、みんな受かってるじゃないの。原付免許よりやさしい。
来年の1級試験を受けるかどうかは、まだ決めておりません。こうやって主催者の資金集めに協力するのもどうかと思うし・・・。〈kimi〉

眠らせない

一昨日、土曜日の夕刻に学生時代の友人たちがココノッツのオフィスに集合しました。近くのレストランで遅めの新年会をやろうという目論見です。
集まった旧友の一人に某大学で演劇を教えている男がいます。大学教授としてより、前衛演劇団の主宰者として、その世界ではちょっと名を知られている存在です。長いつき合いなので、公演のたびにご案内をいただきます。初めはクラスメート総見といった塩梅で揃って観劇に出かけたものですが、やがて一人減り二人減り、ついに誰も行かなくなってしまいました。
暗い照明、聞き取れない台詞、怪しげなうなり声、そして筋のわからないまま終わってしまう舞台進行(一種の不条理劇なので当然と言えば当然なのですが)。折りたたみ椅子の小劇場で2時間あまりの芝居を見通すのは、普通の人間には眠い以上に苦痛でもあります
「オマエの芝居は眠いからなあ」などと、率直すぎる感想をぶつけられるのも学生時代の友人なればこそですが、「オレの演劇はエンターテイメントではない」とうそぶいて平然としています。
そんな眠い前衛劇にも熱心なファンがついていて、ときどき大新聞劇評にも取り上げられるから不思議です。人間の多様性とは、実に偉大なのです。
さて、前衛劇での居眠りには寛容な私ではありますが、広報セミナーなどではそうは行きません。受講者に居眠りをされると、講師としても私の立場がなくなります。そこで数年前から、私は一つの目標を設定することにしました。一人も寝かさないで2時間の講義を終える、というのがその目標です。
まず声です。小さい声、聞き取りにくい声では眠くなるのは当然です。私は地声が大きいので、その点は問題ありません。ただ、ときどき語がはっきりしないときがあるようです。受講者のアンケートで鋭く指摘されてしまいましたが、これは眠気とは関連がありません。
平板な話し方をしないことも大切です。声を大きくしたり小さくしたり意識的にしています。ある方から教わった方法は、ときどき黙る、というものでした。静かな時間が続くとぐっすり眠れそうですが、その説によれば、周囲の異変を感知して目を覚ますのだそうです。これはまだ試したことがありません。適度な間を置くと話にメリハリが出て、眠くなりにくいのは確かです。
抽象的な解説の連続も眠気を呼びます。私は会場を見渡して、居眠りをし始めそうな人がちらほら見えたら、実例や失敗談を話すことにしています。これはとても効果的です。
受講者のモチベーションももちろん影響します。学校の教師なら有無を言わさず講義すればよいのでしょうが(だから登校拒否が増えるんだ)、セミナーの講師はそうも行きません。聞き手の興味や問題意識とかけ離れた話をしていては、居眠りされても文句は言えないのです。「はずさない」ということが眠気を呼ばない最大のポイントなのです。
実は、前衛劇で眠ってしまう原因もまさにここにあります。一般にこれを「ひとりよがり」と呼ぶのですが、こればかりはとても友人には言えません。ゲイジュツとはひとりよがりなものですし。〈kimi〉