自慢をします。アガサ・クリスティの推理小説「ナイルに死す」、まだ殺人事件が起こる前に筋立てが読めてしまいました。かなり確信が持てたので、その後は小説家がどのようにストーリーを展開させるのかに関心が移りましたが、それはそれで楽しく読み進むことができました。こういう推理小説の読み方もあるんだなあというのが新たな発見でもありました。
実は読みながら、なんとなくこれは何かに似ているなあと気になっていたのですが、なんだかわかりませんでした。読み終わって、仕事をしているうちにハタと気がつきました。これはメディアトレーニングに似ている。
とくに危機管理広報のシミュレーショントレーニングでは、架空の事案を創作して、それに関する模擬記者会見や模擬取材を行います。トレーニングを受ける経営者や幹部社員のみなさんにとって現実感のある架空の事案をつくりあげる作業が一つのポイントなのですが、それが推理作家の創作プロセスと似ているのではないか、と気づいたのです。
架空の事案であっても、実際にありそうな真に迫ったストーリーであることが必須条件です。それを考えるのは一苦労なのですが、一方でちょっと面白い仕事でもあります。こんなこと誰も考えられないだろうなあ、と一人悦に入ったりしながらやっています・・・と、最後も自慢で終わります。
月刊住職は面白そう
今日の朝日新聞の出版広告をぼんやり見ていたら、「月刊住職」の広告が目にとまりました。以前にも書いたことがありますが、いつもいつもこの雑誌の見出しは面白い。
「都道府県寺院密度と寺院消滅予測度と住民幸福度はつながっている」というのは、どんな記事なんでしょう。お寺の密度が高いと幸福なんでしょうか。お寺がなくなると不幸になるのかなあ。そう言えば過疎化が進むとお寺も維持できなくなると聞きました。どんな相関関係なんでしょうね。
「学生減 宗門大学11校の現状とサバイバル」 お寺さんが経営している大学を宗門大学と呼ぶんですね。京都のさる宗門大学の職員さんによるFacebookの書き込みを読むと、関西から北陸、四国の高校や予備校を軽自動車で行脚して説明会を開いておられるようです。
「終活世代にせまる親の葬儀と自分の葬儀」 お葬式の専門家であるお坊さんも困っているんですね。ちょっと意外。
「なぜ寺に奥の院があるか」 なるほど。本堂のさらに奥、山の上に奥の院があったりしますね。なぜなんでしょう。
「お寺のライトアップを必ず成功させる秘訣」 現世的なテーマで、思わず笑っちゃいました。桜の季節に京都などに行くと、ライトアップする夜間だけ高い別料金をとるお寺が少なくありません。あれはどうも気に入りませんが、おいしいビジネスなのでしょう。
「佐渡にウサギ観音が現れた訳」 これはなんだかわかりません。在家の人間にはどうでもいいいいようなことだけど。
「人工知能は何を変えるか」 お寺にもAIを活用する余地があるのでしょうか。お布施の額と葬儀の参列者の数を読み取って、自動的にお経の長さを変えるとか・・・?
この雑誌を宣伝するつもりはありませんが、なんとなくユーモアを感じます。小難しい仏教哲学や説教などは全くなくて現世利益に徹しているところが潔い。買ってみたい気もするし、1,740円は高いような気もするし。
自画自賛否両論
この「Guessのかんぐり」をほめてくれる人がいました。学生時代からの友人ですが、その人も編集・ライター稼業のプロなので、わかる人にはわかるんだなあ、とこちらはいい気分になりました。
と、これは本当の話ですが、「友人がほめた」というのは他人からの評価で、それを「ここに書いた」というのは自画自賛というものでしょう。
少し前にこんな経験をしました。あるイベントが大変よい成果を得たので、終了後に担当者をほめようとしたまさにそのとき、その担当者自身が言い放ちました。「私ががんばったらうまく行ったんです」 その瞬間、ほめ言葉が引っ込んでしまいました。ムムムムム。 ほめたいと思ったのに、ほめられなくなってしまいました。自画自賛以上にこちらがほめて上げればよいようなものですが、そんな気力も吹っ飛んでしまいました。お互いに、こんな不幸なことはありません。
長い会社勤めの間には、一生懸命仕事をしてそれなりの実績を上げたにもかかわらず、ちっともほめられない、という経験をずいぶんしてきました。実にくやしい。誰かに自慢したい。その気持が抑えられなかったこともしばしばですが、自分から口に出して逆効果になってしまったことが多かったかな。かと言って、評価されるまで何年も待つというのもねえ。「黙っていれば必ず誰かが見てくれているもんだよ」などというおためごかしの常套句ほど怪しいものはありませんが、ときたまその実例に遭遇するから話がややこしくなってしまいます。
自分の手柄でもないことをすべて自分の実績だと本社にレポートする外国人マネージャーもいました。そんなインチキレポートをそのまま信じる上司の目も節穴だと思いますが、それが見事に成功したと思われる実例もありましたから、このあたりがまた実に難しい。
企業人ではなくて、企業そのものの場合は黙っているばかりではいつまで経っても評価されません。評価されるまでの時間をコストと考えるべきだと思います。いいことをしたら、それをアナウンスするのは説明責任の一部と言えるでしょう。人事評価と広報活動とは分けて考えないといけませんね。
まなじりを決する必要はなくなった?
今年の5月から元号が変わるそうですが、昭和が平成に変わったときほど、元号不要論がマスコミに登場しないことに少し驚いています。
では、自分自身は過去の出来事を元号で記憶しているのか西暦で記憶しているのか、と考えてみました。
生まれた年は昭和で覚えていましたが、いつしか西暦の方が先に浮かぶようになりました。ネットで申し込みなどをするときに西暦での記入を求められることが多くなったことが影響していると思います。
祖父の生まれ年は元号ですが、父の生年は元号と西暦が同時に浮かびます。明治33年つまり1900年という区切りのよい年だからです。母の生年は、父との年齢差11年を足すことで1911年と計算できますが、大正に変わる前年と記憶してきました。明治44年です。
小学校に入学した年は昭和で記憶しています。大学を卒業した年は西暦です。就職した会社が外資系だったからかもしれません。転職した年も西暦です。
大病が見つかった年は暦年ではなく年齢で覚えていますが、その前年に西暦2000年の大騒ぎがあって、1月2日の朝、お屠蘇に酔っ払ったまま対応のために出社しました。あの時点ではその後の病気を知らなかったのだなあ、と感慨にふけることがあります。
会社をやめてココノッツを立ち上げた年は2008年と西暦で覚えているので、平成何年だったか咄嗟には思い出せません。
振り返ってみると、近年になればなるほど西暦で記憶している事柄が多いような気がします。平成も30年になりますが、生まれたときから昭和が身体にしみ込んでいるので、一瞬戸惑うのです。昭和の年に25を加えれば容易に西暦に転換できましたが、平成の年から11を引くと西暦になることは、いまさらながら先ほど調べて知りました。前世紀なら平成の年号に1988を足すことで西暦に転換できます。そんなことをする人はまずいないでしょう。
日常生活はすでに西暦を中心に動いていて、元号はいわば文学的な存在と言えるかもしれません。伝統だから元号があってもいいよね、とそんな感じでしょうか。だからまなじり決して元号の存続を論じることも少なくなってきたのか、とかんぐっております。
主客転倒
先日、ある県が主催するセミナーに参加してみました。
数日前に発症したふくらはぎの肉離れのために、足を引きずり引きずりビルの最上階の会場に到達したときは、すでに県知事のご挨拶が始まっていました。
ほぼ満員。係の職員さんに案内されてなんとか空席に滑り込みました。狭い椅子の上でカバン、コート、何種類ものレジメ、重い参考資料などをさばくのに四苦八苦してようやく前を向いたら、知事のご挨拶が終わりました。
落ち着いて周囲を見回しましたが、何か違和感があるんです。案内された席は中央よりやや後。テーブルはありません。ところが中央より前の席にはテーブルがある。しかも名札が立っています。そこに関係団体や県下市町村の名称が書かれています。報道席もあります。はは~ん。そこですべてを理解しました。
セミナーの目的は、広く産業界の人たちに県の施策を聞いてもらうところにありました。ところが招待された産業界の人たちが後の狭い席で、県の関係者が前のテーブル席。よくあるヤツです。主客転倒。それに気づかぬのか気がつかない振りをしているのか・・・。
セミナーを開催することによる真の効果を求めるよりも、セミナーを開催したという実績の方が県の担当者には大切なのだ、とここで断言してしまいましょう。こういうことがお役所のイベントでは多すぎます。私は員数合わせの一人として招待されただけですから(これもお役所的形式主義の一つです)どうでもよいのですが、県民の税金を使ってのイベントがこれではねえ。
紅花墨
「紅花墨」(別名「お花墨」)という墨を覚えていますか? 日本の墨のスタンダード。小学校で初めて習字を習うとき、お習字セットに入っていたかもしれません。特徴的なデザインです。
ところがこのデザインは意匠登録されておらず、「紅花墨」という商品名も商標登録されていません。だからどこのメーカーでも同じ商品名の似たデザインの墨をつくることができる、ということを奈良の老舗墨屋である古梅園の店員さんから教えてもらいました。そこの何代目かがオリジナルをつくった当時は、意匠登録や商標登録をするような時代ではなかったと説明を受けました。江戸時代の話のようです。
お習字セットに入っていた「紅花墨」は、だから古梅園のオリジナル品でなかったかもしれません。その可能性が高い。しかも、どこの「紅花墨」にもいくつかの等級があり、小学生用は最低ランクのものだっただろうと想像がつきます。
上の写真の中央が現在の古梅園製の紅花墨。右は日本で最も有名な書道具・香の老舗の製品(品質検査ではねられたキズ墨なので商品名の部分に色が入っていません)。左はどこの製品かわからない使い古した昔々の「紅花墨」。
左の古墨は論外として、中央と右については一流の書家ならともかく、素人には磨り心地や墨の色などの違いはわかりません。ところが、上のような話を聞かされた後では、オリジナルの方がどことなくよいような気がします。
これはブランド論の初歩の初歩。当たり前過ぎることではありますが、実感として再認識したのでありました。
「批判」は疲れる
中小企業に勤める40代の会社員が言いました。
「最近、朝日新聞とかサンデーモーニングとか見るのやんなっちゃった。もうどうでもいいような気がして」
若い年齢層の保守化が指摘されています。“ここにもいたか”と思ったのですが、一方で“わかる気もするなあ”とも感じたのでした。
私は複数のTwitterアカウントを持っています。世の中の生の動向を知ろうと、それぞれテーマを変えて読んでいます。その一つに、現政権に批判的な学者やコラムニストや芸人たちを中心にフォローしているものがあります。毎日寝る前にそれをチェックしていますが、読んでいると何となく気伏せになってくる。疲れるような気分を感じます。
議論というものは本質的に緊張状態を作り出します。とくに批判は緊張状態を高めます。その正邪に関わらず、批判的な言論を読んでいるだけで、無意識に緊張するようです。
たとえばどんな提案にも否定から入る上司っていますね。こういう人と話すときは緊張します。また、異論ばかり唱える部下と対するときもそれなりに緊張します。そんな職場では常に緊張状態が起こります。こちらに闘志があるうちは面白いですが、疲れてくるとそこから逃げ出したくなる。そのうち「もうどうでもいいよ」と妥協したくなります。
現政権側にでたらめなことが多くても野党支持者が一向に増えないのは、こういう心理も一因ではないか、と思いつきました。批判勢力が批判すればするほど、それを聞いている人たちは心理的に疲れてしまう。
40代会社員も、安月給での長時間労働で疲弊しています。新聞やテレビでこれ以上疲弊させられてはたまらない、という意識が働いているのかもしれません。何事にも「どうぞどうぞ」と言っている方が世の中丸く収まって平和です。見たくないものは見ない方が気分は穏やかです。
1970年代、学生の反体制運動が盛り上がっていた頃、「私、何も壊したくないんです」と言い放った女子学生がいました。その気持がいまになって少し理解できる気がします。それでいいとは思いませんが。
公共利益が個人利益を上回るとき
カルロス・ゴーン氏の公私混同ぶりが連日これでもかこれでもかと報じられています。それらが真実だとすれば、そのスケールの大きさには驚くばかりです。しかし、企業経営者によるちっぽけなスケールの公私混同なら日本中いたるところで見られます。
ゴーン氏は豪華な家族旅行の費用まで日産に出させていたそうですが、海外子会社へ出張するたびに夫婦同伴で出かけるサラリーマン社長もいます。海外でのレセプションには夫婦同伴が当たり前であるとの理屈ですが、一国の元首や首相ではあるまいし・・・。その一方で社員の海外出張は厳しく制限したりします。
どうして周囲の役員や幹部がゴーン氏の公私混同に見て見ぬふりをしていたのか、と批判されています。批判は当然ですが、長年会社員生活をしてきた者にはわからぬでもありません。比較的小さな公私混同なら、投資家や企業を含む「公共の利益」と組織人としての「自己利益」を天秤にかけて自己利益を優先する、つまり見て見ぬふりをする人が多いでしょう。しかし、だんだんと不正のスケールが大きくなると、企業の経営に影響を及ぼしかねない。企業の存続が覚束なくなってしまえば、個人の利益も危うくなってしまいます。自己利益より公共利益を優先せざるを得ない事態となります。そこに至って、そこまで封印してきた個人の倫理観もにわかに頭をもたげてきたりして、突然カタストロフィが起きてしまいます。
報道を見ていると、今回の事件がそんなふうに見えてきました。
はい寿命です
テレビ受像器が最近また売れ始めそうだという記事を読みました。地上波テレビがデジタル化されたのは2011年7月で、その頃購入した受像器がそろそろ買い換え時期を迎えているためだそうです。そんなものかなあ、と他人事のように思っていたら、自宅のテレビが突然壊れました。時限爆弾でも入っているのでしょうか。○○○タイマー(○○○の部分にはメーカー名が入る)などという悪口もしばしば耳にしますが、その○○○製ではありません。大昔から電球は一定時間で切れるように作られているという伝説がささやかれてきました。どちらの電機メーカーでも品質管理の技術がさらに悪賢い(失礼!)方向に進歩しているのかもしれません。
修理サービスを呼べば直るのでしょうが、この際、思い切って買い換えようと量販店へ出かけました。置き場所が狭いので大きなテレビは置けません。これまでは32型。最近は画面の縁が薄くなったのでギリギリ40型が入りそうです。どこのメーカーの時限爆弾・・・いやテレビがいいかなと楽しみに出かけたら、「4K対応」(だからと言ってそのまま4Kが映るわけではありません)の40型は1メーカーの1機種しか置いてありません。選択の余地なし。いまやワンルームでも50インチ、60インチといった大画面が主流で、40型なんてミソっかすなんですね。
そういうわけで新しいテレビを使い始めましたが、ワクワク感はなし。何も変わり映えしません。当たり前ですね、映る番組は同じなんですから。いくらかは画面が美しくなったかなと意識的に思うようにして、心を落ち着かせることにしました。
数日たったときです。突然見えなくなってしまいました。時限爆弾ではなくて導火線つきの爆薬であったか・・・これは販売店で交換してもらわなくてはと思ったら、コンセントの抜き差しで直ってしまいました。どうやらAndroidの更新が関係していたようです。知らぬ間にテレビにはOSが仕組まれるようになっていたのでした。そういうことなら時限爆弾を仕掛けなくとも、遠隔操作で「はい寿命です」ということも可能でしょう。なんかいや~なカンジですが・・・。
引っかかりませんでした
長年、腸の不調に悩まされてきました。処方薬や漢方などいろいろ試してみたのですが全く改善しません。ところが偶然に、干し柿がいくらか症状を和らげることに気がつきました。そこで八百屋や果物屋で箱買いしたり、ネット通販で購入したりしました。あちこちの業者から取り寄せましたが、その一つに「かぶちゃん農園」というのがありました。
そうです。いまニュースになっているケフィア事業振興会の一子会社です。もっとも初めは「ケフィア・・・」とは知らず、ただの農園だと思っていました。品質は安定していて、決して悪くありません。だから度々購入していました。
そのうち、「オーナー制度」のDMが郵送されて来るようになりました。なんとなく胡散臭くて干し柿の購入もやめてしまいましたが、1年ほど前からは週に何度もDMが届くようになりました。なりふり構わずといった必死さが伝わってきました。よほど資金繰りが苦しいんだろうなあと思っていましたが、その推測が見事に当たっていたことがわかって秘かに鼻を高くしております。
大丈夫です。引っかかってはおりませんよ。手元資金に余裕がなかったからというのが真相でもありますが・・・。
ついでながら腸の不調の方も名医に巡り会って見事に解決し、干し柿にはすっかり用がなくなりました。