○○○○の父

個性的な製品には、その開発者をリスペクトを込めて「○○○○の父」などと呼ぶことがあります。かつては「ウォークマンの父」大曽根幸三氏とか、「日産スカイラインの父」桜井眞一郎氏、日産にはもう一人「フェアレディZの父」片山豊氏もいました。
今日の朝日新聞に、「『ペッパーの父は孫正義ただ一人』 ソフトバンクが要請」という見出しの記事がありました。
https://digital.asahi.com/articles/ASL1R4WFQL1RULFA022.html
以前、ソフトバンクが開発リーダーとして発表していた某氏が、2015年に退社して別のロボット会社を設立したそうで、「広報担当者は23日、『リーダーという当時の紹介は誤りだった。おわびして訂正する』と話した」とのこと。「孫正義ではなく社外の人間が『ペッパーの父』とされることは、今後のブランド戦略上問題がある」のだそうです。また、某氏は「ペッパーの企画や技術開発等、いかなる点においても主導的役割を果たしたり、特許を発明したりした事実はない」のだそうで、「ロボット事業参入はソフトバンクの孫氏が決め、ペッパーのデザインや声、世界観なども様々な案の中から孫氏が決めた」のだとか。
まあ、経営者は自分の意向も強く反映させ、決裁もしたでしょうから、その通りかもしれませんが・・・。
某氏の方も「自ら『ペッパーの父だ』などと自己紹介したことはなく、父だと主張するつもりもない」のだそうです。
なんか大人げないなあ。こんな要請は企業イメージの毀損につながらないかなあ。ワンマンの典型だなあ。だれか忖度したのかなあ。こんな発表をさせられる広報の方もつらいだろうなあ・・・いろいろな思いが気分を暗くさせます。

このあたりが潮目か、週刊文春

文春砲などと呼ばれて、政治家や有名人から怖れられていた週刊文春にも潮目が来たかもしれません。小室哲哉氏のいわゆる不倫報道と、それに関連した本人の引退発表に対する社会の反応は、これまでとは大きく違います。
従来は、切れ味の鈍いレガシーメディアに対して、強烈なインパクトのある週刊文春の報道に多くの人々が支持を与えてきましたが、今回は矛先が文春の方に向けられています。返り血を浴びてしまいました。
その要因は、小室氏が有名人であっても私人であること。その私人のプライバシーを暴くことへの疑問。多くの音楽フアンが小室氏の才能を評価していたこと。夫人の重篤な病状とそれに対する小室氏の一定の介護と献身が認められていたこと。記者会見での小室氏の真摯な態度と明らかな疲労感。それらによって、介護をする人の苦労や孤独感に対して介護経験を持つ人たちからの共感が得られたこと等々。週刊文春の読者と、その二次情報を得た人たちにとって、今回の報道には「正義」が感じられなかったのでしょう。
文春砲への支持が失われ、影響力が殺がれることを一番喜んでいるのは、時の権力かもしれません。惜しいことをしましたね、週刊文春は。自爆してしまっては何にもなりません。

通じませんよ

広報のお手伝いをする仕事をしていると、当然のことながらさまざまな会社と出会います。一緒にお仕事をさせていただいて、とても気持よくスムーズにコトが運んだという会社はあまりなくて、やりにくいなあと感じながらも一生懸命お手伝いをして、その会社が求めるアウトプットが得られたら、それで100点と考えるべきだと思っています。そういう仕事なんですから。
いつも依頼を受ける広報セミナーのスライドの中に「 PR会社が、“やってらんない”クライアント 」という1枚を入れていたのですが、考えてみれば少々傲慢かなと反省して、次回から抜くことにしました。
しかし、一つだけここに書き残しておきます。それは広報に無知なクライアントさんとは仕事がしにくい、ということです。少なくとも広報活動、たとえば記者会見をしたいとかプレスセミナーをしたいとかお考えになるなら、広報の基本くらいはご存じでいていただきたいと切に思います。
広報についての知識をお持ちでない企業さんに共通するリスクがあります。それはジコチューになりやすいことです。自分たちの考えがそのまま世の中でも通じると考える会社が多いのです。それこそ広報の真逆のスタンスであることは、いまさらここで言うまでもありません。

書きにくいことながら

ここに書きにくいテーマというのがあります。たとえばHPVワクチンのこと。
研究者ではないので、各種の情報から類推するしかありませんが(これは多くの医師においても同じ)、接種は再開すべきだと考えています。それを前提としてですが、現在のワクチン推進派の活動はどうみても効果的とは言えません。
製薬企業は立場上、強くは発言できません。学会は声明を出し続けていますが、企業との癒着を疑われても困る、という心理が働いているのかもしれません。いま一つ力が入らないように見えます。メディアはかつて副反応について報道してしまった手前、手のひらを返したような報道もしにくいという心理が働いています。実際に取材をしている現場と上層部との確執なども耳にします。一方で、副反応を報じた記者が遠ざけられたという話もあります。
ワクチンの副反応を主張する人たちへの疑念を一貫して主張してきた評論家が、国際的な賞を受賞したそうです。この間、さまざまな中傷や誹謗と戦って来られたと推測します。素晴らしいことだとは思いますが、それをアピールし過ぎるのもいかがなものかと思います。アピールすることは全く正しい。しかし、やり過ぎるとかえって多くの反感を買って逆効果になるかもしれません、少なくとも日本の社会では。
企業の中でも正論を吐く社員は少なくありません。しかし、正論を主張し過ぎると左遷されてしまう。そういう例をたくさん見て来ました。自分が実現したいと考えていることは、単に主張するだけでは成功確率が低くなってしまいます。根回し、忖度、ごますりなど、ありとあらゆる手練手管を駆使して実現を図る。心にわだかまりは残るものの自己実現、そしてときには正義を、達成できます。
どちらがよいか、それはそれぞれの価値観で決めるべきものでしょう。ここでは書きにくいことですが、あえて・・・。

最近、新聞に関して耳にしたこと

古新聞
その1:あるCMプランナーの話。
新聞が読まれなくなったのは、テレビが地デジになったことが原因だというのです。デジタル放送用のテレビ受信機には番組表を表示する機能があるので、新聞のラテ欄が不要になったというわけです。そういうこともあるかもしれませが、いかにもCMプランナー的な発想だと、妙に感心してしまいました。
その2:WEBメディアの編集長から聞いた話。
通勤電車の中では、新聞の代わりにスマホでニュースを読む人が多くなりました。それで鉄道会社が喜んでいるというのです。読み終わった新聞が大量に捨てられていたので、その処理に苦慮していたのが、いまやすっかり少なくなったのだそうです。スマホとWEBメディアの普及が意外なところに影響しているんですね。
その3:どこかで耳にしたか、読んだかした話。
若い人で、新聞の宅配を契約している人はほとんどいなくなりました。そうすると、引っ越しのときに困るのだそうです。荷物の包装や緩衝材として、新聞紙はとても便利だったと改めて認識されているという話でした。
先日、自宅のパソコンが不調になりました。タワー型という、いまやヘビーゲーマーでなければ使わないような大きなマシンで、自分で組み立てたものです。修理に取りかかろうと物置を覗いたら、古新聞が1枚もありません。今朝、古紙回収に出したところだとのこと。フローリングの床を保護するのに、大きさといい、重ねたときの厚みといい、新聞紙が最適なのです。これにはほとほと困りました。そのうちコンビニで古新聞を売るようになるかもしれませんね。

頭が高い

日産に続いてスバルも資格のない検査員が完成検査をしていたことが明るみに出ました。
日産がこの件を初めて発表したのは広報部長さんで、事を重大視していないような態度だったとか容姿や服装がどうとかと批判されました。次に社長さんが記者の前に登場しましたが、日本企業の謝罪会見とはちょっと異なる雰囲気でした。着席せずに発表をしたのはともかくとして、要するに頭が高かった。それを“攻めの広報”だとネットメディアで好意的に論じる人がいましたが、どうなんでしょう。
ところが、記者会見の後も、資格のない人が検査を続けていたとのことで、また社長会見となり、出荷停止に至りました。このときの社長さんも少々頭が高かった。頭を下げられない人なのかもしれません。日産もいまや「外資系」で、欧米流の価値観の中で仕事をしていると、自然にそれに染まってしまうのでしょう。
一方でスバルの社長は憔悴した様子で記者会見に臨みました。日産と比べて悪性度が低いということもあるのでしょうが、メディアの論調がなんとなく同情的です。「スバルよオマエ(まで)もか」というのは好意の発露とも考えられます。企業や経営者が常日頃、メディアから好意的に見られていたことが推測されます。この違い、広報の基本のキを考えるよい教材です。
ちなみに私事ながら、筆者はリコールされるであろうスバル車のオーナーであります。

政党のTwitter

仕事柄、mixi、Facebook、Twitter、Instagramなど、SNSには初期からアクセスしてきましたが、Twitterは、電車が止まってしまったときの情報収集くらいしか有効活用していませんでした。しかし近頃はTwitterの勢いがよいとのこと。もう少し深く理解するため、アクセス頻度を増やそうと考えているときに、総選挙になりました。
そこで自由民主党、希望の党、立憲民主党をフォローしてみることにしました。
以前からTwitterを広報活動に活用したいという企業さんに申し上げてきたことは、「お知らせ」を投稿するのもいいけれど、それだけでは大した効果は望めないこと、もう一つは、実際に運用してつぶやく人材によって効果に大きな違いが出るということです。ITに詳しい方なら常識です。
で、3党なんですが、自民党は「お知らせ」の範囲をまったく出ていません。それに比して、立憲民主党はSNSの使い方をよく理解しています。自党を応援するツイートを細かくリツイートして、お礼をつぶやいたりフォローしたりしています。「中の人」と呼ばれる担当者の人柄もよく反映されています。上から目線にならないように注意深く言葉を選んでいます。誤りはすぐに訂正しています。短期間に多くのフォロワーを集めたことが納得できます。希望の党は2党の中間。ちょっと自民党寄りですかな。これって、政治スタンスと同じじゃないの?

福祉分野の勢いを見た

国際医療福祉展に行ってきました。昨年に続いて2回目です。2週間前に痛めたコシが完治していないので、ざっと一回りしただけですが、医療系の展示会が勢いをなくしつつあるのと対照的に、相変わらずの大盛会でした。出展社も入場者も比較にならないほどの規模です。
福祉・介護の分野はまだまだ発展途上、さまざまな工夫の余地が大きく、新製品や新サービスが開発される余地もまた大きいということなのでしょうか。
最近のとくに電動車いすの進歩がすごい。展示されていた最新の高機能車いすを見ていたら、モーターショーでニューモデルを見たときのワクワク感のようなものを思い出しました。操作レバー部も好みのものにカスタム化できたりするようです。昔のMT車のシフトレバーのようですね。こんなカッコいい車いすに乗りたいなあ、などと考えてしまいました。技術の進歩や活発な製品開発が、障害者の生活の質を高めると同時に、新たな趣味性をもつくりだしたりする。障害を持っていたって楽しい生活は送れるよという提案。いいですね。
会場を出たら、広い通路を2台の電動車いすがすごいスピードで駆け抜けて行きました。そういう時代になっているんですね。

意思決定の遅さ

日本企業の意志決定の遅さがしばしば批判されます。その要因はさまざまあろうかと思います。
私どもが経験するのは、提出した企画書なり見積なりに、いつまでたってもご返事がいただけないという極めて卑近な事例です。
ある企業さんでは、トップが漠然とした、あるいは抽象的な指示を出します。それを部下の担当者様が忖度して仕事を進めるというパターンです。担当者様からご相談を受けて、私どもではあれこれイマジネーションを巡らせて企画書を提出します。ところが、それをお忙しいトップに説明する機会がなかなか得られないようなのです。ここで何日も、ときには何ヶ月も経過します。
ようやくトップに企画書をお見せすると、なんとなく気に入らない風情を示されます。そこで、また私どものところに戻って来て、仕切り直しとなります。こんなことを何回も繰り返すことがあります。そのような案件で、成功した経験はありません。
要するに社内の意思疎通が悪いのです。それ以上に問題なのは、明確な意志や指示を出さないトップです。トップ自身も何かやらなければ、という思いだけで、何をやったらよいのかわからない、あるいは決断がつかないのでしょう。

わかっちゃいるんだけど・・・

世の中には「広報のご意見番」みたいな方々がおられて、その多くが大企業の広報部長経験者だったりするのですが、「あの謝罪会見は失敗だった」、「あの事件の広報対応には問題がある」と厳しいご批判を、広報関係者だけが読むマイナーなメディアなどに書いておられます。中には、メルマガでわざわざご意見を送ってくださる危機管理広報専門家と称する方もおられます。
なるほどなあ、といつも感心しつつ読ませていただいてはおりますが、こういう方々の多くは実際のコンサルなどの実務はしておられないようです。
実務ばかりしているこちらとしては、「あれほど口を酸っぱくして注意しておいたのに、本番で『やっちゃった』んだよなあ」と残念な思いをすることが少なくありません。わかっちゃいるんだけど、そうはならない事情もあるんだよ、とも申し上げたい。
若いころ、「評論家みたいなことを言ってるんじゃない」とよく上司から叱られましたけど、その気持がいまにしてわかります。