日大アメフト部問題から目が離せません

政治の世界の方がより深刻ではあるのですが、広報の人間としては日大アメフト部の問題から目を離せません。広報の歴史に残る出来事がこんなにつぎつぎに起こるなんて、めったにないことですから。
本質的な問題については各メディアで論じられていますし、ツイッターなどでもいろいろな指摘がありますので、ここで書くまでもありません。
興味深いのは、関学と日大の広報のあり方です。記者会見で記者と議論してしまった司会の日大広報部顧問氏も、冷静な受け答えをしていた関学のディレクター氏もどちらも記者出身だと報じられています。
前にも書きましたが、企業(団体)の広報でメディア出身者が成功した例は少ないと思います。企業とメディアとの間には深くて、暗いかどうかは知りませんが、越えがたい川が存在します。企業内での広報の役割や活動は、メディア側にいては見えにくいのです。さらに、記者という職業に長く携わっていると、アタマを下げるのが苦手になるようです。権威にアタマを下げていては記者は務まりませんから。メディアで活躍し請われて企業の広報に入ったら、一から広報の基本を学ぶことなどプライドが許さないでしょう。その典型が日大顧問氏のように見えました。関学ディレクター氏は希有な存在なのかもしれません。

ウソをつくことは得なのか?

世の中、ウソつきが多いのだなあと、このところつくづく思い知らされます。
広報の仕事をしていると、なんとかコトを大きくしないように計らったり、アドバイスしたりはしますが、「ウソはいけません」ということは一貫しているつもりです。ウソはいつかばれる日が来ます。それが明日だったり50年後だったりするだけのことです。
危機に際しては、自分の身や自分の利益を守ろうとすればするほど、身を滅ぼしたり大きなダメージを受けたりする確率が高くなることが経験則からわかっています。本気で身を捨てるつもりになることで身が守られる確率は決して少なくはありません。しかし、すべてを失う確率の方もまた少なくありません。どちらをとるか。
人間の尊厳とか名誉とか品格とか、そのような要素を加味しようとすれば、ウソはつかない、過去のウソは撤回して謝る、自分を守ろうとしない・・・という選択になります。今後の利益が守られるなら、そんな要素はどうでもよいと考えるならば、ウソを貫くのも一つの選択肢ではあります。ただし、それが成功する確率も100%ではないのが悩ましいところです。

と書いたところで、反則を犯した日大アメリカンフットボール部の選手の記者会見が始まりました。近頃まれに見る謝罪会見の成功例です。誰が見てもウソを言っているようには思えないでしょう。関西学院大学の監督も敬意を表するとコメントしました。彼の前途が開けますように、と願わずにいられません。

7-38-55で負けでしょう

発したメッセージ内容とは異なる表情や態度を示した場合、話の内容などの言語情報から受ける影響は7%に過ぎず、声のトーンなどの聴覚情報による影響が38%、表情など非言語の視覚情報によるもの55%だというのが、メラビアン(またはマレービアン)の法則と言われるものだそうです。「そうです」と伝聞で書いたのは、原著を読んだことがなくWikiを読んだだけだからです。原著の翻訳は古書で5000円もするのです。
広報に関係している人の中にも、この説を曲解したメラビアンの俗説”を信じている人が少なくありません。「人は見た目が9割」などという本がその代表で、説明は省略しますが、皮肉なことにこちらの本は読んだことがあります。
こんなことを思い出したのは、このところ国会の証人喚問や参考人招致、さらに政府の答弁などをニュースで繰り返し見るからです。確かに証人や参考人や政府関係者は上手に言い逃れています。しかし、それらの中継やニュースを見ている国民は、せっかく知恵を絞って練り上げた答弁という言語情報からは7%しか影響を受けないことになります。これはどうにも政府側の分が悪い。ではないですかね。

チャーチルとダンケルク

15日日曜日の東京新聞「こちら特報部」の“本音のコラム”に山口二郎氏が映画「チャーチル」について書いていました。日本の現首相も見たのだとか。
たまたま飛行機の中で、この映画を見る機会がありました。
チャーチルが首相に選ばれるプロセスから始まり、フランスのダンケルクでドイツ軍に包囲されている英軍をどのように救出させるかに苦悩し、対独和平への誘惑を、生まれて初めて乗った地下鉄の中で直接国民の声を聞くことで振り切り、議会で、戦いの継続を「すべての英単語を駆使して」訴えるまでを描いています。このような演説の語法が日本語にはいまだに存在しないことをつくづく認識させられました。とくに最近の国会でのやりとりを見ると・・・。
さらにムービーのプログラムを検索すると、なんと「ダンケルク」があるのを発見。「チャーチル」が政治の場での英独戦を描いたものなら、こちらは同じ時系列における戦いの現場を描いたもの。ダンケルクに追い詰められている英軍を動員された多くの民間船舶が救出に行くエピソードを中心に描いています。
たまたまですが、日本人には馴染みの薄い第二次世界大戦初期の英独戦を、二つの面から知ることができたのでした。

ドラマの裏側はわからない

自分の会社が記者やジャーナリストから自分の会社がどのように見られているか、どこの企業も強い関心を持っています。そこで企業認知や自社の広報活動に関して記者の声を聞く場を設けたり、調査をかけたりすることがあります。これらは経験上とても有意義な調査になることが多く、自社の広報活動の成功している部分、足りない部分がクッキリと浮かび上がります。他社の広報活動について有益な情報やヒントが得られることもあります。
それはそれとして、このような調査を通じて気づくことがあります。記者やジャーナリストは“企業の広報を知らない”という事実です。
あそこの広報は頻繁にコンタクトしてくる、あそこの社長はフランクに取材に応じてくれる、この会社は役に立つメディアセミナーを開催している、といったことは現場の記者はよく知っています。彼らは広報の対象、もしくは受け手ですから当然です。
ところが彼らは、そこに至るまで、広報セクションがどのような目標のもとに、どのような企画を立て、どのような地道な作業を積み重ねているかについてはわかりようがありません。
テレビドラマにたとえるなら、ドラマを見ている私たちには、出演者の演技やストーリー展開の良し悪しについて感想を述べたり批評したりすることはできます。しかし、プロデューサーがどんな企画を考え、脚本家がどのような取材をし、どこにロケハンをして、ディレクターはどんな演技指導をしたのか等々の裏側は、テレビを見ているだけではわかりません。そんな楽屋落ちを覚らせることなく楽しめるドラマこそ理想でしょう。広報も同じことです。広報のテクニックや仕掛けなどを記者やジャーナリストに覚られてしまっては失敗です。
記者出身者を広報の責任者に据える企業や団体があります。しかし、大きな成果を挙げることが少ないのは、そんなところに要因があるのかもしれません。視聴者や評論家がドラマをつくろうったって、そう簡単には行きませんぜ。

記者会見とストロボ

メディアトレーニングで、記者役の他にカメラマン役も用意して、パッパッパッとストロボを発光させることがあります(実際にやったのは数回ですが)。臨場感を演出して、本番の記者会見で緊張しないように慣れていただこうという意図です。
マリリン・モンローとかジョー・ディマジオとかジョン・F・ケネディ(3人の関係にこだわったわけではありません)などの「時の人」がフラッシュライトを浴びながら、突きつけられた大きなマイクに向かってコメントしているシーンなどが、昔のニュースフィルムに残っていたかと思います。記者会見と言えばフラッシュがつきものでした。
現在の記者会見でも、とくにニュースバリューの高い事案では、会見者の前にスチールカメラマンがずらりと腰を下ろして盛んにストロボを発光させています。
ところが知人のプロカメラマンによると、感度を高く設定できる最新型のデジタルカメラならストロボは必要ないのだそうです。
デジカルカメラはさらに進歩しつつあって、4Kで動画を撮影しておき、一番よいカットを静止画像として切り出すことが可能になっています。新聞やネットニュースで使う程度なら十分な画質だそうです。8Kならさらに解像度の高い写真が切り出せます。
1台のカメラでニュース動画もスチール写真も得られるということなら、スチールカメラマンたちの職が危うくなりそうです。だから必要がなくてもストロボを発光させて自らの存在をアピールしているんだ、というのは少々皮肉が過ぎる気もします。動画と静止画は画の特性が全く異なる、という説にも理解できるところがあります。
シャッター音もない静まりかえった会場で聞こえるのは、会見者の読み上げるコメントと質疑応答、それにキーボードを叩く音だけ・・・という記者会見は、ちょっと妙な気分のものでしょうね。

事実とリアル感と、そして真実

朝のNHK連続テレビ小説に、現像された映画フィルムを手に取る戦争中のシーンがあって、そこに小道具として使われていたのがオレンジ色に着色された最近のネガカラーフィルムだった、と知り合いのカメラの専門家が指摘していました。色素のにごりをとる目的で、ネガカラーフィルムがオレンジ色に着色されるようになったのは戦後のことなのだそうです。
そのNHK連続テレビ小説を出張先のホテルで見ていたら、フィルム以上に気になることがありました。戦時下のストーリーなのに、男性出演者のヘアスタイルが現代そのものなのです。昔の人は、一部の「変人」を除いて、長髪は鬱陶しいという価値観を持っていたはず。ましてや戦時下だったら「非国民」と非難されていたでしょう。戦争中に現代人がタイムスリップしたような違和感を感じました。長髪はビートルズ以後に一般化しました。
俳優さんとしては、あるいは所属するプロダクションとしては、このドラマのために丸刈りなどにしてしまっては次の仕事に差し支えるということなのかもしれません。役づくりのために体重を増やしたり前歯を抜いたりした俳優さんのエピソードも聞いたことがありますが、そこまでやる仕事ではないと割り切っているのでしょう。そういうところにドラマとしての完成度の低さを感じてしまいます。
時代考証は演出との兼ね合いもあって、必ずしも歴史に忠実とはいかないと、別のNHKの番組で専門家が話していました。ドラマの世界では事実すなわち真実ではない、それは理解できないこともありませんが、リアルワールドにおいては事実すなわち真実でないと、とても笑ってすますわけにはいきまへんな。

ガバナンスとは何かなあ

IRの世界では、ガバナンス、ガバナンスとかまびすしい。しかし、どうもまともに理解している向きは少ないように思います。ガバナンスとは不祥事を防ぐこと、という誤解が最も一般的ですが、株主の意向を反映させること、というのもあります。会社中がトップの言うことを聞く、あるいは聞くように経営することがガバナンスだと思っている人も多いようです。そいういうことならば、命令をしなくても下の者がトップの意向を忖度する現政権のガバナンスが理想的ということになるのかもしれません。それは違うでしょう。
東証のガバナンスコードの定義は、「会社が、株主をはじめ顧客・従業員・地域社会等の立場を踏まえた上で、透明・公正かつ迅速・果断な意思決定を行うための仕組みを意味する」というもので、それはごもっともだけど、経営者も従業員も社会の構成員も、それぞれ精神的に自立していて、自由に物が言える環境にあることが大前提です。
しばしば遭遇するのは、社長のいる場では何も発言しない社員たちの姿です。下手なことを言えば左遷されるかもしれない、給料が上がらないかもしれないとみな怖れています。そのような場に何十年も身をおいたので、これは他人事ではありません。
あらためてガバナンスと何かなあと、最近のニュースを見ながら考えます。結論は得られておりません。

役所の体質

いま、某役所から帰ってきたところです。
弊社は超零細企業ですので、いただける公的助成はみんないただきたい。社労士さんに依頼すれば簡単ですが、その手数料がもったいない、ということで、幾多の難関を乗り越えつつ自ら手続きをすることにしております。
最初の難関は、役所のHPを読み解くこと。やさしく説明しようとする努力は認められるものの、1回読んだだけで理解できるような代物ではありません。制度の条件に当てはまるかどうかを確認し、手続きの順番と時期を把握し、必要書類をチェックする。そこまででかなり消耗します。何回か読み直さないとアタマに入りません。
さて、ようやく揃えた書類一式を携えて役所へ出向くと、これが一回で受理されることはまれです。今回も初回で討ち死に。温和しそうなオジサンがチェックリストと説明書を参照しながら、あっちをめくり、こっちをめくりしながら書類を確認することおよそ30分。この書類が必要だと思うので上長に確認します、と言い置いて鳩首協議すること15分。その挙げ句、どこにもその書類が必要だと書かれていないので、必要ありませんという結論に。自分で言い出しておいて、なんじゃそれは。「この助成金の申請はまだ珍しいんですよ」と言い訳。
さらに、チェックは続き、昨年の夏にできた制度が秋にまた改正になったので、書類の一部が適合していないとの理由で結局ボツ。それはないでしょう。そんな改正のお知らせはいただいておりません。そのあたりが社労士でない悲しさです。
そんな経緯をへて、今日再び役所に行ったわけです。
今度はしかめっ面のオバサンが担当。前回のチェックリストが役所にファイルされていて、どこが問題だったのか記録が残っているにもかかわらず、また目を皿のように書類を初めからチェックして、ようやく受理されました。書類に対する役所の扱いというのは、このようなものなのでしょう。
ホッとして「この申請は珍しいんですってね」と言ったら、「申し上げられません」ですって。オバサンの名前が佐川さんだったかどうかは、聞き漏らしました。

不毛の議論

自分にとってはどうでもいいことなんですが、なんとなく気分がよろしくない、というニュースがときどきあります。泰明小学校がアルマーニデザインの「標準服」を導入したというのもその一つ。
そもそも公立小学校に「標準服」なるものが存在していることを、今回の報道ではじめて知りました。自分が区立小学校に通っていたときはもちろん、すっかりオヤジになってしまった息子どもが卒業した市立小学校にも「標準服」があったという記憶がありません。
標準服というのは、制服でないが、制服みたいなものらしい。そのようなあいまいな状態で、何気に強制するというやり方が気分をよろしくさせない要素の一つ。こういうのも「行政指導」の一種なのでしょう。
銀座だからブランド、という陳腐な発想がもう一つの要素。何の関係もないでしょう。校長のアタマの中でだけつながっているらしい。
ブランドならブランド料も支払わなくてはならないし、生地や仕立てもブランドを傷つけることのない品質に保たなければなりません。お高くなるのは予想できたこと。教育の無料化などと叫んでいた政治家はどう考えているのでしょう。
この一件については、朝日新聞で制服の価格問題を扱って貧困ジャーナリズム大賞2016を受賞された記者さんが、HUFFPOSTに異動して、学校側と保護者とのやりとりを詳しく報じています。それを読んだら、さらに気分がよろしくなくなってしまいました。不毛の議論というのが、まさにこれです。バカバカしいっちゃありゃしない。