食べログの口コミ

どこかいい店ない? と尋ねられることが多いのですが、毎晩のように飲み歩いていた頃と違い、いまは馴染みの店はほとんどなくなってしまいました。たまにどなたかに連れて行ってもらい、ちょっといいなと思う店があっても、すぐに忘れてしまいます。
そんなときに頼るのはやはりネット、定番の食べログを利用することもあります。とかくの評判は承知しているので、話半分で各店の評価を見てはいるのですが、口コミに書かれている文章がクサくて読むにたえません。エッセイでも書いているつもりになっているのかなあ。嫁がどうしたとか彼氏がどうしたとか、それで目当ての店に行ったら休業だったので、この店に入ったとか、目的の店にたどり着くまでの経緯が長いこと長いこと。いい気になって書いている文章ですね、あれは。
自己表現したい人が多いんでしょうね。そのはけ口として食べログを使っているのかな。そう考えると許せないわけではありませんが、もう少し読み手のことも考えて書いてよね。

彼はとまどえる群れの代表なのか?

トランプ氏当選のニュースを聞いて、米国の有名な言語学者ノーム・チョムスキーの「メディア・コントロール」という本を思い出しました。
彼は民主主義には2つの機能があると言います。
「責任を持つ特別階級は、実行者としての機能を果たす。(中略)その一方に、とまどえる群れがいるわけだが、彼らも民主主義社会の一機能を担っている。民主主義社会における彼らの役割は(中略)「観客」になることであって、行動に参加することではない。しかし、彼らの役割をそれだけにかぎるわけにもいかない。何しろ、ここは民主社会なのだ。そこで、ときどき、彼らは特別階級の誰かに支持を表明することを許される。(中略)これを選挙という」(鈴木主税訳 集英社新書より)
彼の考えによるならば、クリントン氏はまさに特別階級の一員であって、観客であることを強いられてきた「とまどえる群れ」の人たちが、今回の選挙では特別階級を支持しなかった、ということになりそうです。不幸なのは、それでトランプ氏が当選してしまったことで、彼が本当に「とまどえる群れ」の代表なのかどうか、いまのところまったくわからないということです。

絶対休んで!

昨日、具合が悪そうにしていた社員に「早く帰って寝たら?」とアドバイスしたのですが、「大丈夫です」と言って定時までがんばりました。そのがんばりは会社としてはありがたいことなのですが、夜中に熱発したとかで今日はお休みです。早退しても同じだったかもしれませんが、かぜは早めに休んで寝てしまうのが一番よいようです。
ところが、地下鉄のドアに貼ってあった広告を見て驚きました。
「かぜでも、絶対に休めないあなたへ。」
かぜグスリの広告ですが、これはまずいでしょう。症状を悪化させるばかりでなく、他の人に感染させてしまいます。この会社の広報責任者だったら、このコピーは絶対やめさせますが・・・。

早寝しました

昨日、メディア関係や市場関係の方々は深夜まで長時間労働を強いられたのではないでしょうか。今日も早朝から会議なので、お泊まりセットを買ってホテルに入ったという女性アナリストもおられました。
それに引き換えこちらは少々かぜ気味でもあったので、午後10時にはもう眠っておりました。米国の大統領に誰がなっても、こちらにはな~んにもできることがありませんからね。あれこれ心配してもどうにもなりません。この無力感、寝るしかないでしょ(^O^)。

広告主の責任

電通の長時間労働の一件、厚労省による強制捜査、立件などまだまだ拡大しそうです。
報道やブログなどを読んでいると、クライアントにも責任があるなどと言っている人がいますね。クライアントが遅くまで仕事をしているから、“究極のサービス業である広告代理店も、それにつき合わなければならないのだというのですが、その論理なら、広告主である大企業も長時間労働が慣習化しているということになります。これは責任転嫁のように聞こえます。
しかし、クライアントにまったく責任がないか、と言えばそうとも言えません。「この資料、明日の午前中までにまとめて持って来てくれないかなあ」などと前日の午後8時過ぎに電話をする。電話の相手が作業する時間をまったく考慮することのない指示です。これに“究極のサービス業”である広告代理店は従わなければなりません。それがビジネスというものでしょう。
殿様か独裁者にでもなったかのように錯覚している大スポンサーの宣伝部員も、この際、反省すべきだと思いますね。もっとも宣伝部員をそのように思い上がらせたのもまた広告代理店なのですから、そのことも重々反省すべきだと思います。
かつて企業の宣伝責任者であったときを振り返っての自己反省でもありますが。

趣味の世界

スポーツをするのが好きな人と見るのが好きな人
絵を描くのが好きな人と絵画を鑑賞するのが好きな人
楽器を演奏するのが好きな人と音楽を聴くのが好きな人
クルマを運転するのが好きな人とクルマそのものが好きな人
写真を撮るのが好きな人とカメラを集めるのが好きな人
同じものを対象にしていても、まったく異なる志向になるところが趣味の面白いところですね。
スポーツを見るのが好きな人は必ずしもスポーツが得意でなくても構いません。上手に絵を描けなくても絵を見るのに問題はありません。ピアノに触ったこともない人がショパンが大好きになってもいい。前者はダイナミック、後者はスタティックという形容詞が当てはまるかもしれませんが、どちらが上でどちらが下ということもありません。好きなら、楽しいならいいじゃないか。それが趣味の世界というものですよね。

だんまり会議

東京都の2回目の調査結果が発表になりました。豊洲の土盛り問題です。
その中に、会議に出席していた部長たちから何も発言がなかったというくだりがあるようです。発言するのは議長と提案者だけ。
議 長:どなたかご意見がございますか?
出席者:(無言)
議 長:ご意見がないようですので、承認ということで、次の議題へまいります。
こういう会議にときどき出くわします(出席者ではなくて発言権のないオブザーバーとして)。これは会議ではなくてセレモニーです。だから議案の内容などだれも真剣に吟味していません。
このような会議では、反対意見などを言おうものなら「あいつはうるさいから、出席者のリストからはずそう」ということになります。それでは出世に響きます。誰も発言するわけがありません。
小さなNPOの幹事会でのことですが、会長兼議長の提案に反対意見を述べたところ、幹事をやめろと言われてしまいました。そんな理不尽な組織には属していられないので、即座にNPOからも脱退しましたが、日本の社会には、どんな小さなところにもあの「空気」が充満しています。

ハローウィンて何だ?

昨夜までの数日、遅い時間帯の電車に奇妙なかっこをした人たちがたくさん乗っていました。ハローウィンだったそうですが、なんで日本で急に盛んになったのか、さっぱりわかりません。そもそもハローウィンて何だ?
バレンタインデーも子どもの頃には知りませんでした。チョコレート会社の仕掛けだそうですが、いかにも作為が感じられるイベントです。
恵方巻きもそう。江戸っ子なので、つい10年ほど前まで、そんな風習があることを知りませんでした。誰が仕掛けたのかなあ。調べればわかることでしょうけど、コンビニあたりが怪しい。
幼い頃から馴染んでいるのはやはりクリスマス。大昔はイブの夜にキャバレーで大騒ぎしているサラリーマンが白黒テレビのニュースで報じられていました。キリスト教徒ではありませんが、もみの木やらホワイトクリスマスやらサンタクロースやら、あの雰囲気は嫌いではありません。ま、いいか、というカンジですかね。
で、ハローウィンなんですが、あの大騒ぎは初期のクリスマスのキャバレーみたいなもので、そのうち米国のように家庭のイベントとして定着するのではないでしょうか。

最愛の

文章とか言葉の使い方などが気になり出すと止まらなくなりますね。そういうことで今月はその続きで締めようかと・・・。
土曜日の「モヤモヤさまぁ~ず2」を見ていたら、テロップに「子弟愛」と出て来ました。変換間違いだろうと思いますが、ひょっとすると担当者が「師弟愛」という言葉を知らなかったのかも。
何の番組か忘れてしまいましたけど、「最愛の祖父」というのもありました。間違いかどうか微妙ですが、これまでの日本語の遣い手たちは「最愛の子」か「最愛の妻」にしか「最愛」という形容を使わなかったと思います。おじいちゃんの方から「最愛の孫」というのもアリでしょう。しかし、最愛のおじいちゃんとは言わなかったなあ。

大人の文章

昨日の続きなんですが、日本の学校教育で実務的な文章力を養う教育が不足しているのは間違ありません。その結果として、真っ当な文章、いわば大人の文章が書ける人が少なくなっているように思います。プレスリリースなどはその代表的なものですが、社会向けて公開する報告書とか取引先へ提出する依頼書などには、大人としての文章が求められます。ある面では定型的、紋切り型の表現も必要になります。それをご存じない、使えない人が多くなりました。それでは舌足らずで稚拙な文章しか書けません。ベンチャー企業や外資系企業など、若い企業でしばしば見られる現象です。教えてくれる年配の社員が少ないためではないでしょうか。
個人的には紋切り型の文章は大嫌いです。役所の文書のような極端な紋切り型をお薦めするつもりは毛頭ありませんが、知らなくて書けないのと知ってて書かないのとは大違いです。
国語教育の問題、本を読まなくなった最近の風潮、働き方の変化、いろいろな問題が影響しているのでしょうね。