文庫本が生まれたのは、「大正末期に電車内で読書する客が増えたのに伴い、持ち運びに便利な本が必要とされたからだ」そうです(原武史著「沿線風景」より孫引き)。岩波文庫の発刊の辞である「読書子に寄す」には、そんなこと書いてなかったようにも思いますが、ともかく文庫という、軽くて小さい本が存在することは日本語で読書する人の幸せというものです。
その文庫本から、いつの間にかしおり紐が消えてしまいました。正確には新潮文庫を除いて、なのですが、昔はどの文庫にもついていました。やめてしまったのはコストカットのためだそうです。紐だけで10円以上のコスト高になると、どこかで読んだことがあります。ということは、新潮文庫は他の文庫に比べて価格が10円高いということなのでしょうか。
紐の代わりの紙の栞でもとくに不便というわけでもありませんが、電車の中で買ったばかりの文庫本を読み始めたら、紙の栞が挟まっていない、ということがときどきあります。本屋の棚で抜けてしまったのか、そもそも出版社が入れなかったのか。降りる駅が近づいているというのに、とてもあせります。あわててポケットやバッグの中から栞の代用になるものがないかと探すのですが、こういうときに限って適当なものが見つかりません。
書店の棚の本にはスリップという二つ折りの栞のようなものが挟まっています。書店と取り次ぎの間でやりとりする伝票なので、一般の書店ではレジで引き抜いてしまいますが、これがあると栞の代用にもってこいです。しかし、昔は古書店で購入した本など、これを挿んだまま持っていると、万引きしたと間違われるリスクがありました。いまはネット書店で購入した本には例外なく挿んだままになっているので、捕まる恐れはなくなりましたが、古い人間には、なんとなく臆するところがあります。で、これまで栞の代用にしたものには、レシート、ポストイット、文房具屋のポイント券、ノートの端をちぎったもの等々。それも見つからないときは、ページの端を折っておきますが、なんとなく落ち着きません。私は10円高くてもしおり紐がほしいなあ。〈kimi〉
新体験進行中
思うところあって、この夏限りの予定でヘアスタイルを大幅変更いたしました。
床屋さんには、バリカン片手に「叱られませんか?」と確認されてしまいました。「こんなに毛があるのに、こういうヘアスタイルにする人は珍しいですよ」だって。そうでしょう、そうでしょう。床屋さんだって不思議でしょう。とうとう「役者さんの役づくりですか?」とまで言われてしまいました。役者顔なのかなあ、私って・・・。
会社のスタッフはすぐに見慣れてしまったようですが、オフィスの出口でたまたま出くわしたビルのオーナーさんは、一瞬たじろぎ、無言のままそそくさと車に乗り込んでしまわれました。なんと挨拶したものかわからなかったのでしょう。その気持、わかりますよ。ごめんなさい。
で、涼しいかというと、それほどでもありません。違和感と言えば、暖簾をくぐるときに、これまで経験したことのない感覚を頭部に感じたことくらいでしょうか。
ついでに思わぬ新発見をしてしまいました。頭に掌を当てると、周辺部では温かさを感じるのに、頭頂部では全く感じないのです。太陽の熱を受ける部分の感覚をあえて鈍くさせているのでしょうか。どうしてこのような興味深い事実を、天然自然にヘアスタイルの変更を余儀なくされたみなさんは、教えてくれなかったのでしょうか。あるいは、これは私だけの特異現象なのでしょうか。
たまには思い切ったこともしてみるものですねえ。これからも新発見がありそうで、この夏いっぱい楽しみです。でも、お会いしたときには、びっくりしないでね。〈kimi〉
スパムばっかり
この「ココノッツブログ」にはほとんどコメントがつきません。理由は、読まれていないということに尽きるのでしょうが、コメントをつけるにはシャイ過ぎる人ばかりが読んでくださっているという虫のよい解釈もできます。読んでいることが筆者にバレないようにコメントをつけないという読者もおられるかもしれません。コメントをつけるほどの内容じゃないよ、ということもある。これが一番の原因かな。
本当のことを申しますと、実はコメントは毎日山のようについているのです。残念ながらそれがみんなスパムなんです。しかも英語です。
何のためにスパムのコメントなんかつけるのだろうと専門家に尋ねたら、面白がっているだけですよ、と言っていました。しかし、スパムコメントをいくつか開いてみると、ある種の医家向け医薬品のダイレクトメールがたくさん混じっています。単なる愉快犯ではなくて、宣伝目当てでもあるようです。
ココノッツがヘルスケア領域を専門とする広報コンサルタントであることを知ってのことでしょうか。しかし「ココノッツブログ」は日本語でしか書いていません。どうしてそういうことになるんでしょう。不思議です。
スパムコメントがいくら来ても、一発で消去できるようなシステムになっていますから、たいした手間ではないのですが、来る日も来る日もスパムばっかりというのは、ちょっと情けないような気もいたしますね。〈kimi〉
意味の転換
「おかしい」と言えば、現在では「変だ」とか「奇妙」だということですが、その昔は「趣がある」という意味だったそうです。高校の古文の授業で習った枕草子の「いとおかし」がそれですね。このように、それまで好ましい意味だった単語が、ある時から逆転してネガティブな意味に変じてしまうことが、まれに生じるようです。
そのような珍しい変化、しかも突然の意味の転換を私たちは最近実感してしまいました。「育ちのよさ」です。
以前から「あの人が育ちがいいからねえ」という表現には、どこかに皮肉と妬みのニュアンスが隠れていました。下々のことを理解していない、周囲の状況が読めない、自ら汗を流そうとしない、苦労知らずの経験不足、他人事のような態度、精神がひ弱、身体が弱い、そして、いざとなったらどこかからお金が出てくる、といったモロモロをぼんやりと含意していたわけです。その含意が、時の総理によってすべて明るいところに引き出され、しっかりと意味づけられてしまいました。同時に、上品とか質のよさといった「育ちのよさ」の好ましいイメージは、まとめて闇に葬られてしまいました。
昨日、鳩山総理は沖縄県知事と再び会談しました。asahi.com(2010年5月23日)によれば、総理は突っ立ったまま 「仲井真知事はじめ、県庁の皆様方に、このようにふたたびお目にかからせていただくことができて、たいへんありがたく思っております」と話し始めたようです。これって、なんか変ですね。以下、
県知事:おかけいただけませんか。どうぞ、どうぞ
総 理:それも失礼かと
県知事:いや、どうぞ
総 理:では座って恐縮でございます。
というやりとりが続いたそうです。写真で見ると、さして広くもない応接室で低いテーブルをはさんで対座しています。陳謝しつつお願いをしようとしているのに、見下ろしながら話始めるっていうのはどうでしょうか。ここらあたりに「育ちのよさ」の問題がまたまた露見してしまっております。
米国の大統領は必ずメディアトレーニングを(候補者になったときから)受けていると言われます。日本の総理大臣は受けてない、なんてことがあるんでしょうかね。もちろんそれ以前の問題なのではありますが。〈kimi〉
書けない
文筆業をしている友人からメールをもらいました。ある企業から入社試験の論文審査を依頼されたのだが、書くことを訓練された人が少ないことにすっかり驚いたとのこと。彼によると、文章の構成といった高度な話ではなく、段落行頭一字下げ、タイトルと本文の間を空ける、という基本的なルールを知らない人が多い。「為」とか「夫々」など、ひらがなで書けばよいものを漢字で書く人が多い。「ひいては」とすべきところを「しいては」と誤っている例が複数あったとのことです。(筆者注:このココノッツブログでは、広告コピー風に意識的に行頭を下げておりません)
私は驚きません。企業に勤めていたとき、入社試験や主任、課長への昇任審査を毎年のようにやらされました。何十編という「論文」という名の作文を読んでいると、実に気分が滅入って来たものです。友人が指摘している通りの状況ですが、より失望したのは、何を言いたいのかさっぱりわからない作文が半数以上を占めていることでした。そもそも自分の考えがないらしいのです。入社できたらがんばります、昇任したらもっとがんばります、と会社にアピールしたい。そういう思いが込められていることは伝わって来るのですが、だからと言って、鋭い視点や画期的な具体案を持っているわけではありません。精神論と抽象論ばかりの作文が出来上がります。何編読んでも似たようなことが書いてあります。そんな退屈な作文を続けて読まされている中で、たまに論旨がしっかりした文章に出会うと、梅雨の晴れ間のような気分になったものです。よし、合格!
このような文章力不足は、中学、高校の教育に責任があると推測しています。国語の授業で五段活用を教えるのもよろしいし、言文一致体の先駆けが山田美妙であることを教えるのも結構ですが、文章のトレーニングをしなければ生徒は文章が書けるようになりません。英文法や英文解釈をいくら教えても、英語が話せるようにならないのと同じことです。
そもそも文章を書くトレーニングができる国語の先生は少ないでしょう。迷いながら書いた作文に「よく観察できました」なんて赤ペンでほめてもらっても、文章力はつきません。論理的に思考を組み立てる方法と、それを書き表す技術が、社会生活には不可欠です。企業のニュースリリースを読んでいても、何がニュースなのか理解しがたい文面にときどき遭遇します。まともな文章を書くことはコミュニケーションの基本です。
なんて、偉そうなことを書いてはおりますが、ン十年前、就職して初出社したその日、社内への連絡文書を書けと命ぜられて、一行も書けずに立往生してしまった経験があります。ビジネス文の書き方など、小学校から大学まで教えられたことがありませんでした。
先日、教授に転身された元新聞記者氏に「大学では何を教えているんですか」と質問したら、「作文の書き方からですよ」という答えが返ってきました。「大学で作文の練習ですか」と、そのときは少々呆れたのですが、現状をよく考えてみれば、大学で作文を教えてもらえる学生は幸せというものなのでしょう。〈kimi〉
大工さんの教え
今日は大型連休の真ん中です。こんなときにブログを書いてどうするんだ、とも思います(ココノッツブログは業務の一環として書いております)が、まあ、そんなカタイことは言わずに・・・というわけで書き始めました。しかし、これは実に考え物ではあります。
子どもの頃、家の改修に来ていた大工さんは、正午になると弟子たちに声をかけて一斉に仕事をやめてしまいました。お弁当を使い、正確に1時までお茶を飲んでおしゃべりをしていました。
なぜやりかけの仕事を放り出してまで時間を守って休憩をとるのか、子ども心にも不思議に思って大工さんに聞いてみました。どんな表現で質問したものか覚えてはいませんが、返ってきた答えは、時間をきっちり決めて休みをとらなければ疲れをとることができない、疲れたままで仕事をしてもよい仕事はできない、それが長く仕事を続けるコツだ、といったものでした。
若いときの私は、この大工さんの考え方に従って、昼休みはいっぱいいっぱい自分の時間として使いました。業務時間内にできるだけ仕事をすませて、残業をしないように心がけました。しかし、残業手当がつかなくなった頃から、それが崩れ始め、昼食を食べ終わったらすぐやりかけの仕事に戻り、給料に反映しないにもかかわらず残業をし始めました。
いまココノッツでも一部に残業が日常化しています(私はあまりやりませんが)。休日にも自宅で仕事をしたりメールを出したりしています(私もやっています)。お客様にできる限りのサービスをしようと考えると、ついついそうなってしまうのです。
それがよいのか悪いのか、俄には判断しかねますが、やはり休みはちゃんととった方が長期的にはよいのではないかと考えています。働きすぎて病気になってしまったら、かえってお客様にご迷惑をおかけすることになりますし、休日の自宅仕事が効率がよいとも思いません。
以前、日本企業に勤めていたとき、毎日残業毎週休日出勤で、一体いつ休んでいるんだろうと思うような人が何人もいました。その仕事熱心さには感服してしまうのですが、そういう人たちほど世間に疎い、視野が狭い傾向があることに気がつきました。もっとも、あんまり働かない社員が広い視野を持っているとも限りません。このあたりは誠に難しい。
しかし、休みというものはただ疲れ休めに寝ているわけではありません。時間の余裕があれば、人間はいろいろなことをし始めます。自分の時間を豊かに使うことは、人間としての成長によい効果をもたらすだろうということは、確信に近いものがあります。
休まなければよい仕事はできない、という大工さんの言葉はやはり真実ではないかと思うのです。というわけで、今日は自分の時間を有効に使おうと思います。〈kimi〉
築地の存在理由
中央市場が豊洲に移転するのかしないのか、判然としないまま、築地はいま観光客や買い物客であふれかえっています。中国語、韓国語、英語、日本語、なんだかわからない語が飛び交っています。
中央市場の建物はたしかに古い。このままにはしておけそうにないことは素人目にもわかります。しかし、単に市場機能という観点だけで移転をすることがよいのかどうか。
観光客や一般の買い物客たちにとって、築地の魅力は場内、場外の商店街にあります。ここは魚屋さんや板前さんなどのプロの店でありながら、素人も利用できる。そこが普通の街とは異なる魅力です。飲食店も決して安くはないし、具体的にどこが違うのかよくわからぬものの、なんとなく築地独得の雰囲気を持っているような気がします。
とくに場外市場の雑然とした店の並び、迷路のような路地など、もはや他ではほとんど見られないものです。日本の繁華街は次々に再開発という名の整理が行われ、どこへ行っても同じようなチェーン店ばかりが並んでいます。そんな人工的な街にはもう飽き飽きです。もっと自然発生的な、もっと人間くさい、懐かしい街はないか。そんな条件を満たしているのが築地の場外商店街です。
中央市場が豊洲に移転しても場外はそのまま残ると看板が出ていました。しかし、場内と場外は一体です。卸売り市場というバックグランドを失った場外市場は、いまのような活性を失ってしまうのではないでしょうか。
東京に残る貴重な街を守りたいという意味で、私は移転に反対です。〈kimi〉
立食パーティにて
立食パーティで気づいたこと3つ。
1.開会時には会場を埋め尽くしている人たちが、主催者や来賓の挨拶がすむと、潮を引くように少なくなること。義理で出席している人がいかに多いか。中には主催者の挨拶が始まる前に帰る人もいます。受付を済ませればアリバイ成立です。私も一度これをやったことがあります。逆に言えば、最後まで多数の出席者が残っているのがよいパーティということになるのでしょう。義理で最後まで帰れないというパーティも、まれではありますが存在します。
2.会場に知り合いが少ない人ほど早く帰ること。司会者から「しばらくご歓談ください」とアナウンスされると、出席者は一斉に料理のテーブルに向かいます。この時点では目立ちませんが、やがてテーブルごとに会話が弾み始めると、右手にビール、左手に料理の皿を持って、テーブルのない空間に孤立している人たちがポツポツと現れます。ホスト側はこういう人たちを目ざとく見つけて、話しかけるのが心得というものですが、それが徹底されているパーティはほとんどありません。話し相手が見つからない人は孤立に堪えきれず、早々に退散することになります。
3.女性は女性同士で群れたがること。男性の多いパーティでは、会場のところどころに女性の群れができています。女性はおしゃべり名人ですから、孤立することはあまりなさそうに見受けられますが、見知らぬ男性に気軽に声をかけるのはやはり憚られるのでしょうか。
先日、半ば義理で出席したパーティでは、100人ほどの出席者の中に顔見知りはたった二人でした。この二人は大切にしなければなりません。Aさんとは10分ほどおしゃべりしました。しかし、Aさんの表情に〈もう結構〉というサインが見てとれましたので、そこで解放して差し上げることにしました。Bさんとは、互いに料理の皿を持った状態で顔が合いました。Bさんは私を十分認識していないようです。考えてみればBさんとの接点は、あるセミナーで互いに講師を務めたというだけのことです。それをBさんに思い出していただいただけで、分かれました。
これでおしまい。他に積極的に知己を得るべき方も見あたりません。パーティのプログラムはまだ続くようでしたが、ここらで退散することにしました。
ホテルの玄関から送迎バスに乗り込んだら、まばらな乗客の中になんとAさんとBさんを発見しました。彼らもまた私と同じような状況だったのかもしれません。楽しいパーティ帰りというよりは、義理を果たした安堵感に浸りながら駅に向かったのでありました。〈kimi〉
花は名所でブランドで
昨日の午後、花冷えの中を、誘われて新宿御苑へ行ってきました。
新宿駅の南口から新宿門を目指して歩き出したのですが、反対方向からものすごい人の流れ。「何かイベントでも終わったのかなあ」などと呑気なことを考えていたらとんでもない。お花見から帰る人の波でした。小学校の遠足以来、御苑へは何回も足を運びましたが、あんなに人があふれている御苑は初めてでした。日本人は本当に桜が好きなんですね。
新宿御苑の古木の桜は立派でした。周囲の空間が広いので悠々と太い枝を伸ばしています。しかし、新興住宅地にあるわが家周辺の桜も意外に美しいんです。植えて30~40年ほど、成年期の活きのよい桜は、もしかしたら御苑の桜より美しいかもしれません。
だからと言って、仲間と連れだっての花見となれば、新興住宅地でということにはなりません。そこはやはり花の名所がよろしいようです。今年は新宿御苑でしたが、東京で花見の本場と言えば上野公園。歴史的には飛鳥山。千鳥ヶ淵も、六義園も素晴らしい。隅田公園も捨てがたい。
「お花見に行った?」
「うん。千鳥ヶ淵に行ってきました。お濠に映った桜がきれいでしたよ」
という会話は成り立ちますが、
「お花見に行きました?」
「はい、近所の児童公園の桜を見てきました。きれいに咲いてましたよ」
それも結構ではありますが、なんとなく話が弾みにくい。客観的な花の美しさより、誰もが知っているブランド的名所での花見の方が話の種としては価値が高そうです。
新宿御苑が大混雑するのは、きっとそういうわけなんだろうと、半分納得したような、しないような・・・。それにしても混んでましたな。〈kimi〉
「等」つながり
私鉄の駅前に何本ものノボリが立っているのに気がつきました。選挙の候補者が演説しているのかと思ったら違いました。ノボリには大きく「自転車等駐車場」と書かれています。
興味深いノボリです。自転車置き場は、自動車置き場と区別するために「駐輪場」と表示されることが多いのですが、なんでここは「駐車場」なんですか? なんで「自転車等」と「等」がついているのかしら。
こんな疑問形で書くまでもありません。ここにはバイクも止められるようになっているんです。だから「駐輪場」ではマズイ。自転車置き場とバイク置き場に共通する用語としては「駐車場」の方が妥当性が高い。しかし、「自転車駐車場」ではバイクをカバーできない。ここはやはり「等」をつけまして「自転車等」で行きましょうよ、と。いや、私が考えたんではありません。区役所のお役人さんが、たぶんそう考えたのではないかと想像したまでです。
霞ヶ関方面で「医薬品等」と表記されることがしばしばあります。一般人の常識では、「薬のようなもの」をイメージするでしょう。ところが、この「等」の中にメガネが含まれることがあると言ったら、かなり違和感を覚えるのではないでしょうか。薬とメガネ。自転車とバイクよりはるかに縁遠い存在です。
薬事法という日常生活に縁の深い法律があります。薬事だから薬のことを決めている法律かと誤解されがちですが、それだけではありません。第1条に「この法律は、医薬品、医薬部外品、化粧品及び医療機器の品質、有効性及び安全性の確保のために必要な規制を行うとともに、指定薬物の規制に関する措置を講ずるほか、医療上特にその必要性が高い医薬品及び医療機器の研究開発の促進のために必要な措置を講ずることにより、保健衛生の向上を図ることを目的とする。」とあります。
「医薬品等」というのは「医薬品、医薬部外品、化粧品及び医療機器」を指しているわけです。メガネは医療機器とされているので、立派に「医薬品等」なのです。
製薬会社など、本丸の医薬品関係者にとっては「等」があろうがなかろうが、どこ吹く風ではありますが、「等」と一字の中にひっくるめられてしまった医療機器の関係者にとっては心中穏やかではいられません。なんでMRIが、人工呼吸器が、ペースメーカーが「医薬品等」なんだ、ということになる。ともに医療に使われるとは言え、薬と医療機器とはかなり異なるものです。違うところがたくさんある。そこで薬事法から切り離して医療機器法をつくれ、という声が近頃強くなって来ました。それを支持する国会議員も現れました。
「自転車等」と「医薬品等」。一見関係なさそうですが、根っこの方ではどこかつながっていそうです。〈kimi〉