隣の芝は?

朝、某社の広報担当役員さんから携帯に電話。競合会社のコメントがたくさん掲載されている記事をその会社のトップが読んで、「こういう活動をわが社もしなくてはいかん。ウチの広報は何をやっている!」と叱責されたとか。
思い出しますね。私も事業会社で広報の責任者をしていたとき、何度も同じような叱責を受けたことがあります。こういうお叱りを受けると、何を言っても言い訳ととられるばかり。反論が難しいだけに本当に気が滅入ります。
トップは、自社の成功事例より競合の成功事例に対してよりナーバスです。隣の芝生がいつもも青く見えるのは、隣家の芝は、自分の家からは斜めに見ることになるからだそうです。つまりバイアスがかかっているというわけです。
斜めから見る隣の芝より青々とした芝生をどうしたら自分の庭に養生することができるか・・・難問です。

広報マインドに規制はかけられない

「近くまで来たから」と、ココノッツの「協力会社」であるイベント会社の社長が前触れもなく来訪。いろいろな業界で「規制」が強まっているのではないかということで意見が一致しました。
医薬品、医療機器の業界ではそれがとくに顕著で、無難な企画に流れてしまいがちな昨今です。規制は規制として守らなければなりませんが、広報マインドにまで規制をかける必要はないわけで、アタマまで縛られていては新しい広報企画など立案できるわけがありません。

ホッピー談議

このところホッピーを飲む機会が増えました。理由は節酒です。若い頃のようには飲めなくなって、一定量を過ぎるとなんとなく身体がアルコールを拒否し始めるような感覚があります。そんなときにホッピーは便利な飲み物であることに気がつきました。
「ホッピー!」と注文すると、ホッピーだけが出てくるということはあり得ません。大きなグラスに氷と甲類焼酎を半分から三分の一ほど注いだものを伴って登場します。飲み屋では、ホッピー+焼酎+氷のセットではじめて「ホッピー」という商品となり得ます。そういう意味では極めて珍しい飲料です。
その大きなグラスにホッピーを注ぐのですが、その量は飲む方の自由に任されます。そこがポイントです。多めに割って、少し飲んだところでまた割るという動作を繰り返すと、薄めの焼酎をかなり長い時間をかけて飲むことができます。また、これもホッピーならではですが、「中だけ」と追加注文すると焼酎と氷を入れたグラスが、「外だけ」と注文すると瓶入りのホッピーが運ばれて来ます。ご存じの方には釈迦に説法ですが、これは日本中の飲み屋での「お約束」になっているようです。だから「外」だけを追加して行けば、いつかアルコールの成分は限りなく薄くなってしまい、酒を飲んでいるように見えながら実は清涼飲料水だけを飲んでいる、という状態になります。
ホッピー
そのホッピー、若いときにうまいと思ったことは一度もありませんでした。ビールの代用品でビールより安いという触れ込みでしたが、ビールとは似ても似つかない色つきの炭酸水でしかありません。妙な飲み物、胡散臭い飲み物といったイメージもつきまとっていました。
ところが、ある日突然と言ってもよいでしょう。メディアがホッピーを取り上げ始めた。何代目かの女性社長による戦略が効を奏したようで、ビールのまがい物から「ホッピー」という独自の飲み物へとポジションチェンジが図られました。プリン体が含まれていない健康によい飲料という訴求もされています。浅草には「ホッピー通り」まで出現しました。これは見事な成功事例です。
マーケティング広報のオリエンテーションなどで、この製品は他社品をフォローしたものなので、その代替になり得るという訴求をしてほしい、といった依頼を受けることがたまにあります。よくうかがってみると、他社品とは異なるストロングポイントがいくつかあるのですが、担当者はどうせ勝ち目はないとすっかり弱気です。ちょっと視点を変えてみたらどうですか、と提案してみても、弱気が会社全体のコンセンサスになっていると、ポジションチェンジは容易ではありません。
若いときはちっともうまいと感じられなかったホッピーですが、そんなあれこれを考えながら飲むとちょっとイケますよ。〈kimi〉

時間ですよ!

レクチャー
広報に関連するレクチャーをする機会が年に何回かあります。とくに今年はご依頼をたくさんいただき、その準備に追われています。
レクチャーも長年経験を積むにつれ、いくつかのコツや禁じ手が身についてきます。
最も重要と考えているのは、時間厳守です。90分という時間が与えられたら90分ピッタリで終了する。終了時間を過ぎると、受講者の集中がぷっつり途切れるのが明らかにわかります。準備してきた内容を残してしまったとしても、制限時間を過ぎたら聞き手が聞く耳を持たなくなってしまうのですから、それ以上いくらしゃべっても無意味というものです。
かと言って、「時間が来ましたので、途中ですがここで打ち切ります」というのでは受講者に失礼です。全部しゃべってしまおうと、早口ですっ飛ばしてしまうのも同様です。
時間を過ぎても悠然と話し続けるエライ先生などもってのほか。何を考えているのだろうと呆れてしまいます。主催者にとっても大迷惑になってしまいます。
レクチャーしながら時間をコントロールするのは一つの技術ですが、そもそも準備段階で時間がはみ出すほどのコンテンツを盛り込まないのが鉄則でしょう。
余談ですが、レクチャーの質を判断する一つの目安にしていることがあります。
字釈とでも言うのでしょうか。たとえば、
「癌とは『やまいだれ』に『品物の山』と書きます。いろいろな悪い生活習慣が山のようになると発症する病気です」
みたいな講釈です。漢字は表意文字とか表語文字と呼ばれるように、それぞれ意味を持っていますし、その語源も白川静氏の「字統」などを引けばすぐにわかることです。ところが、漢字の講釈師たちの話には牽強付会が少なくありません。思いつくままにいくつか例を挙げると、
「食は人が良くなると書きます。それだけ食事というものは大切です」
「辛いは十回起ち上がると書きますが、最後の一回を起ち上がると幸せになります」
「吐という字は口偏に±と書きます。マイナスと取り除くと叶になります」
講義のテクニックと思ってやっておられるのでしょうが、無意味もいいところ。詐欺みたいなものです。こういう話をしたことは一度もありませんし、これが始まったら、すぐに講演会場を後にすることにしております。〈kimi〉

おセンチ

仕事に役立つかと考えてFacebookに入って何年になるでしょうか。ちっとも役立たないとわかってから、もっぱら親しい人たちとの交流に限定して使っていますが、それでも少しずつ「友達」の数が増えてきます。
知り合いの意外な一面が書き込みからわかったりするのは、Facebookのいいところでしょう。最近「友達」になったご高齢の紳士たちが、尊敬に値する見識とインテリジェンスの持ち主であることがわかったときは、ちょっと得した気分になりました。
そのような「友達」の中に、驚くほどの頻度でコメント(近況)をアップしている人たちがいます。「この人、いつ仕事をしているの?」と意地悪な疑問さえ感じるほどです。
薬業界の周辺情報をせっせとシェアしてくださる方がいたり、お子さんのためにお父さんがつくるお弁当を毎日紹介してくださる方、ご親族を亡くされて、ご葬儀からその後の面倒な諸手続まで、ほぼリアルタイムでご報告された方もいます。読んでいるうちに、こちらも思わず「南無阿弥陀仏」の心境になってしまいました。
そのような人たちには、ある種の共通点があるような気がします。
主張したいことや個人的な「思い」をたくさん持っていらっしゃるということです。しかし、それらを発表する場は多くありません。それでFacebookを利用しておられるのでしょう。それもFacebookの存在価値の一つなのかもしれません。
印刷媒体でそれらを表明する場合より、ずっと個人的な内容が書き込まれる点も特徴的です。読んでいるうちに「おセンチ」という単語が頭に浮かんで来ました。センチメンタルの略です。死語となって久しい昔々の流行語ですが、感傷的と言うとちょっと強すぎるときに使われていたかと思います。
まことに失礼ながら、熱心に書き込みをしているあの方この方を思い浮かべながら、おセンチな人たちなんだなあ、と密かに納得してしまいました。人間関係にどこか飢えている方々なのかもしれません。
たまには有益な情報もいただいていますから、それらの書き込みにはそれなりの価値は認めてはおりますが。〈kimi〉

効果測定の原則に関するバルセロナ宣言


広報活動の効果測定ほど広報担当者の頭を悩ませるものはありません。
現代の企業では、個々の企業活動がどのような結果をもたらしたのかを必ず評価することが求められます。投資効果、投資利益率、投下資本利益率、投下資本収益率、費用対効果、ROIなど種々の用語が使われますが、要するに「やっただけの効果があったのか」、「金を使っただけの見返りはあったのか」を評価して報告しなくてはなりません。そのような評価をもとに次の施策へとつなげて行く、いわゆるPDCAサイクルを回すことで企業の成長、発展が実現されるという考え方です。
ところが広報活動の効果測定には、普遍的な方法論が確立していません。世の中には、これこそが効果測定の決め手でもあるかのようなさまざまな手法が並び立ってはいるものの、どの企業にも、どのPRキャンペーンにも適応できる評価方法は未だ存在しない、と断言できます。言い換えれば、誰もが納得でき、比較対照でき得る普遍的な指標、KPIは確立していないということです。
そのような状況の中で、メディアやコミュニケーションの調査・評価に関する国際機関で英国に本部のあるAMEC(International association for the measurement and evaluation of communication)と、米国の非営利広報研究機関であるIPR(The Institute for Public Relations)が、2010年6月にスペインのバルセロナで開催した「効果測定に関する欧州サミット(2nd European Summit on Measurement)」において発表した「効果測定の原則に関するバルセロナ宣言」(Barcelona Declaration of Measurement Principles)は、企業の広報担当者や広報業界に大きな示唆を与えるものと考えられます。
この宣言は、すでにどこかでどなたかが日本語に訳されておられるのだろうと思いますが、ネット上では発見することができませんでした。
そこで弊社で拙い日本語訳を試みましたので、ここにご紹介いたします。正直に申しますと、宣言が言わんとするところを完全に理解し得ない部分もありましたので、ご意見やご指摘をいただければ幸いです。
なお、コピペはご自由ですが、その際は必ず「株式会社ココノッツ訳」とのクレジットを入れてください。
BarcelonaPrinciplesSlides_ページ_1


 

 効果測定の原則に関するバルセロナ宣言

 

AMEC & IPR(第2回効果測定に関する欧州サミット 2010年6月)

 

 広報の効果測定に関する7つの原則

1.目標設定と効果測定は重要である
2.アウトプット(露出)の測定より、アウトカム(成果)への効果を測定する方が望ましい
3.業績への効果は測定可能であり、可能なかぎり測定すべきである
4.媒体における効果測定には、量と質が求められる
5.広告費換算(AVEs)は、広報活動の価値ではない
6.ソーシャルメディアは測定可能であり、測定されるべきである
7.信頼できる測定には透明性と再現性が最も重要である


原則1.目標設定と効果測定は重要である

●目標設定と効果測定はあらゆる広報活動における基本である
●目標は可能な限り定量的であるべきで、そのPR計画には、誰に、何を、いつ、どの程度影響を与えることを意図したものかを明確にすべきである
●効果測定は、主要なステークホルダーによる認知、理解、態度、習慣行動における変化や業績への効果について、代表的な既存メディアとソーシャルメディアを含め、総括的にアプローチすべきである


原則2.アウトプット(露出)の測定より、アウトカム(成果)への効果を測定する方が望ましい

●アウトカム(露出)とは企業、NGO、行政あるいは事業体のステークホルダーにおける購買、寄付、ブランド資産、企業評価、労使関係、政策、投資決定に関わる認知や理解、態度、習慣などの変化のことであり、ステークホルダー自身の信念や習慣の変化も含まれる
●アウトカム(成果)に対する影響を測定する際は、広報活動の業務目的に合わせて調整が必要である。ベンチマークや追跡調査のような定量的な測定が適している場合が多い。しかし、定性的な手法がうまく適合することもあり、定量的な測定を補完するために使うこともできる
●標準的で最良の調査研究というものは、標本設計、設問の表現や順番、統計分析などすべてを通して透明性が保たれるべきである


原則3.業績への効果は測定可能であり、 可能なかぎり測定すべきである

●売上やそのほかのビジネス指標に対して、PRによる露出の質と量がどれほど影響したかを測定するモデルは、他の変数に影響されるとは言え、商品マーケティングやブランドマーケティングから得られた業績を測定するために推奨できる選択である。
関連するポイントは:
・クライアントでは、商品マーケティングへの効果を評価するマーケティングミックスモデル分析の必要性が生まれている
・PR業界は、他の測定アプローチとは異なるが、商品マーケティングPRを正確に評価するために、マーケティングミックスモデル分析の価値と意味を理解する必要がある
・PR業界は、マーケティングミックスモデル分析に信頼のおける情報を提供するようなPRの効果測定法を開発する必要がある
・調査研究はまた、広報的取り組みへの接触による、購買や購買嗜好や態度などの変化を抽出するのに利用できる


原則4.媒体における効果測定には、量と質が求められる

記事のクリッピング数や露出件数の計測はたいてい意味がない。その代わり、媒体における効果測定は既成メディアでもインターネットでも、以下の評価を行うべきである
●ステークホルダーや購読者・視聴者への露出件数
●以下を含む報道の質

論調(トーン)
ステークホルダーや購読者・視聴者に対するその媒体の信頼性と関連性
伝えられたメッセージ
第三者や企業のスポークスパーソンの登場
その媒体の適切な知名度

●質は、ネガティブ、ポジティブ、ニュートラルのいずれかになり得る


原則5.広告費換算(AVEs)は、広報活動の価値ではない

●広告費換算(AVEs)は広報活動の価値を測定するものではなく、将来の活動の参考になるものでもない。それらは、媒体のスペース料金を測っているのであり、広報の価値を測るという概念としては受け入れられない
●広告料を必要とするスペースと広告料を必要としないスペースのコストを比較する際には、目的を明確にし、以下の項目を反映した正当な評価方法を用いるべきである
・できる限り、その広告主に適用される個別の広告料金
・ネガティブな結果を含む報道の質(原則2を参照)
・報道された実際のスペース、そしてそれに関連した報道の量
●広告料を必要とするメディアに対し、広告料を必要としないメディアのスペース料金をより大きく見せようとすることは、特殊なケースで証明されている場合を除いては、決してすべきではない


原則6.ソーシャルメディアは測定可能であり、測定されるべきである

●ソーシャルメディアの効果測定は原則のようなもので、手法といったものではない。すなわち、単一の測定基準は存在しない
●組織は、ソーシャルメディアの目標や成果(アウトカム)を明確に定義する必要がある
●コンテンツの分析は、web検索の分析、売上、CRM(Customer Relationship Management)データ、調査データ、その他の方法で補完されるべきである
●伝統的なメディア同様、質と量の評価が重要である
●効果測定は、単なる“カバレッジ”だけではなく、“会話”と“コミュニティ”を重視しなければならない
●リーチとインフルエンスを理解することは重要であるが、情報源に遡及することができなかったり、十分に信頼できる透明性や一貫性がないことがあるので、実験やテストが成功の鍵となる


原則7.信頼できる測定には透明性と再現可能性が最も重要である

PRの測定はプロセスのすべての段階で、以下に特記したように、透明性と再現可能性のある方法で行われるべきである。
媒体測定
●コンテンツ(印刷物、報道、インターネット、消費者発信型メディア)の発信元とその収集基準
●分析手法 - 人間の手によるものか機械によるものか、トーンの尺度、ターゲットへのリーチ、コンテンツ分析のパラメーターなど
調査
●方法論 - 標本の抽出枠と大きさ、許容標本誤差、確率標本抽出法あるいは非確率標本抽出法
●設問 - 言葉遣い、順番など、すべて質問された通りに公表すべき
●統計手法 - どれくらい特異的な測定基準で計算されるか


株式会社ココノッツ訳 ©2014, CocoKnots Inc.                〈kimi〉
 

手帖と同窓生

20140525 暮らしの手帖広告
広報を業としている者が、メディアに関して批評がましいコメントをするのはおこがましいと言うか、控えるのが慣わしのようなものですが...。
暮しの手帖誌の広告の
「これはあなたの手帖です。この中のどれか一つか二つは、すぐに今日のあなたの暮らしに役立つでしょう」
というコピーが少々気になりました。
一言申し上げておきますと、最近は手に取る機会が少なくなったものの、子どもの頃からの大の暮しの手帖ファンです。いまはなき商品テストをはじめ、料理の記事や黒田恭一さんのレコード・CD紹介なども熱心に読んでいました。長じては、企業の広報担当者として、商品テストに対する異議を伝えるために何度か編集部へ足を運んだこともありましたが、決して嫌いにはなりませんでした。
さて、件のコピーです。「これはあなたの手帖です」と言いきる自信、素晴らしいですね。創刊以来の実績が言わしめるのでしょう。ではありますが、どことなく上から見下ろしているようなニュアンス、いわゆる上から目線が感じられないでしょうか。
戦後の日本社会で同誌が果たしてきた役割や位置づけは、何も知らない市井の人たちに教えてあげる、というものだったと思うのですが、現代日本の社会意識とは少し異なってしまったような気がします。
もう一つ、違和感を感じる雑誌記事があります。文藝春秋の名物企画である「同窓生交歓」です。功成り遂げた数人のクラスメートの記念写真とともに、その一人の短文を掲載するというもの。掲載された方の喜びはいかばかりかと拝察いたしますが、この取材に呼ばれなかった社長にも教授にも作家にも局長にも理事長にもなれなかったクラスメートのみなさんはどう感じておられるのか。このページを見るたびに、そちらの方が気になって仕方ありません。〈kimi〉

最先端はお好き?

その後、STAP細胞の論文への疑問やら韓国のフェリーの沈没やら、大きな事件が立て続けに起こったので、例の偽作曲家の話題は週刊誌やワイドショーからすっかり消えてしまいました。人の噂も七十五日。今頃、偽作曲家はシメシメと思っていることでしょう。
そんなことを思い出したのは、今朝の電車の中で、モーツアルトの弦楽四重奏曲を聴いていたからです。
モーツアルトばかりでなく、私たちが好んで聴くクラシック音楽はバッハ、ヘンデル、ベートーベン、ブラームスなど、17世紀から20世紀初めまでのいわゆる調性音楽です。コンサートでも演奏される音楽のほとんどが調性音楽です。そして、偽作曲家がゴースト作曲家から供給を受けていた音楽もまた調性音楽でした。それでCDがたくさん売れました。もちろん作曲家の耳に障害があるなどという修飾が大いに影響したわけですが、これが無調の現代音楽だったら、ほとんど売れなかったはずです。
新聞や雑誌からの情報によれば、ゴースト作曲家氏も本名で発表しているのは無調の現代曲だそうです。しかし、それは売れていない。
現代作曲家によるとんがった音楽は、誰がどう擁護しようが、そのほとんどが聴いていて面白いものではありません。まるでわからない。数学や理論物理学の最先端の講義を聞いているようなものです。何事によらず最先端を目指すことは大切です。しかし、最先端の部分は誰もが楽しめるものではありません。そこで多くの人たちは、現代クラシック曲には見向きもせず、もっぱらポップスやロックを聴くようになってしまったのだと思います。だって、その方が楽しいもの。
STAP細胞も、その研究を本当に理解できる人は限られます。私たちはわかったようなつもりになっているだけで、実はな~んにもわかっていないのです。そんな難しい話より、もっとわかりやすくて原初的な感性に訴えかける話題の方が楽しいに決まっています。そこで、何回STAP細胞ができたのかとか、ノートの冊数がどうとか、小保方さんが美人だとか洋服のブランドがどうだとか、そんな方面につい関心が向いてしまうのでしょう。〈kimi〉

南三陸町佐藤町長のお話

日本医学ジャーナリスト協会が昨年に続いて企画した東日本大震災被災地への取材ツアー(3月30~31日)に参加しました。被災地の復興がどこまで進んでいるのか、原発事故の影響は住民の健康や意識にどのような影響を及ぼしているのか等々、現地の方々からお話をうかがおうという企画です。気仙沼市、南三陸町、石巻市、女川町、仙台市(宮城県庁)、相馬市、南相馬市と3県7市町を駆け巡り、首長をはじめ地元開業医の先生、被災地の復興に尽力されている経営者や市民、「語り部」として活動しておられる方など10名以上のみなさんから直接お話を聞くことができました。
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印象に残るお話をたくさんうかがいましたが、その中の一つです。
死者625名、行方不明者199名を出した南三陸町の佐藤仁町長。町長ご自身も防災対策庁舎の屋上のアンテナにつかまって九死に一生を得ました。その佐藤町長は震災の直前、たまたま阪神淡路大震災の経験者の講演を聞いていて、そこで心に残っていたことが二つあったそうです。
一つは職員の食事を確保する必要性。
これはたしかに日本人がおろそかにしがちなポイントです。兵站(戦場の後方にあって、兵器・食糧などの管理・補給に当たること=明鏡国語辞典)は旧日本軍の最大の問題点でもありました。いまの企業においても業務の遂行にばかり熱心で社員の体力や健康への配慮を欠いたことによる悲劇が繰り返されています。
この3月に文庫本になったばかりの「河北新報のいちばん長い日--震災下の地元紙」にも、震災直後に「おにぎり班」を組織して、食料や燃料が入手できない状況下で震災報道に当たる記者たちを支えたエピソードが紹介されています。
二つ目はメディア対応の重要性。
佐藤町長は毎日自ら記者会見してメディアの取材を受けていたそうです。これはトップがするべきことだ、と町長は強調しておられました。トップが取材に応じるからテレビも新聞も取材に集まる。メディアへの露出が増える。その結果として全国的に注目され、援助額が他の被災地よりも大きくなったそうです。確かにテレビニュースや新聞でのインタビューで何度も町長のお顔とお名前を拝見したことを覚えています。
広報の基本をあらためて認識させられたお話でした。〈kimi〉

悪者にされた広報活動

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STAP細胞に関する論文に「重大な過誤」があったという発表と、それまでの一連の報道には驚きました。本当にSTAP細胞が存在するのかどうかはともかくとして、少々気になるコメントが複数の識者から出されています。
発表は功をあせりすぎた結果ではないか、早く“広報したい”という気持が影響したのではないか、というものです。ある高名なコメンテーターは、研究に広報が関与するのはけしからんといった発言までしていました。
これは極めておかしな意見です。「重大な過誤」が功を焦った結果であろうことは容易に推測できます。が、それと広報活動を安易に結びつけるのはいかがなものでしょうか。
早いタイミングで大々的に記者発表することで得をする人がいたとして、その人の関与があったのだとしても、それと論文内容の「重大な過誤」との間に因果関係があるはずがありません。割烹着姿での研究風景も、広報効果を狙った意図的な仕掛けであったかもしれませんが、それと今回の問題の本質とは別問題です。
素晴らしい研究成果はいち早く広く知られるべきものです。国民は知る権利を持っています。また、科学は自由な発表が保証され、反論の自由もまた保証されるべきものです。これには誰も異存はないでしょう。問題は、広報活動をすることにあるのではなく、「重大な過誤」のある論文を投稿したこと、また一流専門誌がそれを査読で通したことに尽きるはずです。〈kimi〉