地獄への道

吉野家でマーケティングの責任者をつとめていた方が、早稲田の社会人セミナーで、「田舎から出てきた右も左も分からない若い女の子を無垢、生娘なうちにシャブ浸けにする」、「男に高い飯を奢って貰えるようになれば、絶対に食べない」といった発言をしたと炎上し、解任されてしまいました。
なるほどね。この表現はまことにお下品で差別的だけど、マーケティングの行き着く一つの究極点、しかも地獄のそれかもしれないなあと思いました。私の乏しい知識によれば、マーケティングって人間を非人間化しないと理論構築できない面がある。その見本のようなものではないかしら。この発言に「わかる、わかる」と秘かに頷いているマーケッター諸氏が世に少なくないと怪しんでおります。コトラー教授が強調しているように、本当のマーケティングはそういうものではないのだろうけど、天国と地獄の分水嶺、どちらかに落ちそうな狭い塀の上を歩いているようなところがあるようです。
今回の騒動はまたマーケティングと広報の違いを象徴する出来事であるようにも思います。マーケティングは天国への道だろうが地獄への道だろうが、最後は「売上」に行き着きます。行き着かなければ失敗です。
一方、広報のゴールは社会に認識されて、理解を得て、その社会の一員と認められることです。その結果として売上と利益に貢献することになる。そこに人間を非人間化するような発想は存在しません。
と書くと、なにやら広報はよいことずくめのように思えてしまいますが、そうでもありません。広報にもまた怖ろしい地獄への道が口を開いています。最近すっかり有名になってしまったプロパガンダがそれであります。

SNS上の悲しみ

インターネット上に残った故人の書き込みや写真をどうしたらよいものかと、ときどき話題に上ります。
身近にも、Facebookで写真のグループを主宰していた写真家さんが亡くなり、その後も主のいないままグループが存続しているケースがあります。メンバーからの投稿は続いていますが、代表を他の人が継ぐことも閉鎖することもできないようです。
Facebookで経験するもう一つのつらい現実があります。
在宅医療の患者さんを支援する活動に携わっていた知人ががんの末期になってしまいました。彼は毎日のようにFacebookに書き込みを続けていて、その投稿の末尾には必ず「今日も無事に楽しくお疲れ様でした~ルンルン~」と記していました。その投稿は亡くなる数日前まで続きました。それを読む私たちは、彼の入院や治療や一時退院などの経過を逐一知ることとなり、病状が徐々に悪化して行くさまを目の当たりにすることになったのでした。
そしていまも知人が一人、末期がんと闘っている日々をFacebookに書き込んでいます。いまは書くことが、その人にとっての何ごとかになっているのでしょう。
SNSがなければ肉親や親しい友人だけに共有されていたであろう病気の進行を、それほどは親しくない私たちまでもが同時進行で知ることになる。SNSが登場するまでは考えも及ばない事態と言えます。
それがよいことか悪いことか、と二者択一で判断できることではありません。書き込む人もそれを読む人も、これまでとは異なる、なにがしかの覚悟が求められていることだけは間違いないようですが。

式が嫌いな次第で

冬季オリンピックが昨夜で閉幕しました。閉会式の中継は見ないで寝てしまいました。開会式も見ていません。昨夏のオリンピックの開会式も、事前にもろもろの問題が報じられていましたので、傍目八目で少々見たものの、やはり途中で寝に就いてしまいました。
競技は楽しませてもらいましたが、セレモニーにはどうにも興味がわきません。面白い趣向が登場するかもしれませんが、それがどうした?というカンジ。感性が鈍いのだと言われれば、その通り。セレモニーへの感性が薄いのです。
小学生のときから入学式だの卒業式だのにはうんざりしていました。校長の挨拶というか訓示というか、あんなものまるで聞いていなかったし覚えていません。来賓の地方議員やPTA会長の挨拶においておや。なぜあんなことが続いているのでしょう。大学の卒業式にも出席しませんでした。
先日、マンション管理組合の重要事項説明会というものが開催されました。1000人以上いると思われる住人のうち、出席者は6名のみ。管理業者の社員さんの説明と若干の質疑のみで終わりましたが、出席者の一人が「組合長がこの場に立ち会っているのだから、挨拶の一つもしたらよかったのに」と言っていました。そういう挨拶好きもいるんですね。ま、「けじめ」がほしいということかもしれません。その気持もわからないではありませんが。
さて、記者発表や記者会見をセレモニーの一種と思い込んでいる会社があるようで、これは大きな誤解だと思います。会社にとって記者会見の開催は一大事であることは間違いありませんが、記者会見は情報提供の場であると認識した方がよいと考えます。記者が会見に出席するのは、情報がほしいからであって、セレモニーに出席する栄誉を得たいと考えているわけではありません。だからエライ人の単なる「ご挨拶」は不要です。エライ人が登壇する以上は、報道に足る情報を提供しなければならないのが記者会見というものです。

誤用を「お聞きします」

「お聞きします」という表現は日本語としていかがなものか、ということになっております。
上はwordにATOKで「おきききする」と打ち込んで変換をかけたところですが、他の表現に言い替えろという指示が出て来ます。
「先生にお聞きしますと」
といった表現は誤用。
「先生にうかがいますと」
が本来の日本語の敬語表現。
ところが、いまは「お聞きします」ばかりで「うかがいます」なんてほとんど耳にしません。テレビを見ていると出演者たちが、アナウンサーを含めてみな「お聞きします」、「お聞きします」と何の疑いもなく連発しています。ディレクターがチェックを入れないのかしら、とも思うのですが、若いディレクターに「お聞きして」もまともな返答が返って来るとも思えません。
実は筆者もときどき口にしてしまいますので威張れたものではありません。それではいけないとずいぶん前に反省して、以後、意識的に「うかがいます」と言うように心がけています。何年間も意識し続けていると、90%くらいの割合で「うかがいます」になっているかと思います。だから意識すれば修正可能ではありますが多勢に無勢。すでにすっかり「お聞きします」の世になっています。
たとえばメディアトレーニングなどで、年配の社長さんが「お聞きします」とおっしゃったとき、修正をお願いすべきかどうか大いに迷います。信頼を得ようと思えば「うかがいます」、若さを演出したいなら「お聞きします」かなあ。よくわかりません。

自分から見つけないと・・・

写真のセンス、天性なのか努力の賜なのかわかりませんが、確かにセンスのよい人がいます。いい瞬間を撮るとか、いい構図で撮るとか、面白いものを見つけて撮るとか、そのようなことを全部ひっくるめてのセンスなんでしょう。
知り合いのアマチュアカメラマンは花火の写真にかけては名人です。独自の技巧を駆使した色鮮やかな花火の写真は、展覧会などでも多くの人たちを魅了します。新型コロナで各地の花火大会が中止になると、ダイヤモンド富士なるものに挑戦し始めました。富士山の真上に太陽が昇る、あるいは沈む瞬間を撮ろうというものです。さまざまな場所と方角からその一瞬を狙います。なかなかに美しい。ところがその人、街角の状景などを撮るとからきしダメでなんです。大量にシャッターを切りますが、ほとんどがゴミです。どうしてそうなるのか、と考えてようやく一つの結論に達しました。
花火もダイヤモンド富士もそれ自体が美しい。そこに技術は必要だとしても、美しさは向こうからやって来ます。
街角のスナップ写真はそうは行きません。それほど美しくも面白くもない風景の中から、興味をひく一瞬や面白い状景を、自分で見つけ出さなければなりません。
広報の仕事にも同じような問題がありそうです。世の中が沸き立つ要素をもともと持っている製品やテーマがある一方、これはまいった、と言いたくなるような地味で面白みの少ないテーマもあります。それをどのように広報活動に結びつけたらよいのか。「面白さ」はいつも向こうからやってくるわけではありません。地味なテーマや専門的な製品の中に面白さや素晴らしさや社会の利益になるポイントを自分たちで見つけ出す。これですよね、大切なのは。

わかる人にはわかる

写真は今日の朝日新聞の記事です。いま放送中のNHK「連続テレビ小説」の今週のあらすじが書いてあるのですが、読んでもさっぱりわかりません。毎朝見ていて登場人物やら筋の展開を把握している視聴者にはたぶん理解できるのでしょう。
一部の人だけしかわからない記事を全国紙が掲載してよいのか、という議論はさて置き、このような「わかる人にはわかる。わからない人にはわからない」現象は、あちこちで見かけます。
産業系の新聞や業界紙などの記事にも多いですし、業界系のサイトなども門外漢にはさっぱりです。新聞系のメディアで育った人たちは、中学生でもわかる記事を書けとたたき込まれたそうです。いまもそのような教育がされているのだろうと思いますが、少しゆるんでいるところもあるのかな。「わかる人にわかればいいや」というのも、やむを得ないところがあります。全面否定する気はありません。
広報の仕事でプレスリリースを書くときも、似たような戸惑いを感じることがあります。BtoB企業のリリースで、業界関係のメディアだけに配布するというのであれば、読み手の基礎知識にすがって、その人たちだけが理解できる内容のリリースでも許されるのかなとも考えます。そのあたりが迷うところです。
企業にいたとき、IT系の専門誌からシステム更新について取材の申込みを受けました。対応するのはシステム部長です。その取材に立ち会ったら、二人の会話がまるで理解できません。外国語を聞いているようでした。掲載された記事も、読者のどのような興味と関心に応えようとする記事なのか、ほとんど理解できませんでした。
ある関西系の芸人さんのYouTubeを見ていたら、別の芸人さんと掛け合いトークをやっていました。二人は古くから昵懇の間柄のようで、内輪話が次から次へ出て来るのですが、その中でやり玉に挙げられている芸能人たちを知らないのでちっとも笑えませんでした。
「わからない」は「面白くない」に通じる。当たり前のことだろうと思いますが。

他山の石

発車間際のバスに乗り込んだら座席はほぼ埋まっていました。やむを得ず運転席の真後ろの高い座席によじ登りました。
その目の前に掲げられていたのが写真の掲示です。内容を以下に書き写します。行番号をふってみました。
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1)私たちは社会基盤としての役割を果たすため、バスの運行を続けています。
2)このバスを運転している乗務員にも家族がいます。
3)バスをご利用のお客様は、新型コロナウィルス感染症まん延防止のため、必ずマスクの着用をお願いいたします。
4)○○バス株式会社 ○○営業所
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さて、どうでしょう。言いたいことはわかります。でもちょっと違和感を覚えませんか。
行ごとに読み解いて行くと、
1)は納得です。ご苦労様でございます。誠にありがたいことです。でもバス会社は営利企業であって慈善事業ではありません。乗車賃を払っています。いまの世の中、乗車賃収入だけでは運行を維持できず、公的な補助金やら支援金やらで補填されているのかもしれません。その金は税金で支払われているはずです。
2)もごもっとも。しかし、乗務員ばかりでなく乗客にも家族を持つ人はいますよ。その点に関しては、乗務員も乗客も条件はまったく変わりません。
3)のご注意は当然です。
さらに1)と2)と3)の間に論理的なつながりがありません。社会基盤としての役割のためにバスを運行していることと、運転手さんに家族がいることの間には何の因果関係もありません。乗務員に家族がいることとマスク着用のお願いとの間にも論理の飛躍があります。
繰り返しますが、バス会社の言いたいことはよくわかります。こんなつたないお願い文で訴えるのは、それだけ切実に感じておられるのかもしれません。
広報の仕事でもいろいろなお願いやら謝罪やらの文章を作成する機会があります。そんなとき、他山の石としてこのバス会社の「お願い」を思い出すことにいたしましょう。

広報ってブルシット・ジョブなの?

Bullshit Jobsという用語を知ったのは最近のことです。訳書の題名によれば、「クソどうでもいい仕事」といういささか品のない訳語になっています。
お高い書籍なので読んではいませんが、Wikiから又引きすると「ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」と何やら難しいことが書いてあります。
「こんな仕事、なんのためにやってるの? 意味ないじゃん」
と思いながら作業を続けたことは、会社員時代に何度も経験しました。どうもそういうことを指しているらしい。
そのような仕事ばかりする職業として、ホワイトカラーの仕事の多くをはじめ、弁護士、コンサルタント、広告代理店なども意味のない仕事なのだそうです。
就職を控えた学生のとき、ある大手広告代理店への大学推薦がもらえることになりましたが、すぐに辞退してしまいました。「それはもったいない」とその時もその後も多くの人たちから言われました。しかし、いずれ日本に革命が起きたら広告代理店などなくなってしまうのではないか、と真剣に考えていましたからちっとも惜しいとは思いませんでした。笑ってください。その程度の社会認識しか持ち合わせていなかったのですから。
それはさて置き、広報コンサルタントとしては、自分の仕事がブルシット・ジョブだと名指しされているわけで心穏やかではありません。しかも、
「それが無意味だってうすうす自覚しているでしょう? でもそれを取り繕っていますよね。それこそがブルシット・ジョブなんですよ」
と著者はこちらが考えるようなことを先回りして指摘しているらしい。
白状すればご指摘の通り〈無駄なことだよなあ〉と思うこともやっています。世の中の役に立っているのかなあと疑問を持つこともあります。
一方で、こんなよいこと(もの)は広く世の中に知ってもらう方がいいよなあ、と思いながら仕事をしていることも少なくありません。
そんなことを言うと、「ほら取り繕っている」と言われてしまいそうですが・・・。

人事評価のショーウインドウ

企業は社員を評価するもの・・・なのかどうか知りませんが、まあどこでもやっています。会社員だったときは、自分の評価がずいぶん気になったものです。当然ですね。それが給料に反映するわけですから。
いろいろな社員評価の方法やツールがつくられ、MBAでも人事の専門家が養成されていますが、真に誰もが納得できる人事評価法が開発されたという話は聞いたことがありません。
それでも何となく社内での評価はコンセンサスができて行くもので、あの人はそろそろ昇進してもいいよねという雰囲気が醸成されてくる。反対に「なんでェ?」という人事もしばしば起こります。世界中どこでも人事は人間くさい要素で決められて行くものらしい。
社内にいれば、その人間くさい部分がある程度見えることがありますが、社外からそれをうかがい知ることはできません。あの人がエラくなった、あの人が異動になった、ということはわかりますが、どのような経緯なのか、異動先でどんな仕事を任せられているのかなどは、外からはわからないのがふつうです。
ところがですよ、それがなんとなくわかっちゃう組織があることに気がづきました。
NHKです。あそこのアナウンサーのみなさんが、どんな番組でどんな役割を担当させられているのかに注意していると、それぞれの社内評価がわかるような気がしませんか。
なるほどこの人は上手だなあとか、華があるなあとか感じることがあるます。また地方へ行くと、こんなアナウンサーさんがNHKにいたんだなあ、と思うこともあります。具体的な例は出しません。しかして、これは職員としてはかなり厳しい環境ではないでしょうか。そう考えると、テレビを見ているこちらも少々つらくなってしまいますが。

ぎりぎりセーフ

友人が主宰する前衛劇団の公演を観るために久しぶりに横浜まででかけました。
開演前に腹ごしらえをと中華街でチャーシューメンを食べながらスマホを見ていたら、知人の視覚障がいのある方からメールが入ってきました。
詳しいことは知りませんが、音声に変換してメールを読んだり書いたりしておられるようで、少々の漢字誤変換はあるものの、ほぼ普通のやりとりができます。すごいなあ、といつも感心してしまいます。
さて、チャーシューメンを食べ終わって向かった県立芸術劇場の入口には、大きく「盲人達」と書いたポスターが貼られていました。これから観ようとする前衛演劇の題名です。童話劇「青い鳥」で知られるフランスの作家メーテルリンクの書いた戯曲で、それを友人の演出家が大胆に再構成して上演するというものです。
「盲人」という言葉もあまり耳にしなくなりました。ほとんど「視覚障がい者」とか「目の不自由な人」とかに言いかえられています。
「盲人」は差別用語とされているのではないか、それはまずいのでないかと心配になってネットで調べたら、いまのところ差別用語とまではされていないが、限りなくクロに近いグレーという位置づけのようです。ぎりぎりセーフといったところでしょうか。そうでなくては県立の施設での上演は難しかったのではなないかと勝手に推測しました。「めくらたち」だったら完全にアウトとなったでしょうが、この戯曲の過去の日本語訳でそのように訳したものはなかったようです。
いま上に「障がい者」と書きました。「障害者」の害の字は適当でないから「障碍者」と表記すべきだという意見もあり、無難な「障がい者」にしておこうとか、行政や報道機関が調査をしたり議論したりしていますが、これも結論は出ていないようです。
何が差別用語になるのかという議論は極めてセンシティブです。人によって受け止め方に大きな違いもあるようです。それぞれの用語の是非はともかく、広報活動を進める上では、「差別用語」と疑われる言い回しには十二分に注意すべきであるのは間違いありません。