新聞紙は役に立つ

すでに旧聞に属しますが、福島第一原発2号機のピットと呼ばれる溝から高濃度に放射能汚染された水が海に流れ出ていることがわかりました。結局は水ガラスを使って流出を止めることに成功したようですが、最初に試みたのはピットにセメントを流し込むことでした。それで効果が見られず、次に試みたのは吸水性ポリマーとおが屑と新聞紙を詰めることでした。
その作業が報じられているとき、テレビである新聞人が「新聞がお役に立ってよかった」と発言しているのを耳にしました。
ちょっと待ってください。新聞を役に立てようとしているのではなくて、新聞紙を役立てようとしているんでしょ、と思わず突っ込みたくなりました。新聞紙は、寒い避難所でも防寒具の代りに役立ったかもしれません。日本では新聞紙は津々浦々まで配達されているので、こういう事態ではいろいろと応用範囲が広い。書かれている記事はほぼ1日でその価値を失ってしまうにもかかわらず、紙の方はその後にも利用価値がある。それはそうですが、その新聞人の暢気な発言を聞いて、なにか新聞の将来を暗示しているような憂鬱な気分になってしまいました。〈kimi〉

どうして日本人は兵站を軽視するのか

被災地のみなさんにはまだ必要な物資が十分届けられていないようです。もどかしい限りです。やむを得ない事情もあるのでしょうが、たてまえ主義や形式主義や官僚主義によって物事が進まないということもきっとあるに違いありません。それを考えると腹立たしい限りです。
そんな中で、福島第一原発で作業に当たっている人たちの食事が1日2回で雑魚寝状態であると、数日前に報じられていました。その後、改善されているでしょうか。
腹が減っては戦ができぬと昔から言われています。当たり前のことです。しかし、目の前に任務や仕事があると寝食を忘れてそれに取り組むことが善であるという観念が日本人からはどうしても抜けないようです。それが日中・太平洋戦争での兵站軽視につながっていて、いまの福島第一原発にまでつながっていると考えると、これはもう日本人の宿痾としか考えられません。長期戦では、マンパワーが途切れることなく最大限に発揮できるようにすることこそが勝利への最重要課題でしょう。
先日ご紹介した『広報の基本』は産業編集センター刊「企業広報ブック」シリーズの第一巻ですが、その第六巻は危機管理広報に長い経験をお持ちの田中正博さんによる『クライシス・コミュニケーション』です。その中で田中さんは、クライシス発生時の備えとして次のように書いておられます。
「対策本部には常時、いろいろな社内の要人が出入りする一方、常時、在席しなければならない経営陣、管理職、担当者がいます。こうした人たちのために飲料と食事、あるいはドリンク剤は欠かせません。人数が多くなれば意外と多量の飲食料が必要になります。それを保管するための冷蔵庫が必要です。とりわけ、食事は重要です。長期対応に備え、食事は簡単な弁当では済みません。モラール(士気)に影響します。多少、値がはってもおいしい仕出し弁当にしておくことが肝要です」
これを読んで、「なんだつまらないことを書いている」と思った人は直ちに対策本部から出て行っていただきたい。私はこの指摘に大いに共感いたしました。〈kimi〉

圧迫ストッキングは必要だけど

その電話は突然でした。
「震災避難所での二次的な健康被害を防ぐ企画だ」というのですが、話を聞けば聞くほど頭の中が混乱してよくわかりません。いろいろ質問をしてようやくわかったのは、その電話の主が圧迫ストッキングの輸入元であるということです。その圧迫ストッキングを避難所に送りませんか、ということらしい。
とくにご高齢の方は避難所で長時間毛布にくるまってじっとしておられることが多いようです。そこで心配なのがエコノミー症候群。その予防には、静脈を強く圧迫する弾性ストッキングが有効であろうということは、2007年の中越沖地震のときにクローズアップされ、よく知られるようになりました。今回の地震でも、発売元の一つであるテルモが寄贈することをすでに発表しています。
これはなかなかよい企画ではないかと思いました。そこでさらに話を聞いてみると・・・
被災地で生活する方々へ支援物資を送りたいと考える企業がその輸入元にお金を払う。すると輸入元が日赤に圧迫ストッキングを寄贈する、というのです。
これって、なにか変じゃありませんか? 要するに、その会社の圧迫ストッキングを買ってほしいということなんです。ご丁寧にも自社サイトに申し込み書まで掲載しています。
被災者を食い物にして商売をしようとしている。これでは社会貢献の衣を着たオオカミです。おためごかし。火事場泥棒、いや震災地泥棒の一種と言ってもよいでしょう。いまも怒りが収まりません。〈kimi〉

社会との良好な関係を築く『広報の基本』

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こんなときにタイミングがよいのか悪いのか。ココノッツの企業サイトのトップページ“What’s New”でもご紹介しましたが、さる3月18日に、「社会との良好な関係を築く 広報の基本」(産業編集センター刊、定価1,360円税込) を上梓しました。その『あとがき』から数行を引用いたします。
「一流企業と呼ばれる一部の大企業で広報活動が活発に行われているのは間違いありません。マーケティングと連動した商品広報もにぎやかに進められています。ネット広報も盛んです。にもかかわらず、予期せぬクライシスに見舞われると、それまでは自信満々に展開していた広報活動や情報開示に対する企業姿勢がどこかに隠れてしまい、稚拙なコミュニケーションで世界中から非難を浴びてしまう。そのような「一流企業」の姿を私たちはしばしば目にします。企業の本質の部分に、広報はまだ根付いていないのではないでしょうか。」
もちろん今回の大震災の起こるはるか以前に書いたものです。〈kimi〉

結論を先に言いなさい!

こういう複合危機状況の中では、書きたいことは山ほどあれど、書くべきことと、いま書いてはならないことが複雑にからみあっています。危機を脱しようとすべての人が努力していると信じたい。そのようなときに、揶揄したり批判したりすることは慎みたいという気持が働きます。つまりはブログが書きにくい。
政府、役所、企業などの記者会見がこのように連日テレビ中継されるなんてことは、極めてまれなことです。危機管理広報の実例を毎日勉強させられているようなものです。
書きにくいけど、気がついたことをいま一つだけ書いておきます。
緊急記者会見では結論を先に述べるべきです。
国民のすべてが、いまどうなっているのかを知りたい。何をやって、どうなっているのかを知りたい。それをまずアナウンスすべきです。そのあとで、「というのは・・・」と背景説明をしてほしい。テレビ中継されている記者会見で、報道資料の説明など後回しにすべきです。そんな単純なことがどうしてわからないのか。そのことに毎日イラだっています。〈kimi〉

カンニングについて

大学入試のカンニング事件もヤマを越したらしく、すっかり報道が少なくなりました。少々やりすぎたか、とメディアの側も反省したのかもしれません。携帯を使ったという点、ネットの質問サイトを利用したという点、それらが新しかった、つまり”ニュース”だったというだけのことで、よくよく考えたらただのカンニング過ぎないということになったのでしょう。
その大騒ぎ報道を見たり読んだりしながら、学生時代に耳にした話を思い出しました。うろ覚えですが、こういう話だったと記憶しています。
文化大革命当時の中国でのことです。一人の紅衛兵がカンニングをして捕まりました。すると、毛沢東はこう言いました。
「カンニングをしたっていいじゃないか。それでその子は知識を一つ身につけたのだから」
この話に当時の私はえらく感心してしまいました。これは見事な「発想の転換」ではないか。物事を別の角度から見る面白さを、この逸話で学んでしまったのです。
誤解をしていただきたくないのですが、私は毛沢東主義者でもカンニングの擁護者でもありません。カンニングに成功したこともありません。カンニングで知識が増えるかどうかに関しても、大いに疑問を抱いております。
しかし、カンニングという行為は、どこか窃盗や傷害といった犯罪とは異なる面があるのかもしれない、とも思うのであります。〈kimi〉

情報のレセプター

さる休日、友人たちと東京を散策するつもりで、昼前に山手線の某駅を出発しました。
歩き始めるとほどなく、幕末の歴史に必ず登場する人物のお墓があるという道標を見つけました。ついでだからと寄ってみることにしました。
目的のお墓に近づくと、初老の男性が一人立っていて、意味ありげな視線を私たちに送っています。男の帽子には、これも幕末に活躍した人物の名が縫い付けてあります。気になりながらも、その前を通り過ぎてお墓の前に着きました。
「この人、お妾さんが大勢いたんだよなあ」などとお墓の下の人について無責任なことを話していると突然、「このお墓、ちょっとおかしいと思いませんか?」と後ろから大きな声がしました。その男です。
私たちが何も答える前に男は、その墓がいかに尋常と異なるかということを滔々と説明し出しました。これが長い。中身は省略しますが、やがて同じ説明の繰り返しになってきました。
悪いことをしようとしているようではありません。お金をとるわけでもない。しかし、男の説明を聞いているうちに、一刻も早くその場を立ち去りたい気分になってきました。
これから先は憶測に過ぎませんが、男は歴史好きの勉強家であるようです。自分の知り得た知識や驚きを、他の人にも伝えたい。しかもできるだけ多くの人に伝えたい。そういう熱意が話し方に表れています。しかし、一介の市井人にはカルチャーセンターの講師になる道もなく、雑誌から原稿を依頼される機会も訪れません。思いが余って、このような行動をとらせているのではないか、と勝手に想像しました。もしそうなら、その気持ちはとてもよくわかる。しかし、そこはかとなく悲しい。それが、居たたまれなくなった原因です。
これは広報活動の一面をも示しているような気がします。伝えたいことはたくさんある。どうしても伝えたい。その気持があふれるほどあっても、聞きたいと思っていない人の耳には入りません。よく効くと言われる薬でも、患者さんにレセプター(受容体)がなければ効かないのです。話を受け入れてもらうためには、レセプターを用意してもらうための前段階が必要です。唐突な情報伝達は、成功確率が低いと言えます。
残念ながら、その男の話に対するレセプターをそのときの私は持っていなかったのでありました。〈kimi〉

取引上の関係について

医薬品や医療機器のビジネスに、他の業界から入った人たちが等しく感じることは、顧客である医師との関係が、一般の取引関係とは明らかに異なっているということです。売り手と買い手の間に立場の違いがあるのは当然ですが、社会的地位の違い、ときには人間の価値の違いまで想起させるような極端な上下関係は、やはり奇異なことと言ってよいでしょう。
少なくとも1960年代まで、製薬会社の営業社員(当時はプロパーと呼ばれていました)が開業医の奥さんから買い物を頼まれることは決して珍しくありませんでした。そんな名残がいまに続いていて、MR(医薬情報担当者と呼ばれる営業社員をいまはMedical Representativeと呼びます)を一度でも経験したことのある人は、医師の前では無意識に揉み手をして頭が下がってしまう。そんな光景を実際に何度も目撃しています。
さて、最近気づいたのは、PR会社と取引先との関係です。これが隣接分野であるIRの支援会社と取引先との関係に比べて少々違いがあるようなのです。
端的に言ってしまえば、多くの企業はIR支援会社にはアドバイスを求めるのに対して、PR会社には指示をする、というカンジです。
資本市場というのは、一般の事業会社には理解しにくいところがあります。アナリストはどのような考え方をするのか。ファンドマネージャーはどんな企業を評価するのか。上手にIRをするにはどうしたらよいのか。それやこれや、IR支援会社の意見を求めることが多いようです。それを受けて「こういう発表に仕方はよろしくありません」といった助言が日常的に行われています。
それに対してPR会社には、新製品のパブリシティの提案を持ってくるように、とか、○月○日に発表を行うから用意をするように、といったご注文が多いように思います。これはアドバイスを求めているということではありません。PR会社の方から「御社のそういうやり方はマズイですよ」なんて、なかなか言いにくいのがPRの世界です。実際、そのようなアドバイスを差し上げて、仕事がなくなってしまったことがあります。
このような相違が生じたことにはPR会社の方にも責任があるようです。日本にPR会社が生まれてからこの方、しっかりと企業にアドバイスできるだけの専門性をどこまで蓄積してきたか、ということです。もちろんソリューションで成果を挙げておられるPR会社も存在しますが、まだまだ少数派です。
広報のコンサルテーションを掲げる弊社としても、自戒を込めて今後の課題にしたいと思います。〈kimi〉

イク~、なんてね

ほぼ一年前から、本の原稿を書き始めました。それが来月に、ようやくカタチになる予定なのですが、校正の段階で悩んだことがいくつかありました。たとえば「言う」と「行く」です。
「それはこういうことです」などと書くときの「いう」を、私は原則としてひらがなに開くことにしています。では、「それは違法であるといわれています」はどうか。この例では、不特定多数の人たちが言っているということですから「言われています」の方がわかりやすいでしょう。一冊の本の中ではできれば統一したいものですが、無理に統一しようとすると、どこかで矛盾が生じてしまうようです。それぞれの文脈によって異なっていてもよいのではないか、という(注:この場合はひらがなでしょう)ような鷹揚なスタンスが正解であるように思います。
「企業ごとに見て行くと」といった場合の「行く」にも悩みました。編集者さんからは「いく」に統一しましょうと提案されました。これには少々違和感を覚えたのですが、結果としては提案に従うことにしました。
違和感というのは、私は「行く」を「ゆく」と読むのを好むからです。辞書では「いく」も「ゆく」も許容されています。現代では「いく」と読む人の方が多く、「ゆく」は伝統的であり、古めかしいとも言えます。その妥協として、私はいつも「行く」と漢字で書くことにしています。
もっとも「いく」と「ゆく」と、漢字の「行く」には微妙なニュアンスの違いがあることも十分承知しております。表題に掲げた「イク~」などは、「ユク~」でも「行ク~」でも表現できかねる状態を示しておりますな。
さて、一昨日のことです。新しくiPod Touchを購入しました。いままで愛用していた旧機種より軽いし、WiFiのある環境ならメールもできるしサイトを見ることもできるので、これは便利じゃないか、と考えたからです。そこで新機種をあれこれいじっておりましたら、この機械では、「ゆく」と打って「行く」と漢字変換できないことに気がつきました。編集者さんの提案は卓見であったとも言えますが(注:この場合は「言え」でしょう)、アップルは日本語を知らないんだとも言えそうです。そうでなければ、明らかなバグですよ、これは。〈kimi〉

なんとかならないか年頭の辞

年明け早々の新聞には、企業トップの年頭の辞が並びます。これは企業広報の年中行事の一つで、暮れから原稿を用意して、新年最初の営業日にリリースします。近頃は年内に原稿をくれと担当記者から要請されることも多くなりました。なんだか年賀状のようです。
この年頭の辞って、いったい誰が読むんでしょうね。
社員:意欲のある社員はきっと目を通すでしょう。でも、これって社内にも流れる社長訓辞のサマリーですよ。新聞で読む必要は必ずしもありません。
取引先企業や銀行:この人たちは読みます。年始の挨拶に行ったとき、「社長、さすがにいいことを言わはりますなあ」なんて、ゴマをするネタにうってつけです。
競合会社:一応目を通すでしょう。おっ、あそこは今年やる気だなあ、なんてことがわかるかもしれません。
そのほかに、どんな方々が読むのか想像がつきませんが、各社のトップの言葉を読んでいると、毎年決まって登場する常套句に気づきます。「今年は厳しい」、「変化に対応」、「発想の転換」、この3つです。
どうも日本のトップは、キビしいキビしいと言っていないと気が安まらないらしい。後年振り返ってみれば、厳しくなかった年もあるはずで、そんな年に「キビしい」と発言したトップは現状認識が甘かったと批判されるべきでしょう。ぜひそのような覚悟の上で「キビしい」と言っていただきたい。
「変化に対応しなくてはいけない」というフレーズは、10年ほど前からしばしば耳にするようになりました。これには、小泉元首相が所信表明演説で引用した「この世に生き残る生き物は、力の強いものでも頭のいいものでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」という『ダーウィンの言葉』が付け加えられることが多いようです。ネットサイトによると『種の起源』にはこんな記述はないそうですが、なかなかよくできた警句ではあります。
「発想の転換」も聞き飽きました。毎年毎年発想の転換をしていたら、そのうち元の発想に戻ってしまわないかと心配になってきます。「発想の転換」と叫ぶトップの発想の方を転換した方がずっと御利益がありそうです。
すべてとは申しませんが、陳腐でおざなりな年頭の辞が多くて、新聞の読者としては面白くありません。そんなことは十分承知しております、と各社の広報担当者の方々はおっしゃるでしょう。切れ味鋭い年頭の辞を発表したいと思っても、トップ自身がそのように考えていなかったらどうにもなりません。広報各位のご苦労が忍ばれます。〈kimi〉